2013/06/27

祖母逝きてはや3年…なぜ〝夢枕〟に立たぬ?

こわ~い存在だった祖母が亡くなったのは3年前の6月26日。つまり、今日がその〝祥月命日〟で、朝から菩提寺のご住職にお運びいただいて、ねんごろに〝お経〟をあげてもらった。

歳月人を待たず―。月日が経つのは誠に早いもので、この3年間に、筆者が大変にお世話になった方々が次々とお亡くなりになっている。

先日も、その祖母のお謡い(観世流)の先生だった中山龍代さん(片町・中山農機具店)が百歳の天寿を全うされ、葬儀に参列してきたばかり。

そしてまた昨日(25日)、長年にわたって島原新聞社の営業部門で頑張ってくれた岩里久勝さん(74)が、家族懸命の看病もむなしく、黄泉(よみ)の国へと旅立っていった。

祖母(「オバアチャン」と呼んでいた)の享年は数え年で96歳。最期は入院先の松岡病院で迎えたのだが、50有余年も生きてきて、臨終の現場に立ち合ったのは初めての経験だった。

自分で言うのも何だが、筆者はとても涙もろい・・・・人間である。悲しい筋書きのドラマを観ていても、周囲の人間は平然としているのに、何故だか自分だけ涙が止まらない。

オトコとしては情けないと言うか、何とも恥しい限りだが、感情の起伏というのはどうにも押さえようがない。それに別段、悪いことでもないと思うし…。

一方、逆の見方からすると、辛くても、悲しくても涙を流せない状態は、これまた心理学的には異常である。やはり人間は、泣きたい時には、思い切り泣く方がよい。

3年前を振り返ってみても、恐らく家族の中でも筆者が一番泣いたのではなかろうか…?今改めてその〝要因〟を探ってみると、筆者はある意味ロマンティストで、過去の出会いや思い出を〝美化〟する傾向が人一倍強いように思う。

《オバアチャンと初めて会ったのは筆者が当時勤務していていた四国の空港だった。綺麗な総白髪。随分と派手な色合いの服を着て、颯爽とサングラス姿でタラップを降りてきた》

《その時、語ってくれたのは、東京の銀座(恐らく4丁目辺り)で道を尋ねられたという〝自慢話〟。「で、何と答えたの?」と聞き返したら、「喋れば田舎者てバルッじゃろもん!」と切り捨てられた》

《結婚式が終わってから、一人別室に呼ばれた。そしてこう釘を刺された。「アンタ、決して女遊びはしなさんなよ!もしもしてごらん、私が死んでから夢枕に立っとやけん!」

そうか、オバアチャンが亡くなってから、もう3年か…。それなのに1度も夢に出てこないよなぁ~。たまには会いたいよ~。

ご住職の肩越しに見えるオバアチャンの位牌に向かって、「会いたいのでそろそろ…」と切り出してみたが〝無言〟のままだった。逆もまた真なり!?