2013/12/06

横田町長の思い出…「山田太郎」ってWho?

3日、元深江町長の横田幸信さん(72歳)が亡くなった。まずもって心からお悔やみを申し上げる次第だが、4日午後7時からの通夜式の弔問客の多さには度肝を抜かれた。とにかく〝超満員〟だった。

喪主を務めたのは長男で㈲ワイエヌコンサル代表の横田耕詞さん。その耕詞さんがいつだったか、こんなことを言っていた―。

〈普通『家族そろっての外食』と言えば、子どもにとっては楽しみではないですか。でも、ボクの場合は違っていました〉

〈食事を済ませて車で家路につくと、必ずある『儀式』が待ち受けていました。それは国道57号の水無川辺りから始まるランニングのことです。父は有無を言わせず、大野木場の自宅まで走ることを強制したのです〉

耕詞さんが余りにも真面目な表情で幼い頃の思い出を訥々と語るものだから、余計におかしくて腹を抱えて大笑いしたことを覚えている。まだ、つい半年ほど前のことだ。

恐らく父親の思いとしては、「人間、たらふく飯を食っているだけではダメだ。しっかり体を動かして、頭も鍛えよ!」と伝えたかったのだろう。耕詞さん自身、そのことは良く分かっているはずだ。

閑話休題。横田町長で思い出すのは、就任時期が弊社の放送サービス開始とほぼ同じだったこと(平成3年5月)。つまり、双方ともスタート1カ月後には普賢岳の噴火災害に苛まれてしまったという事実だ。

通夜の会場で奥様もおっしゃっていたが、災害が激しかった頃は、役場庁舎に50日間ぶっ続けで寝泊りして〝陣頭指揮〟に当たっていた、という。

体力には相当自信があったようで、「荷物を担がせたら誰にも負けませんよ!」が当時の口癖。また大の牛乳好きとかで、弁当のご飯にかけて召し上がっていたという逸話もある。

個人的に印象深いのは「山田太郎」のこと。確か2期目の途中だったかと思うが、激務がたたって少し体調をくずされた時期があった。

折しもその年は、弊社が国の補助事業を使って深江町への延伸計画を立てていた時期で、「是が非でも同じ被災地の深江町からも出資を取りつけよう」と必死で行方を探したが、周囲にはきつく〝緘口令〟がしかれていた。

それでも筆者は諦めなかった。そしてついに入院先を探し当て、不躾にも押しかけた。その病室のネームプレートが「山田太郎」だったのである。

その時、横田町長は苦笑を浮かべながら「よくここが判ったね…」とだけおっしゃった。枕元には当時の高田知事のお見舞いの花。筆者は「いける!」と実感、その通りの運びとなった。

噴火災害から22年余。筆者個人としてもまた一人、大切な恩人を亡くしてしまった。合掌。