難しい情報の取扱い…保護も過ぎればギスギス
黙っていても鼻水タラ~リ。桜の開花も間もなくだというのに、鼻炎持ちには何ともつらいシーズンだ。聞けば、19日は県立高校の合格発表日だった、とか。そうか、筆者が「1番」(受験番号ですよ!)で合格してからもう43年もの歳月が流れたか…。
あの頃はまだ牧歌的と言うか、今のように「個人情報云々」といった風潮は一切なく、各新聞紙上には高校別に合格者の名前が逐一掲載されていた。
確かに、不合格の憂き目に遭った人にとってそれは、つらい仕打ちだったのかも知れない。ただ、今の時代のように、余りにも行き過ぎた「個人情報の保護」といった硬直化した姿勢ではかえって、世の中そのものがギスギスしないだろうか…。
かつて、島原新聞の最大の〝売り〟は、『こちら一一九番』という島原地域広域圏管内における救急車の出動情報だった。この企画は読者の間でも人気で、「あっ、あの方がケガをされている。お見舞に行かなくては」などと、大いに重宝がられたものだ。
一方で、「搬送されたことを知られたくない人もいるはず。プライバシー保護の観点からすれば大いに問題ありだ」などとする反対意見も出て、市議会でもたびたび論議を呼んだ。
そもそもは「救急車をタクシー代わりに使っている不埒な輩が沢山いて困る」との救急現場の切実な声を聞いて、「窮余の一策」としてスタートしたもの。掲載して欲しくない人はその旨を申し出てもらい対処する、という配慮も施した。
しかしながら、こうした努力も、心ない選挙事務所の新成人への〝祝電騒ぎ〟がきっかけとなって(?)水泡と帰してしまうことに。今にして思うに、誠に腹立たしく、残念でもある。
何によらず「情報」の取り扱いは難しいものだ。事件や事故の報道は特にそうで、時に「逆恨み」を買うことだってある。
一方で、事態をさらに厄介にしているのがインターネットの存在。責任の所在がはっきりしている報道機関と違って、個人レベルで手軽に発信できるので、プライバシー保護の問題などそっちのけで「書き散らす」という悪しき属性も否定できない。
3年前の東日本大震災を契機に、「絆」という言葉が色んな場面で盛んに使われるようになり、被災地では「家族」の存在価値が見直され、ボランティアスタッフ同士の結婚も増えてきている、という。
極めて素朴な疑問だが、果たして「絆」と「プライバシー保護」は相容れるものなのだろうか…。理想論かも知れないが、送り手も受け手も「何のための情報なのか?」をしっかり把握しておけば、あらぬ誤解など生まれまい。
勿論、プライバシーは守られなければならない。しかし、それが全てではない。でないと、「絆」など絵に描いた餅でしかない。
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