元に戻って最高の喜び…今こそ「温故知新」の精神で
主役二人はこの日の感激を以下のように伝えた。まずは阿南さん―。
「昭和13年5月2日に生を享け、長じて大牟田市役所に臨時職員として雇われた。本俸7400円」。
「島原に来て兄貴分の鐘ヶ江さんから主に教わったこと2つ。『他人の悪口を言うな』『商売相手の誕生日はメモを取らずにさり気なく覚えろ』」。
「振り返ってみると、色んな社会の節目に遭遇してきた。大牟田の労働争議、安保闘争、日教組島原大会、そして普賢岳噴火…」。
「昔の旅館のオヤジさんたちは本当に善い方ばかりで、島原もそれなりに栄えていた。今は残念ながら…。私の経験が役立つようであれば、もう一度『違う色の帽子』で祝ってもらえるよう頑張りたい」。
次いで加藤さん―。「海望荘には20年間お世話になった。やはり思い出深いのは観光宣伝隊のこと。『旅は九州・島原温泉』の横断幕を抱えて年に5回、それぞれ2週間ほどをかけて全国を行脚していた」。
「かつて島原は野球のキャンプ地としても知られていたが、平成7年を境にそれも途絶えている。今は護国寺さんにお世話になり、『おもてなしの気持ち』をいかに伝えるかについて腐心する毎日」。
二人は以上の様にお礼の言葉(要旨)を述べて、島原城薪能振興会(満井敏隆理事長)と天如塔の復元に取り組んでいる島原文化連盟(宮崎金助委員長)に金一封を贈った。
これに対し宮崎委員長は「還暦(60歳)は元に還ること。そして喜寿はこの上もない喜び。本日のお二方をはじめ皆様のおかげで、後25日で天如塔は元の姿に戻れる。本当に有難いことだ」と感激の面持ちで返礼の言葉を述べた。
このあと満井理事長(商工会議所会頭)が乾杯の音頭を取って、賑やかな祝いの宴席がスタート。風の噂で「その勢いは深更まで及んだ」と伺っている。
残念ながら筆者は所用で途中退席せざるを得なかったが、何故こうまで長々と発起人や来賓諸氏などの挨拶の内容を紹介したのか?について、少しだけ補足をさせていただく。
出席者の大半は多かれ少なかれ「観光しまばら」に係わりを持つ(持った)人々ばかり。そして島原全体が抱える目下の課題は、その復興策。古川市長はよく「オンリーワン」という表現で島原の潜在的な魅力について力説される。
大いに結構なことだ。島原にしかない&島原ならではの素晴らしさがまだまだそこかしこに残っている、或いは眠っているからだ。
敢えて言うなら、先輩方はビジネスにおける「勝ち方」を知ってはいるが、やや「時代性」に欠けている点は否めない。
今こそ現実を冷静に見つめ直し、「温故知新」の精神で「しまばら復活」の狼煙を威勢よく打ち上げて欲しいと願うばかりなのであります。妄言多謝!!
‐おわり‐
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home