全ては周囲のおかげ…挫けず続けてきて良かった
「いや~まったくもって周囲の皆さんのおかげ。それより僕なんかが頂いていいものかどうか…」。春の褒章で「黄綬褒章」に輝いた、県花き振興協議会会長の立光一孝さん(59)=雲仙市吾妻町=は病室で静かにその歓びをかみしめた。
今月上旬に持病の頸椎損傷の手術を受け、現在は入院生活を続けながら一日も早い〝現場復帰〟を目指して、懸命にリハビリに努めている。
高校を卒業後、将来の洋ラン栽培を夢みて名古屋で3年間の研修所暮らし。溢れるロマンを胸に帰郷したものの、周囲には〝夢〟を語れる仲間もなく、資材の調達にも事欠いた。
ただ、挫けなった。足かけ15年。その苦労がやっとのことで実り始めた矢先、普賢岳噴火災害に出遭う。忘れもしない平成3年6月3日の大火砕流だ。
「このままではすべてがダメになる!」。危機感が次なる大胆な行動へ突き動かした。イトコで菊栽培を手がけていた吉田良一さんとともに、新天地を求めて吾妻町へ移った。当時36歳。吉田さんはまだ21歳の若さだった。
「本当にもう、目の前が真っ暗になった。父の代の温州ミカン栽培から転進を図って、やっと経営が軌道に乗り始めたところだった…」と、振り返る。
当然のことながら、新天地でも予期せぬ事態が次々と待ち受けていた。過労にストレスが加わって、入院生活も送った。そんな時、大きな励ましとなったのが県や地元自治体の手厚い支援策。マスコミ各社の報道も有難かった。
「最初の志と離れて、ややもすると折れそうな気持ちになった時、自分たちの動きを好意的に取り上げてくれた多くの記事やビデオを幾度も見直しては『負けてなるものか!』と、弱気の虫を追い払った」。
平成3年7月10日の天皇皇后両陛下のご慰問は特に忘れられない。島原市体育館に避難していた妻と長男に、直にお声を掛けて下さったのだ。
平成7年には、手塩にかけた「デンファレ」で、栄えある農林水産大臣賞を受賞。また、高田勇知事の計らいで、それまで遠い存在としか思えなかった首相官邸などにも自分の作品を納めることが出来た。
皇居での「謁見」は5月16日。「それまでには何とか退院して、失礼のない姿勢を保てるよう、もっとリハビリに励まねば!」。
写真は平成7年、農水大臣賞受賞を吉岡市長に報告する立光さん=左。島原市提供。
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