2014/05/11

仏の語源はほどける…十能って分かりますか?

3月末に母が亡くなって以来、毎週のように親戚や知り合いのお宅で葬儀が行われている。昔から「生ある者は必ず死あり」(楊子法言・君子)と言われているのだから、別段驚くに値しないのかも知れないが、これから爽やかな初夏を迎えようとしている矢先を想えば、何となく気が重い。

ところで、個人的な話題で恐縮だが、今日5月11日は亡き母の「四十九日法要」の日だ。たまたま暦の巡り合わせで「母の日」に当たってしまった。だとすれば、余計に感謝の誠を捧げねばなるまい。

「四十九日」は別名、「七七日忌」(しちしちき)や「満中陰」(まんちゅういん)とも呼ばれ、「初七日」から始まって一週間ごとに営まれる一連の「法要」の集大成とされている。一般的な慣わしからすると、この日を境に、死者は仏になり(成仏)、喪も明ける。

ただし、仕事上や諸々のお付き合いの関係もあって、筆者個人としては一足先に「娑婆(しゃば)世界」に復帰させていただいているので、母に対しては一抹の申し訳なさも感じているところである。

そんな心理状態で、臨済宗妙心寺派の僧侶にして作家でもある玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんが第125回芥川賞を射止めた『中陰の花』(文春文庫)を読み直してみた。

時間の制約もあって〃走り読み〃しか出来なかったが、どういうわけか所々に色鉛筆で線を引いたりページを折り曲げたりしながら、筆者にしては珍しく熱心に読み耽った形跡が残っているのだ。

何故なんだろう?それ程までに入れ込む必要も無かったはずなのに…などと訝っているうちに、「十能」(じゅうのう)という語句を丸囲みしている箇所に出合って何となく合点がいった。

最近の若者で「じゅうのう」と聞いてすぐにピンと来る人は滅多にいないだろう。勿論、間もなく老境を迎える筆者とて、そのすぐ後に「炭」が出てきたので、「あー、アノ小さめのスコップのような道具か」とやっと判ったくらいだ。

なるほど「万能」ではなく「十能」か…。今でも金物屋さんやDIYのお店に行けば扱ってはいるのだろうが、普段の生活の中でそれを道具として持ち出すシーンもそうざらにはあるまい。

母は筆者と同じ干支(未)の生まれで、典型的な昭和一桁世代。何につけても「始末が第一!」で、晩年に筆者がプレゼントした『昭和の世帯道具』という本を大そう喜んで読んでくれていた。

さて、冒頭記したように今日が「満中陰」。自宅の座敷に鎮座ましましていた「遺骨」ともいよいよお別れだ。玄侑さんによれば、「仏」の語源は「ほどける」だとか。どうぞ来世では、存分にほどけて「成仏」して下さい。ボクは今より千倍頑張って「万能」を目指します!?