2010/12/21

メタ認知でダイエット…期せずして茂木さんと一緒

「禁煙」を思い立ってはや三月(みつき)。主治医の先生のご指導よろしく治療は順調に進み、最近は周囲でモクモクやられても全然気にならなくなってきた。

また、さらなるオマケか、通常は「禁煙」の進展とともに増えるとされている「体重」もこのところ漸減(ぜんげん)傾向が続いており、血圧の測定値も安定してきた。

そんな中遭遇したのが、茂木健一郎さん(脳科学者)が文芸春秋新年特別号に寄稿している「この人の月間日記」。題して〈体重計に乗るだけの「朝晩ダイエット」〉。

家電メーカーのオムロンから先月1日に発売されたばかりの体重体組成計に、文字通り「朝」と「晩」に乗って体重を計るという、ただそれだけで済むダイエット法だという。

もちろん、それくらいなら不精な筆者にだってできるし、別にオムロン製でなくても、タニタだって構わないだろう。まずは茂木先生の努力の跡を…。

ネットで調べたところでは、同先生は筆者より7歳年下の48歳。身長がどれくらいあるのか知らないが、ご本人曰く「メタボ体質で、俳人の黛まどかさんから『腹の上のポニョ』と言われている」そうだ。

まず初日(11月3日・文化の日)。朝の体重は80.6kgその晩、勤務先の慶応大学での講演会の後に外食して82・3㎏に。差し引き1.7kgの増。

翌4日朝の体重は1.1kg減の81.2kg。「寝ている間にこんなに変化するとは知らなかった…」と述懐。夜80.6kg。

5日朝80.1kg。ツイッターでつぶやいたら、ホリエモン(堀江貴文氏)から返答があったそうだ。ちなみに、ホリエモンの一晩の減量幅は2kg以上だとか。その晩、学生たちとビールを飲んで81.4kg。

とまぁ、こんな感じで日記はダラダラと続いていくわけだが、さすがに当代きっての人気学者だけに、お付き合いの人脈の幅がモノスゴイ!

ある日には、チベットのダライ・ラマ法王と愛媛・新居浜市で対談。その2日後(夜)には、神田の文壇バーで参議院議員となった有田芳生(よしふ)、芥川賞作家の綿谷りさ―の両人と面談。

さらに2日後には、国際会議(サンディエゴ)に出席するため渡米。現地の学生たちと、ブラジル生まれの「シュラスコ」(肉料理)に舌鼓を打つ。

以下についても、誰それと飯を食って、何時間眠ったといったような他愛もない話が続いていくわけだが、結論として導いているのは、「意識する(メタ認知)。たったそれだけのことで」→「朝の体重が確実に減った(80㎏を切った)」という実証的データである。

脳科学者なのだから、もう少し詳しい説明を聞きたいところだが、ほぼ同じ振幅で増減を繰り広げているところに何より「親近感」を感じる。さあ、正月までにあと一絞り!!


2010/12/17

最初から巨匠はいない…〃視野〃を広めよ、若者諸君!!

「おざわはおざわ」でも、今日は「政界」ならぬ「世界のオザワ」の話をしよう!そう、あの世界的指揮者(最近では「マエストロ」と呼ぶのか…)の小澤(おざわ)征(せい)爾(じ)さん(75)のことだ。

16日付けの各紙でも紹介されているように、現在「食道がん」と必死に戦っている小澤さんが14日、ニューヨークのカーネギ―ホールで見事「復帰」を果たした、という。

この演奏の模様は前夜のテレビニュースでも繰り返し取り上げられていたので、家族と一緒に観ていたのだが、まぁー何と表現したら良いのか…。「感動的」というよりむしろ「鬼気迫る気配」を感じた。

報道によれば、まだ右腕が思うに任せない状況だという。それでも巨匠の動きはダイナミズムに溢れ、まさに〃魂〃そのものが白髪&痩躯(そうく)のカラダ全体に乗り移った感じだった。

ただ、この巨匠も最初から〃大物〃だったわけではない。そこが今日(きょう)皆さんに、一番申し伝えたい所だ。特に若い人たちに。

回りくどい言い方をしているが、この人の書いた『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)という本は、とてつもなく面白い。痛快無比と言ってもよい。

貨物船でヨーロッパに渡り、提供を受けた日本製のスクーターに跨(またが)って各国を歴訪。その間、次々と各種コンクールで優勝。ついには、ニューヨークフィルの副指揮者として凱旋帰国を果たしてしまう。

この本が書かれたのは昭和10年生まれの著者が27歳の時、と言われているから、まだ海外渡航が自由化される以前のことだ。さぞかし〃大変〃だったはずである。

それでも青年(著者)は世界を目指した。そして様々な国の人々と出会い、ともに暮らし、ともに泣き、ともに喜んだ。

もちろん、「音楽」とい使命を抱えての「目的のハッキリした旅」であるから、普通の人々より踏ん張れた背景もあろうが、半端じゃないのは事実だ。

良く言われる―「最近の若者はクルマも欲しがらないし、海外旅行にも行きたがらない」と。本当だろうか?もしそうだとすれば、「信じられない」と首をすくめるしかない。

金額の張るクルマはともかくとしても、筆者などは「海外に出たい!」その一心で前の会社に就職したようなものだから、その心境を量りかねるのである。

確かにインターネットがなかった昔と違って、今では海外関連の情報も手軽に取得できるようにはなった。それはそれで大変に結構なことだが、やはり「実物」や「本物」を見ないことには…。

そうしないことには真の「国際交流」も「ビジネス」も成り立つどころか始まるまい。さぁーこの本読んで、青年たちよ、海外を目指せ!ボーイズ・ビ・アンビシャスだ!!


2010/12/15

「兵站」の充実を図れ!?…後顧の憂いなく戦うために

「へいたん」と聞いて、「兵站」の字を思い浮かべるのは、戦争体験のあるかなりの年配者に違いない。筆者などは迷わず「平坦」の方を選んでしまう。

「兵站」を辞書で引くと、その意味は「戦場で後方に位置して、前線の部隊のために、軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などを任務とする機関。その任務」とある。「後方部隊」と言えば、もっと分かり易いか。

最近では、やや趣きは異なるが、よく荷物搬送用トラックの車体などに「ロジスティックス」という英文表記を眺めることがある。まあ、遠からずとも、似たような意味合いであろう。

ところで、ここ数日の間に、我が家の「兵站部」に突如として〃ある変化〃が現れて困っている。発端(原因)は他でもない、福栄会長の福崎理智子さんが本紙に寄稿された「断・捨・離」に関する一考察だ。

まずは筆者のシャンプー誤使用事件。前の晩に風呂に入らなかったため、出社前に「せめて洗面台で朝シャンでも…」と思ってその在処(ありか)を尋ねたら、「そこに赤っぽいボトルがあるでしょ!」との、投げやりな家人の弁。

確かにそれらしきモノはあった。しかし、何回洗っても泡が立たない。ちょっとオカシイ?とは思ったが、時間も無かったのでそのまま出かけた。後で聞いたら、それは「クレンジング・クリーム」という化粧落としの代物(しろもの)だった。

第2弾は今朝の出来事。不思議と筆者の「髪」に関する話ばかり続いて恐縮だが、いつもの養毛成分入りのヘアトニックが洗面台の棚から消えている。

「お母さん(嫁の母)、僕のトニック知りませんか?グリーンのボトルだったんですけど、見当たらなくなって。確かにここに置いていたんですが…」。

すると、母の言動に若干の変化が…。「グッ、グリーンって緑色のことね。あらっ、カラッポじゃったけん、燃えないゴミん方(バケツ)に入れてしもーた。もうキリで穴ば開けたんば!」と屈託ない。

とんでもない言い逃れだ!筆者は毎日のように使っているから、「残量」に関してはしっかりと把握していた。つまり、母は証拠隠滅(いんめつ)を図ったのだ。

かくして、我が家のゴミ類、及びその予備軍にとっては、これから年末に向けて、まさしく身も細るような「冬の季節」が待ち受けている。

げに恐ろしきはオンナの思い込み!「断・捨・離」が良いとなれば、ひたすら「その道」を突き進む。そこに一点の曇りもなければ、悪気もない。

ここで改めて注意を要するのは、世の旦那様方ご自身がゴミのように扱われないようにすること。何せオンナという生き物には、「後顧の憂い」というデリケートな感覚などありませんから!?


2010/12/01

「平成新山」に登る⑤…何事も、深めれば広がる!!

童謡『通りゃんせ』にもあるように、山登りの場合も「行きは良い良い、帰りは恐い」というフレーズがぴたりと当てはまる。とにかく、登った以上は下りないといけないのだから、厄介なのである。

よく、下り坂の辛さを称して「膝が笑う」などといった表現がされる。しかし、疲れも度を越してくると、「笑う」どころか、膝全体が連続してシャックリをしているようなものだ。

「火山尖岩」からの帰路は同時に、「恐怖の連続」でもあった。何せ、思ったように歩が進まないのであるから、いつ転げ落ちてもおかしくはなかった。打ち所によっては…。

ただ、「転ばぬ先の杖」とは良く言ったもので、その時ほど持参した「ステッキ」の有難みを感じたことはなかった。一方で、忍び寄る「老化」の影に怯えたのも事実である。

実際に計ったわけではないが、恐らく、「登り」に要した時間とほぼ変わらないくらい「下り」にもかかった、と思う。極端に言えば、このふくよかなお尻と伸縮自在のステッキだけが〃命綱〃だったのだ。

何はともあれ、ひとまずは山頂からの下山に成功。正面では、かつての溶岩ドーム跡と言われる「立岩の峰」が苔むしたような外観をさらけ出していた。

さらにそこから進むこと10数分。今度は北向きの屏風岩と対面。聞けば、そこがかの有名な「霧氷沢」。その名の通り、冬場の霧氷見物には絶好のビューポイントだという。

もうここまで来たら、普賢岳頂上は「指呼(しこ)の間(かん)」。ほぼ1年半ぶりにかつての〃頂点〃に立って、先程まで滞在していた新山を振り返ってみたが、雲が災いして全体像は掴めなかった。

とその時、「シミズマモルさんはいませんか?」と無線連絡が入ってきたのでビックリ!一瞬、何か起きたのではと心配したが、筆者の登山仲間と「紅葉茶屋」の休憩所で遭遇した清水先生(先発隊)からの事務連絡であった。

ならば!と仲間との〃合流〃を果たすべく急いで下りようとしたが、とにもかくにも脚が言うことを聞かない。そのうちに右膝に激痛が。それでも行くしかない。木々の幹や枝にもすがって、滑るようにして高度を下げていった。

やっとの思いで「あざみ谷」到達。リュックを背負ったままベンチに腰掛けて周囲の動きを観察してみるが、皆さん、疲れた表情など微塵も窺えない。個人の資質の問題か、寄る年波か…。もう、苦笑いを浮かべるしかなかった。

仁田峠までの最後の行程は清水先生が一緒に歩いてくださった。その時、先生から「とっておきの話」を伺ったが、関係方面にご迷惑をかけても困るので、ここでは敢えて語るまい。

ただ、少しだけヒントを言えば、研究の世界でも何でも「深めれば広がる」という普遍的な真実である。機会があれば、また是非参加したい。山はそこにある。 
 
-おわり-