2010/11/30

「平成新山」に登る④…アイツの電話はここからか!?

こけつまろびつ、全体力と注意力を振り絞ってよじ登ること約30分。ほぼ最後尾で「ベースキャンプ」と思しき平原(一面「賽(さい)ノ(の)河原(かわら)」)にたどり着いた。先発隊に指示を仰ぐと、ここで昼食だという。

適当な岩場を探し出して、倒れこむように座り込んだ。時計を見るとまだ正午前だったが、とにかく何か腹に入れておかねば、とリュックを広げた。

昼食はおにぎり1個とサンドイッチ1切れ。水で流し込んだ。真向かいでは、長崎新聞の松本記者が実に美味そうに一服。特段、羨ましくも感じなかったので、いよいよ筆者の「禁煙」も本物だ!

休憩時間中に汗をかいた下着を取り替えながら、災害時に聞いた、とある「エピソード」を思い出していた。まだ溶岩ドームが出現して間もない頃の話だ。

厳しい警備の眼をかいくぐって山頂を極めた「或る男」がいた。仮にその名を「A君」としよう。

夜―。A君は赤々と燃えたぎる溶岩ドーム(地割れ)のすぐ脇に佇み、満天の星空を眺めていた。

この世のものとは思えない美しさに陶然となった彼は、後先を忘れて、某研究者のもとに、時おり聞こえる「地響き」の原因について、携帯電話で尋ねてしまったのだ、という。

最初のうちは丁寧に受け答えしてくれていた研究者の方から、今度は逆質問が寄せられた。「ところで君、どこにいるの?」「エッ、僕ですか、今ドームの上です!」。当たり前だろうが、すぐに電話は切られた、という。

いやはや、世の中には「無鉄砲」というか、肝のすわった御仁もいるもんだと改めて感心しながら、再び重い腰を上げ、今回登山の最高峰「火山岩尖(かざんがんせん)」(スパイン)を目指す。

この日、麓の天候は比較的穏やかだったが、山頂付近は熱いキノコ状の雲で覆われていた。つまるところ、ドーム付近は「荒天だった」のである。

決してオーバーでなく、もう立っているのが「やっと」というくらい風が強かった。初心者の筆者が面食らうのも無理からぬ悪条件だった。

それでも「男の意地で登り通せて良かった」と思えるほど、頂上の景色は素晴らしかった。時おり暖かい大気が流れてくると思ったら、この日の噴気温度は146度。

松島准教授らの説明によれば、一時期は800度ほどあったというから、全体としては冷却傾向にあり、火山活動自体は安定しているそうだ。

それでも崩落の危険性は相変わらずで、登山の度ごとに周辺の様相は変化を遂げている、という。

時間にして30分もその場にはいなかったと思うが、個人的にはとても「良い思い出&貴重な経験」になった。年齢がほど近い橋口振興局長の勧めで「お尻の岩盤欲」も楽しんできた。


2010/11/28

「平成新山」に登る③…ナニ、初登山は俺だけかい?

申し遅れたが、当日の参加者はガイド役の九大観測隊を筆頭に、県や市の防災担当者、報道陣など合わせて約40人。

ひとしきり落ち着いたところで周囲を見回してみたら、筆者以外は全員「経験者」のようで、皆さんどことなく余裕の表情を浮かべている。

我が社のT君に尋ねてみると、彼も「もう6回目だ」という。どうやら「初登山」は筆者一人みたいだ。「とにかく落伍せず、ケガなどをして周囲に迷惑をかけないこと!」を、改めて胸に刻んだ。

藪に覆われた通路は折からの雨でヌカるんではいたが、歩けない程ではなかった。途中、途中のポイントで立ち止まっては、清水先生の講義を聞く。

「この石コロは噴火時にここまで飛んで来たものです。中身はまだ熱いまま表面が急速に冷えたためヒビが入っています。これを『パン皮状火山弾』と言います」―。

説明を受けながら、自分が段々と賢くなってきているような不思議な気分に囚(とら)われてくる。もちろん、それが全くの「錯覚」であることは知ってはいるが…。

そうこうしているうちに、「北の風穴」と呼ばれる調査ポイントに到着。さらに少し登った地点が、湯江川源流部の真上付近だという。辺りにはドームの重みではみ出てきた巨石がゴロゴロしていた。

一斉に雲が動き出した。すると視界も一変。見えた!見えた!あれが千々石断層で、手前が田代原。「皆さんがお利口さんだからですよー」。およそ科学者らしくない冗談を飛ばす寺井先生の口調に苦笑する。

ビックリしたのは、空中散布された雑木類の繁殖力。十有余年の歳月を経て、今ではしっかりと大地に根を生やし山肌を支えている。橋口忠美・県島原振興局長の口元が緩んだ。

まっすぐ進めば「鳩の穴」(今では埋没)との岐路となっているT字路を右折。さらに次々と現れる「急坂」をよじ登ること10分。と、突然!といった感じで巨大な岩山が姿を現した。

「ホエーッ、これが平成新山かぁー!」。豆をくらった鳩の表情はまだ見たことはないが、恐らくその時の〃呆(ほう)け面(づら)〃はそんなものだったろう。

「ここから先はハッキリ言って危険です。自信のない人は、ここで待機していて下さい」。松島先生の脅しにも似た警告。一瞬、「そうしようか…」と弱気も起きたが、「ここまで来て諦(あきら)めるのも恥ずかしい」との思いが勝った。

説明では「25分~30分で登頂」という話だったが、行けども、行けども、頂上はまだまだ先方。黄色と赤のマーキングを頼りに必死で歩を進めるが、何分「短脚」がたたる。

幾度かバランスを崩して反(そ)り返りそうになったが、すぐ後方にいてくれた毎日新聞の古賀記者に助けられた。ひょっとして彼は〃命の恩人〃かも知れない。


2010/11/27

「平成新山」に登る②…名残り留める風穴と氷室(ひむろ)

〃その場〃を取りなしてくれたのは、他ならぬ我が社のカメラマンT君。「うちはAと2人申請していましたが、Aの代わりに専務ということで…」。

「何言ってるんだ。俺はかりそめにも清水先生直々に誘いを受けたんだぞ!」と息捲(ま)こうかとも思ったが、大人げないので止めた。それに、その男性も〃責任感〃から発した言葉だろうから…。

出発に当たって、松島健・九大准教授とジオパーク事務局の寺井邦久先生(県教育センター主任指導主事)から、改めて諸注意。「なるほど、最初から余り着込んではいけないんだ」と、下着1枚を外した。

まずは全員で行程の無事を祈って、ロープウエイ駅脇にある「普賢神社」に安全祈願。筆者も清水先生と並んでお参りした。

そこから最初の休憩地「あざみ谷」まで同先生と歩く。途中、学生時代の貴重な体験談やこれまでの登山歴などの話が伺えて、とても面白かった。

読者の皆様もよくご存知の通り、仁田峠からあざみ谷までの距離は起伏も少なく、比較的楽なコースである。ただし、少し気になったのはペース配分。

先生は「ボクはゆっくり歩くので」と言われたが、筆者は内心「少し速過ぎじゃ?」と訝っていた。間もなく、その杞憂(きゆう)は〃現実〃のものとなった。

「いかん!」と思ったが、時すでに遅し。またしても有酸素運動への「切りかえ助走」に失敗してしまった…のだった。

10分ほど休んだ後、次なる目的地「紅葉茶屋」へ。急速に階段が増えて、息も上がってくる。「おかしい。経験から言っても、こんなはずはない」と自身に言い聞かせるのだが、カラダは正直だ。

20分ほど歩いて、ようやく紅葉茶屋に到着。松島先生ら先発隊の面々は余裕綽々の表情だ。それを横目に、リュックから水を取り出し、チョコバーとともに流し込んだ。

ただ、そこから先はようやくカラダも馴染んできたのか、息も整ってきた。そのまま左折すれば妙見・国見岳方面に繋がる交差点を右折。「立ち入り禁止」のロープ張り看板を超えると、いよいよ未踏の世界(警戒区域)だ。

しばらく進んで、最初の「風穴」発見!奥深く設置された「傾斜計」と「地震計」は、溶岩ドームが地表に出現する際の〃予知〃に成功した、という(平成3年5月)。「画期的だった」と、清水先生。

前面には「氷室(ひむろ)」と呼ばれる、天然の冷蔵庫。島原で養蚕(ようさん)が盛んだった頃には、カイコのタネがその場所に保存されていた、ということだ。

ジオパーク事務局の杉本伸一さんによれば、ここ以外にも多数の風穴があり、それぞれ〃個人所有〃だったというから、産業史や民俗学的観点から見ても、なかなかに面白い話ではないかと思った。


2010/11/25

想定外の〃噴火〃から…結婚24年目の普賢岳登山

土日を挟んだ連休も魅力的だが、週の間に祝日が入るのも、何となく儲けた気分になる。さしずめ今年の「勤労感謝の日」(23日)がそれに当たった。

日本におけるその由来は、「新嘗祭(にいなめまつり)」という宮中行事の一つで、天皇が新穀を神々に供え、ご自身も食して収穫に感謝する祭事だという(=学研『年中行事・記念日事典』)。

厳密に言うと、本来的な趣旨ではやや異なるものの、米国とカナダにも「サンクスギビング・デー」(感謝祭)という同様の祝日があるそうだ。

別名「七面鳥の日」(ターキー・デー)とも言われ、米国では11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日とされており、彼の地では街を挙げての大変な賑わいぶりだとか…。

個人的には、「勤労感謝の日」は自身の結婚記念日。数も数えたり、干支二回目の24年目だ。と言うことは、来年はいよいよ「銀婚式」。

そんな大事な日に、筆者は意を決して「平成新山」に登って来た。勿論、今でも「警戒区域」であるから、その行為自体ご法度だが、九大観測隊や防災各機関に特別のお許しを頂いて、ケツからくっ付いて行った、という次第だ。

すでに各紙紙面では山頂の現在の様子が事細かに報道されているので「後追い記事」の誹(そし)りを免れないだろうが、拙いながら、筆者なりの感じ方をお伝えできれば、と思う。

とは言っても、本コラムでは写真を掲載するスペースがない。社長に特別にお願いして、一面左肩(ジオパーク事務局の杉本伸一さんが載せていた場所)を借りることにした。

題して「写真が語る噴火20年目の普賢岳」―。いずれも愛用のデジカメで思いつくままにシャッターを切ったものであるが、なかなか良く撮れているとは思いませんか…?

その前に少しだけ「前説」をお許しいただけるとすれば、これらは全て過去20年間に筆者が味わった様々な思いを込めて撮影を試みたものである。

振り返ってみれば、雲仙・普賢岳が198年ぶりに眠りから覚めたのは、平成2年(1990年)の11月17日。筆者はまだ30代半ばの若造だった。

元気も良かった!ひたすら食い、かつ飲み、ひたすら遊び(当時はゴルフでなくマージャン)、仕事にも熱心であった。

ただ、どう考えてみても「噴火災害」との遭遇は想定外の出来事だったし、「山」のことなど正直言って興味も何もなかった。

それがどうだろう…。明けても、暮れても、噴火三昧の日々。災害最中のさる講演会で「最低でも後10年は続くだろう…」との学者先生のご高説を拝聴した時には、我が身の運命を儚んだほどだ。

あれから20年―。山は静けさを取り戻し、周囲の環境も大きく様変わりした。年々歳々の思いを込めて…。


2010/11/23

早過ぎる死を悼む…訓練に懐かしい顔ぶれ

普賢岳の噴火活動再開から今年で丸20年が経過したことを受け、あの「長期・大規模災害」の記憶を風化させまいと21日、噴出した膨大な量の土砂でできた「安徳海岸埋立地」をメーン会場に、大規模な防災避難訓練が行われた。

島原市が主催。県の防災ヘリのほか、県警や国土交通省、九電なども多くの資機材・人員を配備して協力した。地元住民などを含めた総参加者は約千人。弊社も国交省の依頼を受け、災害リアル情報の伝達実験に参画した。

当日の想定は、有明海を震源とするマグニチュード7.2、震度6の「大地震」に加えて、「大雨」。それらが一度に来たら「とても、とても…」といった感じだが、「基本を踏まえること」は何においても大事である。

一方で筆者自身、目の前で繰り広げられる各種訓練の様子を眺めながら、いわゆる「既視感」とは異なる、何とも形容しがたい「感慨」を抱いていた。

果たして、この20年間、一体どれほどの地域住民の方々が亡くなったのだろうか…?

自信をもって言えるのは、この災害が多くの人々の生き様(人生設計)を根本から変えてしまった、という紛れもない現実だ。人生に「イフ」はないにしても、噴火そのものが全くの〃想定外〃だったはずだろうから、尚更にそう思う。

訓練の場は、身を挺して「古里防衛」に殉じてくれた43柱のおかげで生き延びることの出来た、幸いなる者たちの邂逅(かいこう)の場でもあった。だが皆、例外なく〃老化〃が進んでいた。

そう言えば、このところ、親しい方々が次々と鬼籍入りされている。誠にもって、寂しい限りだ。

扶桑建物管理社長の岩永傳四郎さん、元島原市商工観光課長の山北好一(よしかず)さん、そして事もあろうに、現役市職員の倉本伸子(のぶこ)さんまで…。

岩永さんはよく「湯島」(天草)まで鯛釣りに連れていってくれた。「菊旅館」が常宿で、港に着くといつも〃総金歯〃のいかにも人の善さそうなオバサンが一輪車で現れた。

船上では一匹も釣れずに、前の晩の宴会に出ていた「塩焼き」をスゴスゴと持ち帰ったことも、今となっては懐かしい思い出の一つだ。

キタ(愛称)さんは市役所一番の芸達者で、宴会を盛り上げてくれる名幹事でもあった。得意技は『青い山脈』の自転車編。歌っている途中に本物の自転車まで登場してくるのだ。

また、先般亡くなった星野哲郎さん作詞の『函館の女』の替え歌、「永谷園の鮭茶漬けだよ~♪」も十八番(おはこ)だった。

シンコさん(愛称)は名うての酒豪で、冗談ばかり言って落ち着きのない筆者にとっては、ご意見番的な怖いアネゴでもあった。

噴火20年。年々歳々、人同じからず―。それぞれの早過ぎる死を悼む。合掌。


2010/11/21

防災避難訓練に臨む…11月21日は「家族の日」

当て字読みの典型だろうが、「11月」は「いい月」。その延長線上で、「11月22日」は「いい夫婦の日」だそうだ。

筆者が華燭(かしょく)の典(古臭いなぁ…)を挙げたのは、その翌日の「23日」であるから、2人いる義妹にとっては「いい兄さんの日」であるに違いないと思うのだが、幾つになっても〃風当たり〃はきつい。

せめては「勤労感謝の日」でもあるので、労(ねぎら)いの言葉の一つも欲しいところだが、お二方とも殊の外お忙しい様子で、このところナシのツブテだ。

今日(20日)はいつになく平穏な週末だ。小春日和が何日も続いているし、テレビでは「ダンロップ・フェニックス・トーナメント」の熱戦の模様がライブで流れている。

ほぼ1年前、まさに今放映がなされているその「コース」でプレーしたことがある。大会を間近に控えた中での、一種ワクワクするような緊張感が会場全体に漂っていたことを、今更ながら思い出す。

地場産の焼酎類(芋&蕎麦)は大売れしているし、タレント出身の知事は全国的な人気者だし、その時点で、後に世間を揺るがすような「口蹄疫」の問題が発生するなど、誰が予想できたろう…?

が、事実はまさに小説より奇だった。世の中、何によらず、一寸先は闇なのである。

そんな中、いよいよ明日(21日)には、噴火災害埋立地の安徳海岸一帯で、島原市の避難訓練(平成22年度)が予定されている。

筆者も報道機関の一人として参加するようにしているが、思い出すのは、20年近く前、瑞穂町で実施された県主催の防災訓練のこと。確か、大火砕流災害の少し前ではなかった。

印象的だったのは、ヘリコプターまで出動しての大掛かりな「消火活動」。だが、現実の火山災害は遥かにその「想定範囲」を超えたものだった。

事の道理だが、物事は何にしても、シミュレーション通りには運ばない。受験で例えるなら、模試通りの問題は本番ではまず出ない、ということだ。

大切なのは防災に対する基本的な「考え方」と「行動様式」である。その部分をしっかりと把握できれば、訓練としては成功である。

20日付けの新聞広告(サントリー・日経版)によれば、「21日」は「家族の日」だと。何故そうなのかの解説はないが…。

テレビ等でも時々取り上げられているが、全てにおいて混迷の度を深めている現代社会では、「夫婦」や「家族」という社会の最小単位でさえ、今や崩壊の危機を迎えている、という。

個々人の価値観まで踏み込むのは〃お節介〃の極みであろうから論評は控えるが、「いい夫婦・家族」の集合体が「いい社会」であることに間違いはあるまい。守らねば!!


2010/11/20

ツワの花で思い出す…故・池部良さんの名随筆

最近、「ツワブキ」の花がそこかしこに綺麗に咲き乱れている。同じ黄色系でも「セイタカアワダチソウ」とは随分と様相が異なる。日陰でそっと咲く、清楚な姿もいい。

調べてみると、漢字では「石蕗」や「艶蕗」を充てるそうだ。また、観光地として知られる島根県・津和野の名前は「石蕗の野」から来ている、という。

島原の場合は「フキ」の部分を略して、「ツワ」と呼ぶのが一般的。「フキ」との最大の違いは、フキが夏緑性であるのに対して、ツワは常緑性。

我が家の裏庭にも所々に何十本も咲いており、時々眺めては楽しんでいる。もっとも最近は、日陰は寒いので〃ちょっと見〃に止めているが…。

フキもそうだが、子供の頃は、こうした類いの「煮物」が大の苦手だった。正直、大人はどうしてこんなモノが美味いのだろう?と不思議だった。

ところが、最近は違う!年をとったせいもあろうが、肉や魚、或いは一般的な野菜とも異なる〃日本の味〃がするのだ。〃古里の味〃と言ってもよい。

と、ここまで書いたところで、フキだったかツワだったか忘れてしまったが、先日亡くなった俳優の池部良さんが以前、毎日新聞紙上で書いていた随筆のことを思い出した。

よく「天は二物(にぶつ)を与えず」と言われるが、名優と呼ばれる人は、えてして文章も上手い。高峰秀子さんしかり、森繁久弥さんしかりである。

池部さんも間違いなくこの手の〃才人〃であった。父は風刺・風俗漫画家として知られた池部釣。「芸術は爆発だ」の岡本太郎さんが従兄だったとは、今日までついぞ知らなかった。

随筆の話に戻る―。池部さんが育ったのは東京・大森ということだから、高級住宅地だったことは間違いない。確か、文章の中でも、その広い庭の様子を取り上げていた。

そうしたお金持ちの家には、お手伝いさんは付き物だが、この「○○ちゃん」と坊ちゃん(池部さん)の絡み方が、何とも言えず面白いのだ。

つまりはこういう事だった。広大な池部邸の庭にはフキだったかツワだったがいっぱい生えていて、ある時、坊ちゃんは何とも奇妙な光景を見てしまった。それは○○ちゃんがヒョイと茂みに隠れて云々…。

記憶が定かでないが、ある日の池部家の夕餉に上がったおかずは、件(くだん)のフキかツワかの煮物で、「複雑な心境で食べたのだ」とかいう結びであった。

読後、腹を抱えて大笑いしたことを今でもよく覚えているし、「上手いなぁ!」と感心もした。そう、池部さんに関しては、天は間違いなく「二物」をお与えになったのだ。

ところで、「二物」はいいとしても、よもや我が家の周辺で、夜陰に乗じて「一物(いちもつ)」を取り出すような〃不逞の輩〃はおるまい???


2010/11/18

記念写真撮影に〃奔走〃…柄にもなくセンチな気分に…

20年目の11月17日は見事なまでに晴れわたった。最近はカメラを構えて取材する機会がつとに減ってしまったが、やはり「この日」だけは「6・3」と並んで、そういうわけにはいかない!

手はじめに向かった先は平成町の埋立地。途中、島原深江道路上で車を停め、対向車線脇にある防護柵に飛び乗ってまず〃連写〃。山頂付近には淡い白雲がたなびき、眉山の紅葉も今が盛りの様子だ。

踵(きびす)を返して車に戻ろうとしたら、有明海が淡い冬の日差しの中で鈍(にび)色に輝いている。視線の先には「秩父が浦」や「九十九島」など島原を代表するジオパーク遺産群。勿論、シャッターを切りまくった。

お次はサブアリーナ前まで移動して、「龍馬像」との〃ご対面〃。「ハリボテではないか」との指摘に対しては、「後は地元のおまんらの努力次第ぜよ」との囁きが聞こえてくるようだ。

続いて「水無川」へ。災害当時、この付近一帯は賽(さい)ノ河原(かわら)だった。土石流映像を撮影中に買ったばかりの新品のビデオカメラ(約15万円)を落としてしまったことなどを思い出した。

そのまま川沿いを走り抜け、旧大野木場小学校到着。校庭の片隅では、地元住民の期待を受け瀕死の状態から見事に蘇ったイチョウの大木が鮮やかな黄葉を見せていた。

さらに北上―。人影もまばらな荒野では、今日も「砂防工事」が粛々と進められていたが、少し下りた沿道でイチョウの植林が大がかりに進められていたのにはビックリ!

時間の制約もあるので、その場も早々に引き揚げ、次なる目的地「垂木台地」に向かった。砂防ダム上に架かる橋の上では、どこかのテレビクルーが撮影に汗を流していた。

「まゆやま道路」を上りつめていくのに合わせて、「平成新山」の威容も段々と増してくる。路傍のススキの穂が風に揺れ、季節感も満点だ。

残念ながら、「平成新山ネーチャーセンター」は休日の様子だったので、山肌近くからの撮影は諦めて、再び「海」を眺めた。綺麗だった。もっと言えば、素晴らしい「観光資源」だと思った。

例えて言うなら、モノトーンのスクリーン上で繰り広げられる、見事なまでの「光」&「影」のスペクタルショーである。

視界は天草の島々を超えて不知火海まで及び、遠い昔に「島原の乱」(1637年)の発火点となった湯島(談合島)の島影がやけに郷愁を誘う。

柄にもなくこんなセンチな気分になったのは、昨夜読んだ司馬遼太郎さんの『街道をゆく』(第17巻)のせいだろうか…。

人間にとっての20年は比較的長い歳月だが、4万年ぶりと言われる造山活動からすればほんの一瞬。自然と人間の係わり、そして歴史の重みを改めて噛みしめた一日であった。


2010/11/17

具合悪く病院通い…禁煙に併せて「税」を考える

まずは訂正から―。前回取り上げた元NBC長崎放送社長フジキケンジ氏の表記が間違っていました。正しくは藤樹憲二で、「樹」と「木」を勘違いしておりました。「気」が付きませんで、失礼致しました。

それでは、「気」を取り直して、本日分に進んでみるか!と思っているが、休日を挟んで沢山ニュースがあり過ぎて、逆に素材探しに迷ってしまう。おまけに急な冷え込みで、心もいささか委縮状態だ。

もっと直截な表現をすれば、病気である。ビョーキ!昨日に続いて今日も朝から病院に行ってきた。まあ「血圧」と「禁煙」の定期診療のようなもので、特段心配は要らぬと思うが、急に「寒気」もしてきたりして…。

それに喉の辺りもイガイガするし、鼻水もダラダラ。希望を言えば、布団にくるまって休みたいところだが、そうは問屋が卸さない。「働かざる者、食うべからざる」というやつだ。

たが、そうした中にあっても、「禁煙治療」は極めて順調に進んでいる。早くも「一月半」が経過したし、年内には補助薬(パッチ)による治療も終了する見込みだ。

「宣言」以来、これまで沢山の方々から「再モク」を勧められた。元島原商工会議所副会頭の古瀬亨さん(ミッキーシューズ会長)は「清水に負けてたまるか!」と思い立ったものの、わずか6日間で頓挫した、という(本人談)。

また、佐藤勝亮さん(佐藤電装社長)のように「途中で喫煙を止めるとは、何と意志薄弱な!」とパラドックス(逆説)で責め立ててくる御仁もいるが、何はともあれ健康が一番。

ところで、世論は「禁煙」ばかりに目が向いているようだが、「税」としての使い道は?〃この日〃のために切り抜いておいた産経新聞調査記事の助けを借りながら、その概要について語ろう。

マイルドセブン(410円)の場合。うち64.5%に当たる約264円が税金。それは「国」「都道府県」「市町村」「特別」―の4つの税に分けられ、「国」対「地方」の配分比率は1対1だという。

よく話のタネとして使われる「旧国鉄救済」のための財源話は、決して誇張されたものではない。きっかけは昭和62年の民営化だが、結論を言えば、当時の「バブル経済」の行方を見誤った政府の失態。

つまり、JTや愛煙家はいまだにその尻拭いをさせられているわけだ。商品が商品だけに、煙(けむ)に巻かれてしまったか?

一方で「たばこ税」は「色のない税金」とされ、国や自治体が自由裁量で使えるお金(一般会計)として、大変に重宝がられているという。が、逆の見方をすれば、「どうにでも都合よく使われる」ということだ。

止めた人間が言うのも何だが、JTならずとも有効活用を願うのは、全ての愛煙家の願いであろう。


2010/11/14

伝統の早慶戦ゴルフ…バカに苛(さいな)まれ煩悩を打つ

昨12日は伝統の「早慶戦ゴルフコンペ」が諫早市の長崎国際ゴルフ倶楽部で開かれ、筆者も島原稲門会(早稲田OB会)を代表して参加させていただいた。

同コンペは早稲田=藤木憲二氏(元NBC長崎放送社長)、慶応=林田作之進氏(元長崎県議会議長)らが中心となって発足。原則として、春秋の2回開催で、今回が63回目の秋季戦(ダブルぺリア)だった。

戦前の予想では、泥沼の「8連敗」を脱出してこのところ「2連勝」と波に乗る早稲田がさらに記録を伸ばすものと見られていたが、いざフタを開けたら、慶応側の圧勝だった。

つい先日、東京六大学野球での50年ぶりの優勝決定戦で勝利を収めていただけに、早稲田チームのキャプテンを務めた前原晃昭氏(長崎稲門会長、NCC長崎文化放送社長)もさすがに意気消沈のご様子。

いつもならプレー終了後の懇親会冒頭、周囲も驚くような雄叫びで「凱旋挨拶」を披露するのが習わしであったが、さすがに昨夜だけはおとなしかった。それもそのはず、本人も予想だにできなかったジャスト100の「大叩き」だったのである。

一方、意気上がる慶応チームの代表格は、前日の第39回長崎新聞社ゴルフ大会でもネット3位、シニアの部準優勝という「ダブル入賞」を遂げた四元永生氏(光・日光タクシー代表)。

この日のスコアは前原キャプテンとまったくの同数であったが、見事にダブルぺリア独特の「運」を味方につけての呵々大笑。ちなみ筆者も「煩悩の数」だけ打たせていただいたが、「運」には恵まれ、10位以内入賞は果たした。

何だか「前置き」だけで終わってしまいそうな雰囲気となってしまって恐縮だが、実は書き始めの時点においては、本日のお題は「バカ」と決めていた。思い通りに事が運ばないのは、ゴルフも人生も然りだから、である。

では何故「バカ」なのか?それはつまり、最初に放ったショットが右のOB林に突入。ボールを探している間に、ズボンの両裾に雑草の「バカ」がこびりついてしまって、ゴルフどころではなかったのである。

とにかく、繊維の奥深く「針」のように刺さっているため、手で払うくらいではまったくもって落ちない。ひたすら1本1本、手作業で抜いていくしか方法はないのだ。

スタートから3ホール目まではショットそっちのけで、直ちにカートに戻って除去作業。そのうちに指先には乳成分のようなものがベタベタと付着してくるし、キャディさんは笑うし、同組のメンバーには気の毒がられるし…。もうトホホッのホ!

なんでこんなことまでして…。「ワセダ」転じて「バカダ」を実感した次第。時に、「バカ」(植物)の正式名称は何と言うのだろうか?誰か教えて!


2010/11/13

「地域力」について考える…恵まれ過ぎがマイナス要因!?

本日は「地域力」ということについて少し…。と言うのも、先般出席したCATV連盟九州支部主催のセミナーで、演壇に立った三人の講師すべての口から、期せずしてその種の言葉が発せられたからだ。

各講演の中身については〃大同小異〃なので敢えて詳しく紹介するまでもないが、要するに「その地域にとって、なくてはならないメディアになりなさいよ!」ということだ。

その件に関しては反論も何もない。確かにご指摘の通りだし、事業者にとっては、それが究極の「理想型」である。が、「言うは易く、行うは難し」だ。

以前にも本欄で書いた記憶があるが、筆者は我が古里でもあるこの島原半島の「地域力」を信じて疑わない者の一人である。「地力」(じりき)と読み換えてもよいか、と思う。

ところが残念ながら、現実の動きは…。それぞれ本来の「持てる力」を存分に発揮している、とは言い難いのだ。これは単純に行政上の「枠組み」だけの問題ではなかろう。

土地にはそれぞれ固有の歴史があり、そこで暮らす人々に共通した性格のようなものもある。それら全てをひっくるめた集大成が「地域力」ということになろうが、率直に言って、まだどこの街にもその「必死さ」を感じない。

そうあくせくせずとも食べる物はふんだんにあるし、湧き水や温泉もそこかしこ…。気候も温暖で暮らしやすい。誤解を恐れずに言うなら、こうした恵まれた住環境こそが地域の経済発展を阻害している「元凶」なのかも知れない。

かつて読んだ何かの本で、「本物の恋愛というのは北国でしか育めない」という一節があったが、「恋愛」を「(究極の)本物志向」と置き換えれば、何となく納得もいく。

しかし、生まれてくる子どもが親を選べないように、運命としてこの地に生まれ&育ち、或いは生活の糧を求めている人間にとっては、ここが他に取り換えようもない「人生の(最終)ステージ」なのだ。

ならば、その恵まれた条件を最大限に活かして、力の限り生き抜いていくことこそが賢者の選択ではないか…。柄にもなく偉そうなことを書いてしまったが、最近は年をとってきたせいか素直にそう思えるようになってきた。

ただ、一人ひとりの力には自ずと限界があるように、新聞やケーブルテレビ、コミュニティFMの分野でやれることは高が知れている。世の中は筆者が考えている以上に、遥かに広いし、かつ複雑怪奇な代物である。

しかし、ここで怯んではいけない。大切なのは、自分たちの古里の特性を良く知り、心を一つにして、「優しさ」と「夢」を持って邁進していくこと!

何度も言うが、島原半島には「地力」がある。為さぬは人の為さぬなりけり、なのだ。


2010/11/12

FMしまばら3周年!!…すべては皆様のおかげです

「ノーベンバー・イレブンス」(11月11日)―。当社にとっては、記念すべき日の一つである。なぜなら、3年前のこの日、パートナー局の「FMしまばら」が開局したからだ。

番組では朝から各パーソナリティが「気合い」を入れて喋りまくっているようだが、とにもかくにも今日あるのは、島原市ご当局をはじめ、株主やスポンサー、そして多くのリスナーの皆様方のご支援&ご協力の賜物である。

「島原にコミュニティFMラジオを!」という発想は平成18年9月の台風襲来がもたらした。この自然災害をきっかけに、「停電時でもきちんと稼働する放送」の必要性を痛感し、思い立ったという次第だ。

長崎県下では佐世保に次いで5番目。また、ケーブルテレビ事業との組み合わせは、総務省九州総合通信局のご紹介を受け、宮崎県都城市の事例を参考にさせていただいた。

晴れてこの日を迎えるに当たって、改めて何かしらの「ご縁」の存在を感じざるを得ない。霧島酒造が経営主体となっている都城の局とは、距離を超えて仕事上でも深い繋がりを持つことができるようになったし、今では『黒霧』は欠かせぬ晩酌の友である。

一方、さらに離れて新潟県長岡市。こちらの「FMながおか局」とは専門分野(無線)での技術協力のほか、多方面にわたってご指導をいただいている。

さらに嬉しいことに、筆者も加入している「日本災害情報学会」(本部・東京)が主催している「廣井賞」の本年度の受賞者の一人がそこの脇屋雄介社長なのだ。

「廣井賞」とは、普賢岳の噴火災害でも活躍された、東京大学社会情報研究所々長の故・廣井脩教授の功績をしのんで創設されたもので、我が国防災分野での栄えある勲章だ。

その余韻も冷めやらぬうちに先月20日には、今度は鹿児島県奄美大島で記録的な集中豪雨災害(激甚指定)。後で知ったが、奄美の地でも地元のコミュニティFM局が八面六臂の大活躍だった、という。

聴かれた方も多いと思うが、FMしまばらでは11日、開局3周年の特別企画として、その奄美局とつないでライブ放送を実施させていただいた。

本当に「災害」はいつ起こるかわからないし、発生の仕方も多種多様だ。そうした状況下、地域住民の皆様方に一番お役に立てるメディアとして、コミュニティFMの存在が今改めて見直されている。

廣井先生とは、島原でも東京でも一緒に良く飲んだ。ともに焼酎派。もし先生が存命されていたら、歴史的な噴火再開から間もなく20年を迎えるこの島原で、もっと「防災談義」ができたのに…と思うと残念でならない。

とにかく今日は特別な日だ。先生の面影を肴に、しんみりと『黒霧』のボトルを空けよう…。


2010/11/09

親和湊支店が〃復活〃…地元の熱意が本店を動かす

親和銀行島原湊出張所が8日付けで元の「支店」の地位に返り咲いた。平成18年7月以来、約4年半ぶり。すべてにおいて〃縮小傾向〃が続く中での見事な復活劇!何はともあれ、喜ばしい限りだ。

出張所長改め、晴れて第23代支店長に就任した堤浩三さんに心境を尋ねてみると、「スタッフともども、また新たな気持ちで頑張ります!」と満面の笑みで応えてくれた。

素人の立場からすると、「支店」と「出張所」の違いなど〃大差〃あるまいと思っていたが、「当座預金」や「事業向け融資」が再び出来るようになったことで〃利便性〃が大いに増すのだ、という。

取材のついでに同支店の「沿革」について話を聞いてみると、湊地区に親和銀行が誕生したのは戦前の昭和17年5月というから、人間で言ったら古希に近い年齢である。

当時の方々にどなたか知っている人がいないかと名簿をめくっていたら、いた!いた!2代目支店長の松永其寿さんだ。世代が異なるのでお会いしたことはないが、筆者の恩師で島原高校の前々校長を務めておられていた松永勇先生のお父様だった。

時代はぐっと下って昭和50年1月。現在地に移ってからの初代(通算では第9代)の支店長になられたのは、後に常務取締役まで昇進された、前島原商工会議所会頭の久部貞男さん(前プラスナイロン社長)だった。

ライバルの十八が「湊支店」というのに対し、親和の場合は頭に「島原」が付く。そのあたりの事情については聞くのを忘れてしまったが、両行の〃切磋琢磨〃で近隣の「みなと商店街」をはじめ島原の街全体が本来の活況ぶりを取り戻すことを願ってやまない。

話は相前後してしまったが、今回の「復活劇」については、地元の人々からたっての要望が寄せられていたというから、親和もなかなか味なことをするもんだ、と感心した次第。メデタシ!

ところで、先週末に出席したCATV関連のセミナーで、NHK大河ドラマ『龍馬伝』のチーフプロデューサー、岩谷可奈子さんの講演を拝聴する機会を得た。昭和39年生まれというからまだ40年代半ばの若さながら、なかなか味わい深い話をしてくれた。

個人的には「島原は何も取り上げてくれなかったくせに…」と些か腹立たしい思いで聞いていたが、「地域の活性化はまず土地の人間が地元のことを良く知ること!」という指摘には大いに納得がいった。

少なくとも明治維新の原動力となった龍馬や海舟がこの島原半島の地に足跡を残していったという歴史的な事実は、松尾卓次先生らのご尽力で広く地域住民にも知れ渡ったはずだ。

チャンスは必ず来る。皆さん、勉強して「その日」を待ちましょう!


2010/11/03

文化の日に早慶戦!!…世の中知らない事だらけ

11月3日―「文化の日」。戦前は「明治節」と呼ばれていた。なぜそうなのかというと、明治天皇がその日にお生まれになったから。

ただし、当の明治時代においては、中国・唐時代の玄宗皇帝にあやかって「天長節」とされていた、という。そんな事は全く知らなかった。

日本国憲法(新憲法)との絡みも初耳の事実。発布がこの日なので、そのまま「憲法記念日」にしようという議論もあったそうだが、施行に合わせて半年後(5月3日)にスライドされたのだ、という。

考えてみたら、「文化の日」ひとつ取ってみても、知らないことだらけ…。これじゃとても「文化的な人間」(文化人)とは言えない。いや、端からそんな意識はない。ただ、そうした存在に憧れているだけだ。

そうした文化談義もどきとは全然関係ないが、折しも、神宮の森では、早慶両校による「優勝決定戦」(東京六大学野球)が3日に行われる、という。伝説の「6連戦」以来、50年ぶりの頂上決戦。どちらもガンバレ!!

まあ「野球」そのものが、俳聖・正岡子規先生が名付け親だから、それはそれで立派な「スポーツ文化」だが、よりにもよって「文化の日」に決戦が組まれるとは…。奇遇この上ない。

ところで、早慶戦名物と言うと、早稲田の校歌「都の西北」に対し、慶応は応援歌「若き血」である。なぜ校歌に対して応援歌なのかという素朴な疑問が残るが、調べてみたら、1927年以来の慶応側の〃ゲン担ぎ〃なのだそうだ。

もちろん慶応にも立派な「塾歌」があり、筆者などはむしろそちらに魅かれるのだが、その歌詞(1番)の中にも、やはり「文化」は登場する。

〈見よ 風に鳴る わが旗を 新潮寄する あかつきの 嵐のなかに はためきて 〃文化〃の護り たからかに 貫き樹てし 誇りあり…〉一方、早稲田の校歌では〈東西古今の〃文化〃の潮…〉という形で、2番の冒頭に登場してくる。

文化とは程遠い生活をしている人間が、文化を語ることなど、おこがましさを通り過ぎて、むしろ滑稽ですらあるが、逆に言えば「何をして〃文化〃と称するのか?」という素朴な疑問も当然わいてくる。

難解な語句をひねくり回したり、音楽活動に打ち込んだり、絵筆を執ることなどももちろん〃文化〃であろうが、もっと身近な生活に根差したところにも〃文化〃はあるはずだ。

その伝でいくと、最近読んだ松岡正剛さんとエバレット・ブラウンさんの対談集『日本力』(パルコ出版)という本が、日本独特の文化の在りように触れていて、とても面白かった。

通算55回目の「文化の日」を迎えるに当たり、もっともっと日本、そして島原半島のことを知らねば、改めて痛感している。