2013/06/27

祖母逝きてはや3年…なぜ〝夢枕〟に立たぬ?

こわ~い存在だった祖母が亡くなったのは3年前の6月26日。つまり、今日がその〝祥月命日〟で、朝から菩提寺のご住職にお運びいただいて、ねんごろに〝お経〟をあげてもらった。

歳月人を待たず―。月日が経つのは誠に早いもので、この3年間に、筆者が大変にお世話になった方々が次々とお亡くなりになっている。

先日も、その祖母のお謡い(観世流)の先生だった中山龍代さん(片町・中山農機具店)が百歳の天寿を全うされ、葬儀に参列してきたばかり。

そしてまた昨日(25日)、長年にわたって島原新聞社の営業部門で頑張ってくれた岩里久勝さん(74)が、家族懸命の看病もむなしく、黄泉(よみ)の国へと旅立っていった。

祖母(「オバアチャン」と呼んでいた)の享年は数え年で96歳。最期は入院先の松岡病院で迎えたのだが、50有余年も生きてきて、臨終の現場に立ち合ったのは初めての経験だった。

自分で言うのも何だが、筆者はとても涙もろい・・・・人間である。悲しい筋書きのドラマを観ていても、周囲の人間は平然としているのに、何故だか自分だけ涙が止まらない。

オトコとしては情けないと言うか、何とも恥しい限りだが、感情の起伏というのはどうにも押さえようがない。それに別段、悪いことでもないと思うし…。

一方、逆の見方からすると、辛くても、悲しくても涙を流せない状態は、これまた心理学的には異常である。やはり人間は、泣きたい時には、思い切り泣く方がよい。

3年前を振り返ってみても、恐らく家族の中でも筆者が一番泣いたのではなかろうか…?今改めてその〝要因〟を探ってみると、筆者はある意味ロマンティストで、過去の出会いや思い出を〝美化〟する傾向が人一倍強いように思う。

《オバアチャンと初めて会ったのは筆者が当時勤務していていた四国の空港だった。綺麗な総白髪。随分と派手な色合いの服を着て、颯爽とサングラス姿でタラップを降りてきた》

《その時、語ってくれたのは、東京の銀座(恐らく4丁目辺り)で道を尋ねられたという〝自慢話〟。「で、何と答えたの?」と聞き返したら、「喋れば田舎者てバルッじゃろもん!」と切り捨てられた》

《結婚式が終わってから、一人別室に呼ばれた。そしてこう釘を刺された。「アンタ、決して女遊びはしなさんなよ!もしもしてごらん、私が死んでから夢枕に立っとやけん!」

そうか、オバアチャンが亡くなってから、もう3年か…。それなのに1度も夢に出てこないよなぁ~。たまには会いたいよ~。

ご住職の肩越しに見えるオバアチャンの位牌に向かって、「会いたいのでそろそろ…」と切り出してみたが〝無言〟のままだった。逆もまた真なり!?


2013/06/26

美形のはずなのに…東北人は忘れていない!?

梅雨前線とは何の関係もないはずなのに、 いかんせん〝勤労意欲〟が湧いてこない。 出来たらゴルフにでも出かけたいところだが、 悲しいかな、 その時間も金もない。 さぁ~て、 何を書こう…?

そんな〝思案〟をしながらここ数日の古新聞をめくっていたら、 22日付の日経新聞に、《ひとりごと》のタイトルで同社・山口支局長の署名記事が掲載されていた。 見出しには、「下関、4番打者になる好機」とあった。

少し長くなるが、 その要旨を引く―。 下関市は野球の打線で例えるなら、 4番クラスの貴重な歴史遺産や観光資源に恵まれていながら、 現実は6番打者ばかり。 つまり、 実力に比して集客実績 (昨年・662万人) が乏しい、 と。

比較の対象とされているのが、 鳥取県境港市にある 「水木しげるロード」。 記事によれば、 この施設だけでナント年間270万人を集めているのだそうだ。

NHK連ドラによる 「ゲゲゲの女房」 の影響も残っているのだろうが、 県全体で取り組んでいる 「まんが王国」 の取り組み効果も見逃せまい。

ただ、 下関市もじっと指をくわえたままでいるわけではない。 長府地区が2013年度の 「都市景観大賞」 に選ばれたのを皮切りに、 5年後の 「明治維新150年」 に向けて早くも動き出している、 とか。

さて、 その 「維新」 の絡みだが、 先に訪れた東北の地で 「なるほど、 今でもそんなものか…」 という話を聞いた。 大事な国政選挙の前なので差し障りがあったらいけないが、 歴史や情念とは怖いものだ、 とつくづく感じ入った次第。

まだ、「日本維新の会」 が上り調子だった頃、 橋下徹&石原慎太郎の両代表が福島県会津若松市の 「飯盛山」 の麓で街頭演説を打った時の、地元住民の反応―。

「直接、明治維新とは関係はあるまいが、 何も白虎隊が散った飯盛山のお膝元で『イシン』『イシン』 と叫ばれてもね~」 などと、 著しく盛り上がりに欠けたのだ、とか。

同じようなさめた目線は政権政党の 「自民党」 に対しても向けられているようで、 安倍首相がお国入り (山口県) した際に発した 「長州出身の先輩総理の名に恥じぬよう…」 といった就任の弁にも、 不快な表情を浮かべた人が多かったのだそうだ。

閑話休題―「観光」の話に戻る。 入り込みや宿泊数などの各種データについては、 先般来、 関係機関から発表されているので本欄では敢えて触れないが、 我が島原半島の実情を見てみれば、 まだまだ〝一軍〟には程遠し…と言ったところだろうか。

 「元々〝美形〟なのに、髪もとかず、顔も洗っていない、 身繕いがまったく出来ていない、 みっともない状態。 歯には青ネギがくっ付いていたりして…」。筆者の《ひとりごと》である。


2013/06/21

拠点だけでは救えない…NHKアナが語る〝教訓〟

講演終了後の質疑の中で、やにわに手を挙げたNHK宮崎放送局の男性アナウンサー。驚くことに、「3・11」の当日は同仙台放送局のスタジオにいて、臨時ニュースの原稿を読み上げていた、という。よもやこの時点で、この人と後に話すようになろうとは夢にも思わなかった。だが、まさに「事実は小説より奇なり」であった。

全国200社強のCFMが加盟する「日本コミュニティ放送協会」の定時総会(14日)は、型通りに審議が進み、我々九州地区の協議会が推薦した久留米・ドリームスFMの白石勝洋社長(元久留米市長)が全会一致で新会長に選ばれた。

記念講演会の講師は陸自・東北方面総監部幕僚副長の堀切光彦さん。限られた時間の中で、約10万人にも及ぶ仲間とともに寝食を忘れて取り組んだ、災害派遣当時の〝苦労話〟を淡々と語ってくれた。

引き続き行われた懇親会には、上司の田中敏明東北方面総監も参加されていたので、ご挨拶に伺った。話はもちろん、普賢岳災害当時「雲仙のシュワルツコフ」として崇められた山口義廣さん(元東北方面総監)のことだ。

総務省からは、CATV業界では〝超有名人〟の吉崎正弘情報流通行政局長をはじめ、長崎県勤務の経験もある石山英顕地域放送推進局長(元宮城県総務部長)ら幹部職が多く出席されていた。

代表して祝辞に立った吉崎局長は「安倍政権の中で国土強靭化の論議が進んでいるが、中でもCFMに対する期待が高まっている」(中央防災会議)として、関係各位のより一層の奮起を促した。

一方で、この日は現地出版社の社長、土方正志さんと会う約束をしていたので、中座して待ち合わせ場所へ。長らくのご無沙汰であったが、居酒屋での乾杯とともに時間の溝はすぐに埋まった。

話題はもっぱら普賢岳災害当時の思い出話。ただし、そこだけに止まらないところが、さすがにプロの編集者である。こう切り出してきた。

「自分は雲仙、奥尻、阪神、有珠山等々の取材を経て10年ほど前に仙台に居を構えて、『東北学』という見地から出版事業に取り組んできたが、先の震災で自宅は壊滅してしまった…」と。その過程で飛び出てきたのが、冒頭のNHKアナの話だ。

「僕もよく番組に呼ばれて、喋らせていただいたんですよ。その方は宮崎県出身の杉尾宗紀(すぎお・そうき)さんですよ。電話してみますか?」。

もちろん二つ返事だ。杉尾さんの防災持論は、「拠点は崩壊する。拠点だけでは人は救えない」というもの。電話を切った後、さすがに考えさせられた。そして得た結論は「仏に魂を入れること」。とても大きな宿題をいただいた気がする。
-おわり-


2013/06/20

見直される地域ラジオ…大震災で判った4つの限界

次にマイクを執った村上圭子さんは「NHK放送文化研究所メディア研究部専任研究員」という肩書きが示すように、放送のプロ中のプロである。これまでに手がけてきたテレビ番組は『NHKスペシャル』『クローズアップ現代』など。テーマはどれも大規模震災だ。

また、ラジオを通じた番組では、中越・中越沖地震や平成21年台風水害(佐用町)などを取材し、『地域社会とメディアの実験~15年目を迎えたコミュニティFM~』を制作したことでも知られる。

この日(12日)は「臨時災害放送局の役割と課題」(ポスト東日本大震災の災害情報伝達)と題して、現行制度上の様々な問題点を多方面からあぶり出し、放送・通信業界や国県市などの行政が進むべき道筋・・について持論を展開した。

本論に入る前に少し整理をしておくと、同じ「地域ラジオ」でも、自治体が免許主体となる「臨時災害放送局」と、FMしまばらのように総務省が管轄する「コミュニティFM局」(CFM)の二種類がある。

最近では「東日本大震災」を機に、国の方でも「放送ネットワークの強靭化に関する検討会」が開かれるなど、CFMの存在がにわかに見直されてきており、防災行政無線を補完・・する放送局として明確に位置付けられている。

以上のことを踏まえながら、村上さんは地域ラジオの特性を「5つのA(英語のエニー○○)」で表した。すなわち、「いつでも」「どこでも」「どれでも」「なんでも」「だれとでも」生きた情報の伝達が可能なメディアというわけだ。

根拠となっているのは、今回の大震災で「4つの限界」が明らかになったこと。具体的には①通信・インターネットの限界②自宅据え置き型の限界③防災行政無線(同報系)の限界④マスメディアの限界―。

一方で、地域ラジオの「優位性」については①放送波で耐災害性が高い②端末を持ち運べる(天候に左右されない)③操作が簡単で高齢者との親和性がある④多様な情報を継続して伝達することが可能⑤一斉同報・プッシュ型などの緊急情報に適している⑥市町村が伝えたい内容を伝達しやすい⑦きめ細かな地域情報の収集と発信が可能―などとしている。

村上さんによれば、東日本大震災では27か所で臨災局が立ち上がり、うち15局はCFMに経営形態を変えて地域住民や行政機関と協力しながら「災害復興」を目指して日々放送を続けている、という。

最後に「求められる市町村の主体性」について。村上さんは4つの重要ポイントを挙げた。①一斉同報の有効活用②モバイル端末基軸③手段の多様・多重化④地域・個人向け情報。

期せずして、島原での我々の取り組み事例をお話いただいているような気分になり、勇んで名刺を交換してきた。 -つづく-


2013/06/19

新聞との連携を図る…大船渡市の臨時災害FM局

柄にもなく、今日は少し真面目なことを書いてみたい。より直截に言うなら、「防災」「減災」に係わる話である。

一昨年3月11日に発生した「東日本大震災」をきっかけに、日本全体でその機運が高まっていることは言うまでもない。かてて加えて、近い将来、西日本の広範囲で甚大な被害が想定されている「南海トラフ」の脅威である。

そんな中で開かれた「臨時災害放送局セミナー」(12日、総務省九州総合通信局主催)で耳にした講師や参加者の言葉が忘れられない。

岩手県大船渡市の佐藤健さん(講師の一人)は大震災前までは、同市内で整体業を営むごく普通の市民だった。その人がいま、「特定非営利法人絆プロジェクト三陸理事長」といういかめしい肩書きで、津波の恐怖を赤裸々に語った。

「九州には初めてやって来たが、ここ宮崎市の印象は率直に言って、極めて危険である。怖い。すぐ近くに海があって、街中を縫うように大きな川が流れている。もし地震とともに津波が発生したら…」。

佐藤さんは「論より証拠」とばかりに、建物という建物が根こそぎ波に浚われてゆくショッキングな映像を流し続けた。その中に自分の家が含まれていることも含めて。

時間にして15分ほど続いたであろうか。「あああっ…」「もう止めてくれ~っ!」。時おり入ってくる、カメラが拾った被災住民の絶叫口調に、会場の誰もが息をのみこんだ。

佐藤さんは静かに語り始めた。「防災行政無線が停電で使えない状況の中で、臨時災害放送局を立ち上げた。スタッフは市民2人と大学生が1人。「おおふなとさいがいFM」。周波数は78・5メガヘルツ。

配布資料に目を通しているうちに、「新聞記事との連携(東海新報社)」というタイトルが目に飛び込んできた。さらに読み進めていくと―。

隣接する陸前高田市のFM局(コミュニティ)とも連動しながら、さらに県紙の岩手日報から寄せられる地元情報も合わせて、1日10時間の生放送を流し続けた。

問題点として提起されたのは行政との連携。前例の有無にこだわる姿勢に嫌気がさしつつも粘り強く放送を続け、機器類の電源確保では国交省や自衛隊に助けてもらった、という。

佐藤さんは最後に「災害について」と題してポイントをこうまとめた。①想定内はない②減災に一番役立つのは地域コミュニティ③小さな集落ほどまとまりがあり、協力し合った④誰に何を提供できるか⑤得意分野を最大限に生かす⑥無くて幸いでも準備は必要⑦常日頃から情報収集・発信を心がけ有事の際に活用する。

翻って我が生業。新聞にテレビにラジオ。さらにはスマホにタブレット。方向性は間違っていない。頑張らねば! -つづく-


2013/06/16

真夜中に被災地視察…全く予定してなかったが…

東京でCATV関連の用事を済ませて一泊。朝早い東北新幹線で仙台に入った。およそ10年ぶりに訪れたわけだが、駅周辺の様相はさらなる〝大都会〟へと激変していた。

全国200社強が加盟する「一般社団法人日本コミュニティ放送協会」の定時総会は、地場資本で伝統と格式を誇る老舗ホテルで開かれた。

最大の関心事は任期満了を迎えた会長人事だったが、大方の予想通り、久留米市に本社を置く「ドリームスFM」の白石勝洋社長に決まった。九州出身初の会長就任だ。

新会長とはふだんから頻繁に意見交換をしている間柄で、何より元久留米市長という経歴が示すように、行政的な手腕には〝定評〟がある。今後の舵取りに大いに期待しよう。

総会後の懇親会には多くの来賓が招かれていた。まずは地元を代表して宮城県知事、次いで仙台市長。いずれも代理出席ではあったが、「被災地支援!」という名目でのご当地開催に、感激のご様子。

また、監督官庁の総務省からも幹部クラスが多数のご参加。東日本大震災で活躍したコミュニティFMの存在価値を再認識するとともに、その〝輝かしい未来〟に向けて励ましのエールを送って下さった。

さて、仙台の名物料理と言えば、何はさて置いてでも、「ギュータン」(塩焼き)であるが、個人的には前々日に食した宮崎の「バタン」(刺身)の方に軍配を上げたい。いかんせんしょっぱ過ぎて…。

ところで、この日はある〝人物〟と約束があって、途中からパーティ会場を抜けた。と言っても、色白の東北美人が待ち受けているような艶っぽい話なんかでない。

待ち合わせ場所に現れたのはヒゲ面の五十男。現地の出版社々長。10数年ぶりの邂逅であったが、すぐに氏とわかった。挨拶もそこそこに、近くの居酒屋へと直行。聞けば、森進一の歌にも出てくる、あの有名な国分町(こくぶんちょう)だという。

乾杯後、氏は普賢岳噴火災害当時を思い浮かべるかのように、熱く語った。ついついこちらもペースにはまって多くを語り過ぎてしまったようだ。

頃合いを見計らったかのように「津波に襲われた隣の名取市に行こう」という話になった。タクシーに乗せられてどれくらい走っただろうか…。気付いた時には、何やらだだっ広い〝草原〟のような所にいた。

背後には神社と思しき建物の残骸。その近辺を歩きながら、氏と途中から合流した女性編集長の話が始まった。「いいですか清水さん、この地で700人もの方が亡くなったんですよ」「見た目は原っぱのようですが、ここら一帯、住宅地の跡なんです」-。

いきなりそう言われても返す言葉などなかった。遠くに対岸の灯がかすんで見えた。ただただ合掌。


2013/06/14

波乱の旅の幕開け!?…不覚にもドック入り知らず

前回の本欄でお知らせしたように、昨日から県外に出張している。15日まで3泊4日の行程だ。

拙稿は宮崎駅前のビジネスホテルの一室で書いている。高層階の窓の向こうに、朝靄に包まれたシーガイヤのドームが見える。

バブル期以降、同じような道筋をたどっているハウステンボスが見事復活を果たしているのに対して、余り話題に上らないところをみると、やはり経営状況は芳しくないのか…。

ところで、今回の出張は最初から波乱の幕開けであった。宮崎市内で12日午後に開催される総務省主催のセミナーに参加するべく、朝一(7時10分発)のフェリーに乗ろうと6時半には外港に着いたのだが、どうも様子が違う。

島原観光物産の松崎社長の姿を見かけたので、「おやっ!また朝帰りですかい?」と軽口を叩いたのだが、怪訝な顔をして「今日は九商の一便はドック入りばない。新聞な、どこば見とっと?」と、逆に冷やかされた。

次のオーシャンアロー号の出港(8時25分発)までにはまだだいぶ時間があったので、急きょ自宅に引き返すことに。つい先ほど、家族全員を叩き起こして家を出たばかり。さすがにバツが悪かった。

「お帰り。随分と早かったね~」と皮肉たっぷりに母子そろって迎えて下さったが、理由を告げると、「やっぱアタンなバ~カ!」と容赦なかった。

熊本駅前でレンタカーを借り、ジャスト2時間、高速を疾駆。ただし、スピード違反で再び捕まるのも馬鹿々々しいので、押さえるところは押さえて…。

会場の宮崎市民プラザは市役所のすぐ隣。さすがに南国らしく色鮮やかな花々が咲き誇っていたが、中にジャカランダの木が1本。小浜温泉のそれよりはやや見劣りがした。

セミナーは、緊急時における臨時災害放送局の設立方法やその後のコミュニテイ局の立ち上げ等々についての話。九州各地から自治体の職員など多数が参加していた。

講師は岩手県大船渡市のNPO法人の代表を務める佐藤健さんと、NHK放送文化研究所専任研究員の村上圭子さん。冒頭、佐藤さんが見せて下さった「3・11」の赤裸々な津波映像にはさすがにドギモを抜かれた。

何と言えばいいのだろう…。大自然の脅威?人間の営みの儚さ?無常観?それでも我々は生きてゆかねばならない…。

心にズシリと重いものを抱えたまま会場を出たのだが、一転、宮崎の〝夜〟は楽しかった。知り合いのFM局の社長がご馳走して下さったから尚更だ。

初めて食した馬の舌の刺身。「バタン」と言うらしいが、これから向かう仙台の名物料理は「ギュータン」だ。くれぐれも〝二枚舌〟にならぬよう、自制しながら進んでゆこう。旅は続く。


2013/06/12

「さしこ」で良かった!?…AKB48総選挙結果に思う

昼食のために入った喫茶店でスポーツ新聞を続けざまに読んでいたら、いずこも「さしこ」「さしこ」の大合唱である。馬鹿々々しいとは思いながらも、ついつい読み耽ってしまうミーハーな自分が悲しい!?

そこで取り上げられている「さしこ」とは、今を時めくAKB48の元メンバーで、人気タレントの指原莉乃さん(20)=HKT48所属・大分市出身=のことだ。

別にこのいたいけない少女(見た目)に何の恨みも辛みもないが、周囲の大人たちの〝商魂〟の逞しさには完全に脱帽してしまう。ほとほと芸能界とはコワ~イ所だ。

投票資格をお金で買ってまで「さしこ」に投じられたのはナント15万570票。ホンモノの総選挙でも、確実に当選する〝集票力〟である。

なぜ「さしはら・りの」という名前が「さしこ」と呼ばれるのか知る由もないが、ネットで調べてみたら「さっしー」とも言うらしい。筆者世代で「サッシー」と言えば、海星高校からドラフト1位でヤクルトに入団した(1976年)酒井圭一選手くらいしか思い浮ばないが、はて今頃どうされているのやら?

随分と前置きが長くなってしまったが、昨夜は所用で長崎市内まで出かけて、さる島原の方々と一緒に豪華な夕食をご馳走になってきた。その場で飛び出てきたのが島原弁バージョンの「さしこ」の話。

もう何十年も前のこと。地元の青年団仲間が連れだって〝東京見物〟へと出掛けたそうだ。その折、某料理店で交わされた会話。

「なんば食おかい?」「オラよう知らんけんワンの頼め!」―。なかなか注文が決まらなかったので、業を煮やした店のスタッフがメニューを指し示しながら、「これと、これと、これでよろしいですか?」と畳みかけてきた。

そこで答えたのが、島原弁しか喋れないリーダー格のAさん。大きく首を縦に振って頷きながら「さしこ・・・でよか!」と。全然、通じなかったそうだ。

ほぼ同じメンバー構成で似たような話がもう一篇ある。これはもっと〝傑作〟だ。場所は都心の瀟洒なレストラン。目の前には整然と並べられたナイフやフォーク類。

しばらくしてボーイさんが注文を取りにきた。中に少しだけ気の利いた仲間がいて「取りあえずメニューを…」と、その場を取り繕おうとしたが、間髪を置かず全員が口を揃えた。「オイもそっでよか!」。

NHKの連ドラ『あまちゃん』が大人気である。筆者も大の付くファンで、出来る限りテレビの前に座るように心掛けている。

観ていて感じるのは「方言」の持つ独特の〝温かみ〟。同じ九州出身のよしみで、センターの「さしこ」さんにも頑張っていただきたい、と言っておこう。(※明日からしばらく出張します)


2013/06/04

22回目の「6・3」…池谷さん、島原の現状を叱る

22回目の「6・3」は朝から爽快な気候に恵まれた。振り返ってみればこその〝実感〟であるが、歳月の流れの早さに驚く。

当時、35歳だった筆者は57歳になった。一昔前ならとっくに〝定年〟を迎えている年齢だが、いまだに〝現役〟でいられることは果たして喜ばしいことなのかどうか…。

この間、一緒に噴火災害下で苦悩した仲間うちの何人かはすでに鬼籍に入った。かく言う筆者も、あの大火砕流に呑み込まれていたとしても、少しも不思議ではなかったはずだが、はや22年間も生き延びさせて頂いている。

朝一で訪れた仁田団地の献花台の前では、多くの報道陣が災害発生当時の島原市長、鐘ヶ江管一さんを取り囲んでいた。矢継ぎ早に繰り出される質問に、瞑目しながら一つひとつ言葉を絞り出す元市長。その脳裏を横切るものは…。

消防団の慰霊碑(平成町)に赴くと、若手の団員諸氏が勢揃いして白菊の花を手渡してくれた。固い蕾の形状は志半ばにして散った〝無念〟の象徴か。

その足で安中公民館へ向かった。「安中復興まちづくり20周年講演会」に出席するため、だ。会場には懐かしい顔ぶれを中心に、約150人の地元の皆さんが集まっていた。

特別講師を務めたのは、『土石流災害』(岩波新書)などの著書を持つ、元建設省砂防部長の池谷浩(いけや・ひろし)さん。現在は政策研究大学院大学(国立)の特任教授として、大学院生を相手に教壇に立っている、という。

確かな「研究実績」と豊富な「現場体験」に裏打ちされた話は少しの無駄もなく、かと言って官僚出身者特有の堅苦しい言い回しもなく、聴き応え十分!実に分かりやすかった。

何よりこの方は、島原のこと(将来)を心底、慮って下さっている稀有の〝人財〟である。我々島原んもんは、もっとこの人の〝知恵〟を借りる必要がある、と痛感した。

以前と言っても、もう10年以上も前の話だが、ある伝(つて)を頼って建設省本庁に〝取材〟のためお邪魔したことがある。
とにかく、広い執務室で最初からドギマギしっぱなしだったが、「だいたいここには全国の知事さんクラスがやって来るんだ。君は島原からだから、特別だ!」と言って、歓待して下さった。

その際、どんなやりとりをしたのか今ではすっかり忘れてしまったが、「噴火災害からの復興」にまつわる話だったことだけは確かである。

翻って、22回目の今日―。詳しくは本紙T記者の記事を読んでいただきたいが、「いまだに復旧段階を乗り越えていないのではないか」「生活でなく生計の基盤を早く確立せよ」などとする厳しいご指摘は、さすがに耳が痛かった。

偶然にも、せっかく頂いた命。まいっぺん、頑張ってみっか!!


2013/06/03

矢野さん大いに語る⑤…日本人の“美徳”ここに!!

日本は米国に初めて戦争を仕かけた国なんですね。その「先の大戦」では、皇居やニコライ堂、奈良・京都などは空爆から免れました。実は、長崎も原爆投下の対象から外れていました。もともとは小倉だった、と聞いております。

「ジョージ有吉」と言う、ハワイ州の知事になった日系米国人がいます。その人物に関して「一片のパン」という逸話が残っています。それは、氏が進駐軍当時に出会った、7歳の靴磨き少年がとった行動について語った話です。

氏は不憫に思ってサンドイッチを与えました。ところが、少年は食べないで、そっと懐にしまい込みました。「どうした?」。少年は答えました。「家にお腹を空かせた3歳の妹が待っているので、持ち帰って一緒に食べます」と。

その一件で、氏は戦後の日本の復興を確信した、と言います。まさに「分かち合い」「譲り合い」という、日本人に備わった〝美徳〟を象徴する話です。

皆さんにお尋ねします。ここに一万円札が落ちていたとしたら、どうします。皆さんはきっと、警察に届けるはずです。誰も見ていないからネコババしても構わないと思いますか?違うでしょ。

他人の目は誤魔化せても自分自身は騙せません。「いつでもお天道様が見ている」と考えるのが日本人なんです。

「3・11」―東北大震災。その時、日本人がとった行動に、多くの外国人が驚嘆しました。あの東京でさえも、まさに「譲り合い」の精神で交通が混雑することはありませんでした。

日本男児の行動も素晴らしかったですね。「同じ方向ならボクと一緒に歩いて帰りましょう」と、多くの女性をやさしくエスコートしていたそうです。コンビニでは飲料が半額で売られ、トイレを貸し出す民家も多かった、とか。

また被災地では、5700個の金庫(総額23億円)が見つかりましたが、すべて元の持ち主に警察を通じて返されました。よく警察の不祥事がマスコミに出ていますが、裏を返せば、極めて稀な事例だからこそ〝記事〟になるのです。

とにもかくにも、日本人というのは「他の人々の喜びのために尽くす民族」なんです。最近は「個性」や「人権」という考え方がやたらと幅をきかせているようですが、それは教育が安直化している証拠です。「平等論」ほど当てにならない、怪しいものはありません。

そうした日常の中で私たちがすぐにでも出来ることは「あいさつ」です。あいさつすれば、誰とでもすぐに仲良くなれます。その上で、各々の得意技を活かしながら「地域づくり」に励んでいきましょう。

次回、島原に呼んでいただければ、人類普遍のテーマ(?)である「嫁姑」の話をしたい、と思います。
-おわり-


2013/06/01

矢野さん大いに語る④…日本の強さは四季のおかげ

これまでお話してきたように、私の口演のテーマはすべて、「日常」に根差したものばかりです。

先日、ある中国人の方からこんな質問を受けました。「日本にはほとんど貧富の差が無いようだが、ひょっとして共産主義の国か?」と。

確かに、通りを見れば、軽自動車も多いけど、何百万円もするような高級車も数多く走っています。私は軽に乗っていますが、大型車を追い抜くことも度々です。これが「日本の日常」なのでしょうけど…。

そんな中、ふと立ち止まって考えていることがあります。一昔前までは「男社会」と言うか、「筋肉文化」だったものが、段々と「(男女の)分業社会」、すなわち「頭脳文化」に変わってきているんじゃないか、と。

料理なんかが、もうすでにその〝領域〟ですね。女性はもちろんですが、最近は男性も普通に台所に立つようになりました。

とても良いことだと思います。ただし、我が家においてはまだまだ嫁さんが実権を握っていて、この前なんかは、床に落としたコロッケをしれ~っと私の皿に盛っておりました。

このほか「分業」と言う意味では私も〝頼り〟にされているようです。「お父さん、お父さんがおらんと困るとよ!」と言われて感激していたら、「生ゴミの運び手」の話でした。

話は俄然、外国に飛躍します。クイズです。オーストラリア北部の常夏の地では、多くの種類の花が咲いているのに、蜂蜜の採取量が少ないのは何故か?

答えは「冬がないから」。働き者と見られているミツバチも他の生き物と同じで、「いつでも蜜が吸える」という恵まれ過ぎた環境では、積極的に働こうとしないのだそうです。

さて、そろそろ本題でもある「日本人の底力」について話したい、と思います。英語学者で評論家の渡辺昇一さんが同名の本を出されていますが、明治時代、あの〝無敵〟と言われたロシアのバルチック艦隊を初めて破ったのは、我が日本(帝国海軍)です。

渡辺さんは「四季があるから日本人は強い」と書かれています。また、「冬が来るので、それに備えて色々と準備をする。言うなれば、これが老後に備えた貯蓄のようなものだ」とも。

それから「教育」。日本には昔から、庶民向けに「寺子屋」があったし、武門の人々は「藩校」に通って、厳しい姿勢で学問に励んでいました。その点、「ゆとり教育」はまったくいただけないですね。

最後に「災害」です。日本ほど火山の多い国はありません。世界の4分の1の活火山が日本に集中していますし、桜島山は昨年93回も噴火しています。

日本人は自然災害に対して、決して文句は言いません。「しょうがない…」と冷静に受け止めて、「悟り」に近い心境でいるのではないでしょうか。
-つづく-