2010/10/30

季節はずれの花が次々…筆者の神経も外れっぱなし

ホントにあれよ!あれよ!と言っている間に「冬」になってしまった。おかげで、我が家の茶の間にも昨晩、早くも「炬燵」(こたつ)が登場した。

〈庭石の苔を見に出る炬燵かな〉―。角川学芸出版の『合本俳句歳時記』によれば、室生犀星(むろう・さいせい)が詠んだ作品だそうだが、残念ながら我が家の庭石には、わざわざ見に出るほどの立派な「苔」は生えていない。

「代わり」と言っては何だが、炬燵が出てくるような肌寒い季節になってはじめて、「ハイビスカス」(鉢植え)の赤い花が咲き始めた。しかも次々と。

どう考えてみても、季節はずれの〃珍事〃に他ならないのに、花好きな母は大喜び!今朝ほども、その脇で育てている「キンセンカ」の花がそれに続いて咲き始めた、といかにも嬉しそう。

筆者は、どうせ〃狂い咲き〃の一種だろうと高をくくっていたのだが…。ところがどっこい、先日「龍馬像」の撮影のために訪れた復興アリーナの周辺でも、居並ぶ「ジャカランダ」の木のうち1本だけが、青いブーケのような「花の塊り」を付けていたのでビックリたまげた!

こうまで例外的な事態が続けば、「おいおい一体どうなっているんだ?」とつい声を荒げてしまいそうになるが、まだまだあった。今度は、近く島原名物の1つになるであろう「シバザクラ」の開花だ。 

場所は大手川に架かる「ななめい橋」(県酒販脇)のたもと。余り手入れも行き届いていない殺風景なプランターの中で、ピンク色をした小さな花びらが健気な姿態を晒して北風に揺らいでいた。

〈面影橋から 天満橋 天満橋から 日影橋 季節はずれの 風にのり 季節はずれの 赤とんぼ〉―。

フォーク界の先駆者として知られる及川恒平さんが作詞・作曲した『面影橋から』の歌い出しの部分だが、もはや現代では〃季節はずれ〃といった表現は当たり前すぎるのか?

〈季節のない 街に生まれ 風のない 丘に育つ 愛のない 家を出て 夢のない 人にあう〉―。

さぁーてお次は、ご存じ「島原観光大使」こと泉谷しげる先生の登場だが、大使はこのところすっかりお見限りだ。お元気にされているのだろうか…?

出来ることなら、年末の「島原城カウントダウン」あたりにひょいと現れ、お得意の「悪態」で元気付けでもしてくれたら、と願わないでもないが、皆様はいかがお考えか?

「バカヤロー、何が市制70周年だ。嘘コキ(古希)やがれってんだ。もっと元気出せよ!俺か?俺は〃外れ者〃さ。それがどうした?ただよ、〃外れ者〃がかえって、新しい時代を創っていくんだぜ!」。

そこへ龍馬役の福山雅治兄ちゃんが登場!!嗚呼、筆者の神経も相当〃外れっぱなし〃のようで…。


2010/10/26

何となくアンニュイ…久々に完全オフだったが

久々に心ゆくまで眠りこけた日曜日だった。朝一で「龍馬像」(復興アリーナ)の除幕式に参列した後は、誘われていたゴルフも雨で流れたので、終日、家でゴロゴロしていた。

たまに「休息」も必要なのだろうが、生来の貧乏性のせいか、何かしら罪悪感のようなものを感じないでもない。ただ、体調面から言えば、いつになく快調な滑り出しである。

それもこれも一念発起して思い立った「禁煙」のせいだろうか…。会合や飲み会で「一服いかが?」などと、悪ふざけ半分で勧められても、固い決意は微動だにしない!?

我ながら大したもんだ、と独りごちているが、まだ「薬(禁煙パッド)頼り」なのがいささか気にかかる。それでも、もう間もなくひと月…。そう、継続は力なり、なのだ。

閉口するのは、パッドの貼り場所。通常は左右上腕部の「チカラコブ」の裏側に貼っているのだが、他人様より皮膚感覚がデリケートにできているので、「連続貼付」というわけにはいかない。

ならば「どこでもいいではないか?」(事実、使用例にはそう書いてある)ということになるが、これがなかなかに悩ましい限りなのである。

よく「タバコを止めたら太るよ!」と言われているので、努めて運動(散歩など)もしている。そうすると必然的に「発汗」も伴うので、患部でもないのに、貼り付けた場所が痒くてたまらないのだ。

おっつけ、貼り場を求めてお腹、背中…などと「流浪の旅」が続く。ハッキリ言って、「ここぞ!」といったポイントがまだ掴み切れていないまま推移している。これが現状である。

そんな他愛もない「悩み」を抱えながら、月曜の紙面を開いてみると、対馬では、またしても心ない母親による娘の遺棄致死。しかも、「湿疹の治療」を放置していた挙句の惨事だとか。いや、はや…。

さて、今週は初めから各種スケジュールが目白押しだ。幾つもの公的な会議をこなし、日を空けずして、飲み会も随所に予定されている。また私的な用事も山積みだ。

ふと会社の窓越しに音無川の沿道を眺めると、公園のイチョウの葉っぱが緑から黄色に変わり始め、その脇の柿の葉も日に日に赤みを増している。

一方、先週末に植えた事務所入り口の花壇の花々は、一雨浴びたことで勢いを取り戻し、来るべき冬に備えているようだ。

わが身を振り返ってみれば、たるみきった右上腕部の贅肉の上に、シワシワになったパッドが無残な状態をさらけ出している。長袖の季節にはまだ早過ぎるし、かと言って半袖のままでは朝夕が肌寒い…。

すべてが「中途半端」なまま人生の第4コーナーを回りつつある、我が生き様を省みて、「大きなため息」がまた一つ漏れる。


2010/10/24

己の無力さを実感!!…偉大なる「山懐」に包まれ

〈ゆきはよいよい かえりはこわい♪〉ご存じ童謡『とおりゃんせ』の一節だが、山登りについても同じようなことが言える。

常識的に考えれば、「登り」より「下り」が楽に決まっている。だが、経験のある人なら良くお分かり頂けると思うが、これが意外や意外〃難物〃なのだ。「膝が笑う」のである。

下山ルートは「土小屋」(面河村)ではなく、「成就社」(西条市)を目指して進んだ。距離も短いし、正直言って「なめて掛かった」のだが、これが大間違いのコンコンチキだった。

平坦な道がまるでないのだ。行けども、行けども「階段」の連続で、膝はガクガクするし、そのうち杖を持つ手も震えてくる。「景色」も見えない。

「誰だ、このルートを選んだのは?」。怨嗟の声も上がり始めたが、「先にはロープウェイが待っていますから…」とのガイドの案内を真に受け、全員無言のままひたすら駆け下った。

途中、いたたまれずに急きょ「休憩」が提案されたのも度々。ヘビの類いを見かけなかったのが、せめてもの救いであった。

「成就社」はたまたまこの日が「祭りの日」だったらしく、紅白の横断幕が張られていた。しかし、疲れ切った身体で、とても祭事を楽しむ余裕なんかない。ひたすら「駅」を探した。が、どこにもない。

「まさか?」と思って近所のオバさんに尋ねると、「あと1キロほど下った所にある」という。もう本当に泣きたくなった。

それでも、駅まで歩かないことには、皆に置いてけぼり」にされてしまう。我慢に我慢を重ねてさらにトボトボ…。気付いた時には、「成就とはまっこと難しいぜよ」などとワケもなく龍馬口調で呟いていた。

  ※    ※

「人はなぜ山に登るのか?」。その問い対して、マロニーが「そこに山があるから」と応じたというエピソードは余りに出来過ぎの感がしないでもないが、同時に、「登山の魅力」(=人生の真実)を言い尽しているような気もする。

あれほど疲れ果てた格好で下山しながらでも、心中ひそかに「次はどの山にしようか?」などと考えてしまう。浅はかと言うか、懲りないと言うか…何とも不思議な心理状態だ。

もっと不思議でならないのは、普段は余り「挨拶」を交わすこともなさそうに見える現代人が、山道ではごく自然な形で「声」を掛け合うことが出来る。

誤解を恐れずに言うなら、「山」というとてつもなく大きな存在を前に、人々は何のテライもタメライもなく「謙虚」になれる。逆を言えば、人間は「山懐」に包まれることで、己の「無力さ」を実感できるのだ。

恐らく筆者はこれからも「山」に登り続けるだろう。なぜか?知らず知らずのうちに「謙虚さ」を失くしてしまう自分が怖いためだ。そう次も「自戒の念」を込めて…。

‐おわり‐


2010/10/23

西日本最高峰に立つ!!…初めて見たブロッケン現象

鳥居をくぐり抜けるとすぐ、難所らしき急坂斜面が控えていた。ただ見た目には、山頂はもうすぐそこ。「指呼(しこ)の間」としか思えない視認距離だ。

間もなく、ある「選択」を迫られた。鎖を手繰り寄せて最短の直線距離をよじ登るのか?それとも迂回路を使うのか?どちらかを選べ!というのだ。

ここで18名いるメンバーの意見が大きく分かれた。体力に自信のある「直線派」と、「急がば回れ派」の2つである。筆者は迷った挙句、後者を選んだ。

少しだけ補足説明するなら、「石鎚山」の最終登山ルートには〃名物〃と言われる「鎖の道」があって、それぞれ「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」と名付けられている。

長さは順に「33メートル」「65メートル」「68メートル」。ただ一旦「鎖の道」に入ってしまうと、「もう後戻りできない!」というリスクも同時に背負うことになる。

悩ましい限りだが、決めないことには前には進めない。各自それぞれの責任で「道」を選んだ以上、同時に全うする義務も負う。何だか、この辺りが「人生」なんだよなぁ…。

ただ、迂回路とて決して楽ではなかった。よくぞまぁ、こんな登山路を拵えたもんだ、などとしきりに感心しながら、ひたすら「頂上」を目指す。

己の体力の限界と苦闘すること約30分。最後の階段を必死の思いで駆け上ると、見事なパノラマ視界が一気に開けてきた。

山頂神社付近は多くの登山客で溢れていた。ひとしきり「達成感」を噛みしめながら、参拝を済ませると、まだ遥か向こうでは尖がった岩肌を覚束ない足取りで歩いている連中がいるではないか?

聞けば、ピークは対岸の「天狗岳」だ、という。ここまで来て頂上を極めない手もあるまい。さらに体力を振り絞ってチャレンジすることに決めた。参加者2名。

巧く説明できないが、例えて言うなら、その山は「削り節」のような形をしていた。岩肌にへばりつくようにしてソロリ、ソロリ。片道15分ほどの「ほふく前進」で最後の岩塊をよじ登り終え、ついに立てた、西日本最高峰!!

ただ、元来「高所恐怖症」の質(たち)なので長くはおれない。再びのほふく前進。途中「怖いもの見たさ」で直角に屹立した岸壁の淵に立つ。

不思議と「恐怖感」はなかったが、霧深い谷底の向こうに、何やら「人影」のようなモノが見えた。後で聞いたら、「ブロッケン」という極めて珍しい気象現象だという。

再び神社前まで引き返して、待機メンバーと合流。やっとのことで「弁当」にありつけると思っていたら、「もう下るよ!」と、リーダーの無慈悲な一言。

「そりゃないべ…」。思わず「谷底」に突き飛ばしてやりたい気分に駆られた。冗談ですよ、冗談!!


2010/10/22

登山成功の秘訣は?…先ずは慣らし運転に徹せよ!!

旅の楽しみは、途中の様々な珍事との遭遇も勿論だが、帰宅後に写真等を眺めながら、改めてその場面々々を思い描いてみるのも、また一興だ。

「石鎚山」登山の記念写真が出来上がった。晴天に恵まれたせいもあってか、どれもなかなかの「出来栄え」!?我ながら、その才能の素晴らしさに驚いている次第だ。

ただ、実を言うと、この旅に出ることを決めるまでは、「石鎚山」なる存在をまったくもって知らなかった。ましてやそれが「西日本最高峰」(1982メートル)だなんて…。

当日は案内ガイドに導かれるまま、早朝6時にホテルを出発。途中2時間程うつらうつらしながら、トイレ休憩箇所まで来てみてはじめて、余りの山の深さに度肝を抜かれた。

表示を見ると、難しい地名読みとして広く知られる「面河(おもご)渓」とあった。

とにかく、下界から眺める空の範囲が極端に狭いのだ。巧く表現できないが、「逆さすり鉢状」とでも言ったらいいのか…。

そこからさらに30分ほど、バスは「スカイライン」と称する山道を辿る。まだ朝が早いと言うのに、すでにマイカー族による登山客の列また列…。

「どれが石鎚?」「あの尖った三角錐の山がきっとそうさ!」―。車内は早くも熱気でムンムン。そうこうしているうちに、登山口の土小屋に到着。

駐車場はすでに満杯状態。福岡の専門店で買ったばかりの新品リュックに着替えや弁当などを詰め直して、いざ出発!

標識で確認すると、山頂までの距離は約4.6キロ。道は想っていたよりなだらかだった。内心「これなら雲仙より楽勝バイ」と密かに手を叩いたほど。

が、油断はくれぐれも禁物。「決して慌てず、最初は慣らし運転に徹すること!!」とのリーダーの教えを墨守し、一歩一歩を踏みしめながら進んでいった。

30分ほど行くと、早くもリーダーから「休憩」の指令。通路を開けて休んでいたら、次々と後続部隊が追い越していく。と同時に、早くも下山組の姿も続々と現れ始めた。

「お疲れ様です」「すみませーん」「頑張って」などと、交わす言葉は様々だが、どの顔も不思議なほど「充足感」で満ち溢れているように見える。

途中、見晴らしのよい「ビューポイント」も計算されたかのように随所に誂えられており、この山の「人気の秘訣」が分かるような気もした。

1時間強をかけて4キロ近くを歩いた辺りで、鳥居の姿が見えた。もう一つの登山ルート「成就社コース」との合流点だった。

香川県からやって来たという老人グループのリーダー格の男性がしたり顔でこう呟いているのが聞こえた。「残り500メートルがクセモノなのよ」。果たして、その予言通りだった。
      
‐つづく‐


2010/10/21

吉田安弘さん逝く…あの世で西川さんと邂逅!?

予定では「石鎚山」の話を書くつもりでいたが、詩人で郷土史家の吉田安弘さんの葬儀が護国寺で営まれたばかりなので、急きょ方針を転換する。

享年90歳。島原市文化財保護審議会委員を務めるかたわら、有明町や布津町などの『町史』の編纂でも活躍。一言でいえば、ロマン溢れる、羨ましい限りの「自由人」であった。

晩年、体調を崩されてからはお会いする機会もめっきり減ってしまったが、お元気な頃は我が家にもよく訪ねて来られていた。長身でハンサム。ロング丈のコートの良く似合う「伊達男」でもあった。

生家は吾妻町(旧山田村)の大地主。長男(後継ぎ)に生まれながらも「文学への夢」断ち難く、せっかく進んだ早稲田の法学部も、途中から文学部に転身。

卒業後一時期は鎮西学院などで教壇に立っていたが、当時島鉄の重役をしていた故宮崎康平さんの引きで同社入り。生来の「歴史好き」に拍車がかかる。

中でも情熱を傾けていたのは、島原半島における「隠れキリシタン」の研究。筆者も「大発見!」との連絡をいただき、山間部にひっそりと佇む神社などを案内してもらったことも度々だ。

その他で印象に残っているのは、江戸時代末期に大阪で勃発した「大塩平八郎の乱」に、有明出身の横山文哉が参画していたことの証明。

歴史を揺るがせた「島原の乱」からちょうど200年ぶりという「本格的一揆」の位置付けを、地元の身近な人物の存在を通して、分かりやすく解説した功績は極めて大きい。ご冥福を心から祈る。

さて、今日(10月21日)は筆者にとって、終生忘れることの出来ない「特別な日」である。長男の誕生日であると同時に、故西川清人さん(有明町、写真家)の命日とも重なるからだ。しかも今年は、満10年の節目でもある。

先日、西川さんの写真の弟子でもある講談社の古賀義章さんから電話が入った。「早いものですね。あれからもう10年ですよ」。もちろん、筆者とて忘れるはずもないので、短く「そうだね…」と答えた。

月明かりの綺麗な、波静かな晩だった。突如、夜中に「訃報」を受けた筆者は後先を考えることが出来ず、とにかく走った。

遺体の安置された二階のベランダから眺めた「有明の海」は殊更に美しかった。10年経とうが、20年経とうが、決して忘れることの出来ない光景だ。

通夜、葬儀と、泣けるだけ泣いた。もう一生分の涙を使い果たしたはずだが、近しい人の「死」にまみえる度に、相も変わらず溢れ出てくる。

恐らく今晩あたり、あの世では西川さんが吉田先生をこう出迎えていることだろう。「あらっ、先生も来らしたと?まーだ、ゆっくら、しとかっせばよかったとに…」。合掌。


2010/10/18

小豆島が復活の兆し…良い事はドンドン吸収を!!

「わかくさ保育園」(新山2丁目)の初代園長、故池田清徳さんの生前の口癖は「うちの先祖は小豆島」だった。少し解説を加えるなら、「島原の乱後に南有馬に移住して来て、それから島原へ…」などと続く。

その「小豆島」がいま、都会からの若者の移住で活気を取り戻しつつある、という。少し旧聞になるが、10月11号の週刊アエラ(朝日新聞)が特集記事を組んでいる。

筆者自身、幾度も訪ねたことがある島なので、興味深く読ませていただいたのだが、率直に言って、「額面通り」に受け取ることは出来なかった。

何故だろう?必死に記憶の糸をたぐりよせているのだが、「これだ!」という核心に迫り切れないモドカシサさえ感じて始めているところだ。

四国の玄関口、香川県高松市からフェリーで約1時間。土庄と小豆島の2町があり、現在の人口は3万1千人。戦後のピーク時からすれば半分以下だとか。

また、ご多分にもれず高齢化率も35%と言うから、島原半島以上に危機的な状況なのである。それなのにどうして、若者たちはこの島を目指すのか…。

アエラの記事によれば、07年度=5件14人、08年度=12件19人、09年度=15件29人で、年を経るごとに移住者の数が増えている、という。

一方、年齢別では30代が最も多く17人。次いで20代未満が13人で、この中には、親と一緒にやって来た子どもの数も含まれているそうだ。

島の主たる産業は、オリーブ栽培と、そうめん・醤油の製造。それと観光。確か、2軒ほど大きなホテルがあったはずだが、最近の動向は知らない。

その他の観光施設としては、クジャク園やカワラケ投げなどが楽しめる寒霞渓(かんかけい)などがあったが、さほどインパクトがあるとは言い難い。

なのに…?素朴な疑問が払拭できないままパソコンに向かっているのだが、一つだけ言えることは、この島の景色や雰囲気は南島原市一帯と極めて良く似通っているのだ。

筆者が何回か訪れてみても余り「カルチャーショック」を受けないのは恐らく、こうした「既視感」(デジャヴュ)のような心理的要因が働いているもの、と想われる。

が、モノは考えようである。小豆島で出来て、島原半島で出来ないはずもあるまい。「学ぶ」の語源は「まねぶ」とも言う。良い思える事はドンドン吸収すべきである。

ましてや「ご先祖様つながり」で友好関係を結んでいる、言うなら「親戚同士」ではないか。そうめんも、醤油も、棚田もある。周囲に島々もある。

休耕地を利用してオリーブだって植えられるはずだ(すでに九電工が天草で着手)。筆者が勝手に、藤原新市長の「次なる一手」に期待する所以である。


2010/10/16

やって来ました800回…不断の努力で「勘」も輝く

拙稿も今日で800回。何はともあれ「やれ、やれ」である。ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんによれば、「八」という数字は、故池田勇人総理がゲンを担いでよく使っていた、という(=『危機の宰相』)。

また、古来日本は、「八百万(やおよろず)の神々の国」と言われ、自然界の万物全てを信仰の対象としてきた。誠に偶然ではあるが、島原城下ではいま神社の「秋祭り」。巧まざる「神の思し召し」に深謝だ。

「八百万」とは数が多いことの例え。青果店と同じ意味合いで使われている「八百屋」という呼び名もこれに由来したものと言えるが、品揃えの豊富さからすれば、むしろ最近ではコンビニの方にこそ似つかわしいのかも知れない。

一方、「嘘八百」という言い方もある。その意味は文字通り、多くの嘘を並べ立てること。慶応義塾の創始者である福沢諭吉さんに言わせると「世の中で一番悲しいこと」だそうだ。

〈折れたタバコの 吸いがらで あなたの嘘がわかるのよ 誰か良い女 出来たのね 出来たのね♪〉

ご存じ中条きよしの代表作『うそ』の歌い出しの部分だが、作曲(平尾昌晃)ともかくとして、作詞を担当した山口洋子ママ(銀座)の「感性の鋭さ」には畏れ入る。

よく言われる「女の勘」とかいうやつだろうが、これから益々禁煙文化が進んでいけば、タバコを吸わない男の嘘を、女はどうやって見破るのだろう…。まぁ、どうでもいい!

さぁーて、今日のお題もなかなか焦点が定まらず、四方八方、アチコチ飛びまくって恐縮だが、前述の池田勇人さんはとても「勘」を大切にした政治家だった、という。

特段、政治の世界だけでなく「勘」は何によらず大事だ。最近はデータを重視する余り、「勘」を軽視しているような風潮がなきにしもあらずだが、やはり最終決断はコンピュータ任せではいけない!

ミスタープロ野球こと長嶋茂雄さんはよく「動物的勘」の持ち主として喧伝されてきたが、もう一人、知る人ぞ知る「鋭い勘の持ち主」がいた。

我が国ラグビー界の至宝であった宿澤広朗さん(平成18年、心筋梗塞で急逝)がその人。早稲田時代には2年連続で社会人チームを破って日本一に輝き、日本代表の監督も務めた。

だが、特筆すべきなのはむしろ金融ビジネス界での活躍ぶり。持ち前の「勘」を駆使して為替ディーラーの最前線に立ち、勤務先の住友銀行に巨万の利益をもたらした。

その宿澤語録の中にこのようなものがある―。「一度の場面のために1年間練習を積む」「データには必ず誤差がある」など。

筆者なりに解釈すれば、物事を成り行き任せにしない「不断の努力」があってこそ「勘」も正確に機能する、と。何とも、耳の痛い言葉でもある。


2010/10/15

中国への素朴な疑問…もっと毅然とすべきでは?

私儀、格別なる国粋主義者でもなければ、共産党一党支配の「中華人民共和国」に敵意・反感を抱いている者でもない。むしろ、その歴史を遡ってみても明らかなように、日中両国の関係は「一衣帯水」であることを信じて疑わない、単純極まりない人種である。

ここしばらく、身の回り近辺の「自虐ネタ」が続いたので、せめて今日くらいはまっとうに「世論」に挑んでみようか、と思う。はて、どう展開していったらいいのやら?まったくもって予測もつかないが…。

13日付の産経新聞一面に、同社ワシントン駐在編集特別委員の古森義久氏が、『あめりか ノート』というレポートを寄せている。まず、その見出しにビックリした。〈中国に貢ぎ続ける日本〉とあったのだ。

それによると、日本の対中援助総額(ODA)は毎年、12億ドル(1080億円)だという。配信元が「AP通信」(北京発)であることを考えれば、あながち出鱈目な数字ではあるまい。ちなみに、日本に続くのはドイツ、フランス、イギリスなどの順。

同氏はその数字の根拠について、一部論旨の飛躍を指摘した上で、さらなる日本政府の「弱腰外交」の実態を暴きだしている。その主舞台となっているのは、日本が最大出資国である「アジア開発銀行」。傍目には日中2国間での援助額自体は減っているように見えても、内実は別物だ、と。

もう少し整理して言うなら、日本の国民(納税者)は「アジア開銀」を通じてせっせと中国を支援。中国はその巨額のジャパンマネーで鉄道や高速道路などのインフラ整備を進める一方で、(ここから先が大事!)その他多数の諸外国に向けて援助を続けている、というのである。

仮にそれが「事実」だとするなら(恐らくそうだろうが…)、もう開いた口が塞がらないではないか。冒頭述べたように、筆者自身、国粋主義者でも何でもないが、日本は断じて中国の属国なんかではない。

外交や政治については「門外漢」の身であることは重々承知しているつもりだが、先の尖閣諸島問題の収め方にしても「日本政府はよくやった!」などと評価している国民はかなりの少数派であろう。

最近でこそ出番が少なくなってきた「必殺事業仕分人」の某女性閣僚にいたっては、「尖閣は領土問題…」などとうっかり口走り、「閣内不一致」の現況をさらけ出したばかりか、グラビアアイドル出身のキャリアを生かすべく、国会内で雑誌記者相手にポーズをとっていたとか…。

民主でも、自民でも、あるいはその他の政党との部分連合でも何でもいい、何かにつけて横車を押してくるような「無法国家」に対しては、もっと毅然とした対応を望む。何と言っても「大和(日本)は日出ずる処(国家)」なのだから!!


2010/10/14

ついに禁煙パッド!!…外堀は徐々に埋められ…

軽い気持ちで始めた「禁煙治療」もいよいよ佳境に入ってきた。足かけ10日間にわたるオリエンテーションを経て、ついに「禁煙パッド」を手にしたのだ。

改めて「処方箋」を読み直してみると、徐々にニコチンの摂取量を減らしていくという「緩和療法」で、8週間後には、もうタバコに頼らなくても済む「健康ライフ」が自然と約束されるのだ、という。

まあ、その「真偽」の程はさして「当て」にならないとしても、一応「臨戦体制」だけは整った。つまり、後はすべて、筆者の「意志の問題」に集約されたのである。

ところで、「禁煙」に成功できるかどうかのポイントは、周囲の人間に対して、出来得る限り大きな声で「宣言すること」にある、と言われている。

その点で言えば、筆者の場合は、色んな「思惑」や「恥」も「外聞」もそっちのけで踏み切った。そうした思い切りの良さが、少なくとも現時点では、一定程度「成功している」と言えないこともない。

何やら、覚束ない「言い回し」で、自身の今の複雑な心境を書き綴っているわけだが、すでに「外堀」が埋められてきていることだけは確かなようだ。

数日前には、お隣の奥様から「まだ続いているの?頑張ってね!」と励ましを受けたし、今朝も散歩の途中でラジオ体操帰りの皆さんから、訝るような「視線」を投げかけられたのも事実である。

ところで、この前の連休期間中に友人の息子さんの結婚式に招かれた折、たまたま同テーブルに着いた横田修一郎島原市長と木下康博前有明町長(現島原市社会福祉協議会長)との間で「タバコ論議」を交わす機会があった。

まず横田市長の場合、「完全禁煙」までに要した期間は約3年間だとか。「最初の頃は封を切らずにポケットの中にしのばせていたが、我慢しきれずに吸ってしまったことも度々あった」という。

一方、木下前町長。この方の現職当時のイメージは、片時もタバコの煙を絶やさない典型的な「チェーン・スモーカー」(1日3箱)だったが、同級生で現南高医師会長、泉川欣一先生(深江町)の勧めでピタッと止めたというから、凄いではないか!

お二方の話を興味深く聞きながら、筆者はその日生まれ(10月10日)の小説家、野坂昭如さんが陽気に歌い踊っていた、とあるCMソングのことを思い出していた。

「ソ、ソ、ソクラテスか、プラトンか。ニー、ニー、ニーチェか、サルトルか。み~んな、悩んで大きくなった♪」

野坂さん自身、かつては自他ともに認める「ヘビー・スモーカー」だったわけだが、それが祟ってか今や不自由な病床暮らしのようだ。

やはり、哲学的な問題で悩むより、タバコ止めた方が賢いのかも…。


2010/10/13

俺って写真の天才?…ノン!単なる「早とちり」だよ

仕事柄、写真を撮る機会も多いが、最近はもっぱらデジカメを使っている。最初に購入したのはもう10年、いや15年以上も前のこと。白黒画像しか撮れなかったが、10万円は下らなかった、と記憶している。

それが今やどうだろう?携帯電話に付いているカメラでも、カラーはおろか、動画の撮影だって十分に可能だ。恐るべし、技術革新の波!

実は、最近の楽しみの1つは早起きして「日の出」の様子を動画で収録すること。特段、使用目的があるわけでもないので、いたって気楽なもんだ。

撮影場所は長浜海岸の「スクイ」のあたり。周囲には現場の地勢に詳しい熱心なスチールカメラマンの方もおられるので、邪魔にならないことを先ず心掛けている。

何より散歩のついでの手慰み。三脚なんか当然持って来ていないし、本当にその手法たるやザッとしたものである。

ただ、さすがに「手持ち」では限界があるので、コンクリート護岸の上にカメラをそっと置いて構えるのだが、これがなかなか思うにまかせない。いわゆる「構図」の問題だ。

安定度を重視する余り、手前の方に置き過ぎれば「絵」そのものが台無しになるし、かと言って先っぽの斜めになったテトラポッド上では覚束ないし…。数日前などは準備の途中で、危うく転倒しそうになった。

撮影に要する時間は毎回10分強。日の出とともに妖しく変化する雲間の色合いは、この世のものとは思えないほどの美しさだ。

最近は撮影の途中で近くに棲みついている野良猫がにじり寄ってくるようになったが、デジカメ以外には「脂肪を燃やすお茶」しか持参していないので、対応のしようもない。

ひとしきり日の出の撮影を終えたら、再び歩き始める。そして路傍の草花を撮影する―。

10日ほど前に撮ったヒガンバナの写真は、自分で言うのも何だが、かなりの傑作だと思う。その日は一捻りして、花弁に焦点を絞って、真上からファインダーを覗いた。

すると、柔らかな日差しの朝焼けの効用と相俟って、得も言えぬ色合いの「幾何学文様」が浮かび上がってきたのだ。

調子に乗って、昨日の休日(11日)の話をすれば、諫早・白木峰高原で収めたコスモスの1枚は、雲や空を絡めた斬新な構図!コンクールに出したいほど大いに気に入っている。

ただ、コスモスの意味は、ギリシャ語で言うところの「宇宙」。太陽も海も空も花も…すべては壮大な「宇宙の営み」の一環なのである。かくして、己の卑小さを再び痛感した次第。

で、最後は「反省」ついでに「訂正」を1つ。前号で池田「隼人」とあるのは、筆者の「早とちり」で、「勇人」の誤りでした。新町のT先生、ご指摘、有難うございました。


2010/10/09

10年前から第2月曜…「体育の日」前に色々思う

「体育の日」については、昭和39年に開催された「東京オリンピック」の開会式の日にちなんで「10月10日」とされていたが、祝日法の改正によって10年前から、「10月の第2月曜日」となっている。

と言うことは、どの年も曜日の並びに関係なく「連休」となるので、休み大好きの現代人にとっては、大きな「朗報」であろう。この不況下、そんな甘い考えでいいの?という意見もあろうが、この際、そんな小難しい論議はさて置く!

さて、東京オリンピックが開かれた当時の「総理大臣」は誰だったか?我々以上の世代にとってはいとも簡単な質問だが、今日日(きょうび)の若者からすれば、それはもう「現代日本史」の範疇だろう。

もったいぶる必要もないのですぐに答えを言えば、池田隼人氏である。年譜を調べてみると、明治32年生まれとなっているから、島原新聞と「同い年」だ。沢木耕太郎さんが著した『危機の宰相』(魁星出版)を読んでみると―。

実家は広島の造り酒屋。末子の一人息子として大切に育てられたが、第一高等学校(東京)への受験に2度失敗。やむなく第五高等学校(熊本)へ。その後、京都帝大法学部を経て、大正14年に大蔵省(現財務省)に入った。

と、ここまでは些か屈折した「準エリート」だが、その後の展開が何とも破天荒。入省4年後には、「落葉性天疱瘡」という奇病を患い、完全に出世コースから外れてしまう。

が、運命とは分からぬもの。途中、戦争を挟んで、先陣争いを繰り広げていたライバル連中が次々と放逐されていったのを受け、とうとう官僚最高位の「事務次官」まで昇りつめてしまうのである。

その後、政界(衆議院)に身を転じて、総理大臣になったのは昭和35年。日米安保条約の成立と引き換えに政権の座を追われた岸信介氏に代わって第58代内閣総理大臣となる。

総理としての在任期間は同年7月から五輪閉幕直後の昭和39年11月までの4年強。任期半ばで「ガン」を発病していることが判明したが、戦後20年、日本復興の集大成とも言える「大事業」を信念一筋で成し遂げたのである。

沢木さんの言葉を借りれば、「所得倍増」という卓抜したネーミングで当時の国民に夢を抱かせた「池田政権」はそもそも、総理&ブレーンともども「敗者」の集合体だった、という。

ただ、それは勝負事に敗れたという単純な意味での「敗者」などではなく、先輩格の吉田茂元宰相言うところの「グッド・ルーザー」(良き敗者)だった、と。

果たして、今の政界に「グッド・ルーザー」と呼ぶに相応しい人物がいるのだろうか?いくら考えたところで、正しい答えなど見つかるまい…。

さあ、明日は「体育の日」だ。書を閉じ、表に出よう!


2010/10/08

秋は詩情をくすぐる…レンコンと竹輪は縁起物

あんなに世を挙げて「暑い」「暑い」とこぼしていたのに、季節は早くも冬の訪れを予感させています。そう言えば、私が知らない間に自販機にはホット飲料が登場していました。

私めはここ1週間、健康の維持・促進を目指して、禁煙と早起きを心掛けております。おかげで、持病の高血圧の症状はすっかり影を潜めています。

毎朝のように眺める、対岸の熊本方面から昇ってくる「日の出」の美しさは本当に神々しいばかりで、今日1日の無事安寧を願う柏手にも、思わず力がこもります。

秋から冬にかけてのこの季節は、おしなべてヒトを「詩人」にするようです。ひと頃と比べるとすっかり力強さのなくなった「虫の音」を耳にするだけで、もう涙ぐんでしまいます。

青春の一時期、小椋佳さんの旋律にハマっていたことがあります。女々しいですか?そうかも知れませんね…。

〈こぼれ松葉をかきあつめ おとめのごとき君なりき こぼれ松葉に火をはなち わらべのごとき われなりき…〉

『海辺の恋』と題されたこの作品は、佐藤春夫さんの詩に小椋さんが曲をつけたものですが、数ある小椋作品の中でも大好きな曲の1つです。

長浜海岸の突堤で「日の出」を拝んで、その足で猛島神社方面に向かうと、お社脇の通りには「こぼれ松葉」がそこかしこに散らばっています。

残念ながら、一緒に火を点けてくれるような「乙女」の姿は見当たりませんが、感受性に満ち満ちたオジサンの「詩心」は無限の広がりを見せるのであります。

いいですね!ポエムですね!ファンタスティックではないですか!幾つになっても、そうした気持ちを失くしてはなりませぬぞ、皆さま!

場所移って島原城東堀端。こちらは、あと数日後に迫った「レンコン掘り大会」の看板がにぎやかですね!

土中深く根を張っているレンコンには、こぼれ松葉のような「詩情」は似合いませんが、泥まみれになって悪戦苦闘している参加者の姿を想い浮かべると、ユーモラスですよね。

もともと、レンコンは「縁起物」の一種としてお正月のお節料理にも使われています。何でも、「穴が開いていることで先が見通せる」というのがその理由のようです。

穴が開いていて美味しい食べ物は、他にもありますよね。そう、「竹輪」なんかがそうですね。まあ、これなんかも「縁起物」の一種でしょうが、今話題の映画『悪人』(原作)の中にも、島原の「港」と「竹輪」が出てきますよ。

ただし、それは悲しい状況設定の中で使われています。嗚呼、こんな支離滅裂なことを書いて、もう穴があったら入りたいくらいです。サヨナラ!


2010/10/07

我が心 千々に乱れて…禁煙の先行きはつかめたが

〈もうー、もっダメ!1本だけ、いや、せめて1口だけでも…〉。本当に心の底から、そんな叫び声を上げたいくらい、の心境だ。

歴史的な大幅値上げを機に、今週初めから踏み切った「禁煙の誓い」(チャレンジ章)も、はや4日目を迎えた。正直に言う。まだ1本も吸っていない。

ノン・スモーカーの方々には分からないだろうが、この辛さは尋常ではない。体はだるく、イライラ感は増し、集中力は欠け、睡魔さえ襲ってくる。

医学の専門用語では「離脱症状」と呼ぶのだそうだが、筆者の場合は格別「重篤」のような気がしてならない。ハッキリ言って、ここシバラクは、ほとんど仕事にならない。

本来であれば、前夜(6日)は、新番組『当方見聞録~この人に会いたい~』をスタートさせていたはずなのに…。肝心の本人が「その気」にならないから困ったものだ。

それでも昨夜は、かすかな「勇気」を振り絞って、ラジオ出演だけは果たした。鰻家小にょろ師匠の「ご配慮」に深謝だ。

出演中はもっぱら、新番組の話題に持ち込もうとされた(by小にょろ)が、やんわりとケムにまき、自らの「衝動禁煙」にまつわるバカ話に終始した。

ところで、冒頭の「禁断症状」についてだが、今日辺りからかなり落ち着いてきたようにも思う。積極的ではないにせよ、一応「書く」という気持ちにはなれたのだから…。

ただ、まだ油断は禁物だ。今でも、もし誰かが「1本どうぞ!」と差し出して下されば、むげに断り切る自信はない。

一方で、「禁煙」という行為に正面から取り組んでみたことで、逆に見えてきたこともある。「喫煙イコール悪ではない」ということだ。ただし、それは健康上の問題や、周囲の非喫煙者への気配りというマナー面は差し引いての話。

なぜ、恥をしのんでまで、このようなことを言うのか?少なくとも喫煙には、「いや、ちょっと待て!」という暴走を食い止める「効用」がある、と改めて感じたからだ。

先般、新聞の書評欄で見た資生堂名誉会長、福原義春氏の著作『私は変わった 変わるように努力したのだ』をタイトルに惹かれて買った。

期待して開いてみたのだが、中身はあっけないくらいの短文の寄せ集め。正直「何これ?」とも思ったが、幾度か読み返していくうち、なかなか含蓄に溢れているではないか!

実は、この福原さん、なかなかの才人で、同じく求龍堂から出ている『松岡正剛千夜千冊』(超話題本!)の装幀まで手掛けているほどの文化人なのだ。

「松岡正剛」と聞けば、片時もタバコを手放さない〃博覧強記〃の編集者として知られる。憧れないはずがない。果たして、私は変われるか?嗚呼、一服した~い!


2010/10/06

つら~い〃禁煙生活〃…始まったばかりだけど…

「ローマは一日にしてならず」―。大きな物事を成し遂げるには、長い歳月と努力を要するとの意味だが、足かけ35年間もの長きわたって「我が肺」を支配してきた「喫煙帝国」が、いよいよ崩壊の憂き目を見ようとしている!?

なぁ~んて、ふざけた書き出しで恐縮だが、結構厳しい「禁煙生活」のスタートである。この原稿を書きながらも、頭の中はフラフラ状態。考える余裕もない。ただもう、後には引けないし…。

「今度こそ!」の思いはかつてなく強いので、さらにその「覚悟」を揺るぎないものとするべく、先週末には行きつけの歯医者さんにお願いして、「ヤニ掃討大作戦!!」を敢行したばかり。

が、その医院では筆者の信用度は極めて低いようで、先生自ら「本当に禁煙するつもり?」と、端からアテにしていない様子。スタッフの皆さんも、ほぼ同様の口ぶりだ。

喫煙そのものは犯罪でも何でもない。したがって「再犯率」という言い方は当たらないだろうが、恐らく皆さん相当高めの数値であろう。そう、み~んな悩みながらもモクモクと吸い続けてきているのだ。

まあ、不退転の覚悟は覚悟として、今回ばかりは少し知恵を絞って、最初から「医療機関」にお世話になるつもりでいた。保険も適用されることだし、週明けには某院まで直行してきた次第。

事前に血圧や脈拍などを測る看護婦さんによれば、やはり今回ばかりは圧倒的に「受診率」が高いようだ。続いての検査では、吐息の一酸化炭素濃度が測られた。「5ですね。治療がうまく進んでいけば、これが0になりますから、頑張って下さい」。

なるほど、そんなものなのか…と軽く聞き流していたが、いよいよ主治医の前に座って診察を受け始めたら、急に怖くなってきた。

「今やがんの中でも肺がんの死亡率が一番です。念のためにCT検査をしておきましょう。それから血液と尿も」―。

自慢ではないが、こと「病」に関しては人一倍思い込みが激しくて、自分で自分の病気を「フレーム・アップ」(でっち上げる)してしまうタイプの人間なのだ、この私は。

つまり、人後に落ちない「臆病者」なのである。したがって、軽い気持ちで「禁煙治療」に出向いたはずなのに、気づいてみたら、「病に対する不安」が夏場の入道雲のようにニョキニョキと首をもたげてきた、といった感じなのだ。

どうしよう、もし肺がんだったら?これまでだったらタバコを吸いながら深く考えるところだが、禁煙中なので、それも出来ないし…。

簡単なようであって難しく、難しいようであって簡単なもの―。「それが禁煙!」と、いま気づいた。まだ2日目。


2010/10/02

JRは変わったか?…大人げない対応に失望も

最近はちょこまかした日帰り出張(福岡方面)が多く、先般は久方ぶりにJR九州の特急(大牟田→博多)に乗った。

通常なら運賃の安い西鉄電車を利用するところだが、たまたまその日の会場が博多駅前だったため、JRに乗車したのだ。これがすこぶる快適だった。

双方乗り比べたことのある方ならお分かりだと思うが、料金が高い分、JRの方がゴージャスなのである。また、ワゴン販売もあるので、出張とはいえ、ちょっとした旅行気分を味わうこともできる。

その日、筆者はホットコーヒーを頼んだ。笑顔の可愛らしい素敵な売り子さんだった。一杯の値段は250円。同行社員の分も含めて500円を支払った。と、後で使える割引チケット2枚と合わせて簡単なゴミ袋も付けてくれた。

だいたい昔の国鉄と言ったら、全般的にサービス精神に欠け、スタッフの態度も横柄だった。それがどうだろう?民営化された途端に、接客対応は俄然良くなり、制服の格好も見違えるほどスマートに!

まったく良いことづくめの「民営化」だったわけで、「これなら身を挺してタバコを吸い続けてきた甲斐があった」などと思っていたが、まだまだ「改善の余地」はあるようだ。

博多駅前での用事を済ませ、帰路も「JR&高速船」で帰ろうと思っていたのだが、あいにく時間帯が悪かったため、急きょ諫早経由に切り替えた。

車窓から眺める佐賀平野は何とも牧歌的であった。あとは刈り取りを待つだけの黄金の田んぼ…。時おり、真っ赤な曼珠沙華の群落が現れては、見る間に背後に消えて行った。

おやつの竹輪を日本茶のペットボトルで流し込んでいるうちに、知らない間に眠っていた。2時間弱が過ぎいよいよ終点の諫早駅が近づいてきた頃合いを見計らったように、車内アナウンスが始まった。

「大村線乗り換えは○時○分、○番乗り場。長崎方面へは…」などとひとしきりJR関係の説明があった後、最後に島原鉄道の紹介に移った。

この時点で「まさか?」と思ったが、案の定、悪い予感は的中してしまった。乗り換えホームの案内だけで、出発時刻についてはナシノツブテだったのだ。

まあ、すぐ近くのホームでもあるので、改めて説明も要らないと考えているのだろうが、釈然としない思いは、島鉄に乗り換えてからもずっと残った。

本当に国鉄(JR)は変わったのだろうか…。同じ経営体ではないというだけの理由で無視を決め込んだかのようなアナウンスは、大人げない対応ではないか…。それとも、そんな法律でもあるのか?

販売後にゴミ袋まで用意してくれた売り子さんとの余りの違いに、割り切れぬ思いを抱いた次第。


2010/10/01

タバコ今日から値上げ…吉永さん、もうスイマセン!?

さあ、いよいよ今日から10月!とは言っても、この原稿を書いている時点ではまだ9月中なので、タバコには「旧料金」が適用されている。

筆者お気に入りの銘柄は、赤ラーク。ただし、小箱の方だ。たまに会社のスタッフに買って来てもらうこともあるが、それが大箱だったりすると、正直ガックリくる。

当人としては「タールもニコチンも同じ数値。一体何が違うの?」と開き直りたいところだろうが、実際に吸う側からすると、これがまったくもって「別物」なのである。

〈グレーの背広に ラークのタバコ ママさんのいい人ね 身の上話をしたいけど…♪〉―。

調べてみると、増位山関が『そんな女のひとりごと』という曲を出して大ヒットを飛ばしたのは、昭和52年のこと。当時、筆者が吸っていたのはマイルドセブンだった。

さらに「初体験」の話まで遡れば、中学2年か3年の頃だった、と思う。単純にどんな味なのか?とハイライトで試してみたが、まったく体が受け付けなかった。

再び吸い始めたのは19か20の頃。ゲルベゾルテというドイツ製の両切りタバコを粋がって吸ってはみたものの、味は皆目わからなかった。

旅行会社勤務当時は海外添乗に行く度に、カートン単位(10箱)で大量買いし、「非課税」の範囲で、同行のお客さんにも預かってもらっていた。

ただ、ヨーロッパなどに長期間滞在していると、出国時の買い置きが無くなってしまうこともしばしば。そんな時は、現地の売店で買うしかなかったが、1箱の値段は400円ほどだった。

そう考えると、今回の値上げ後の料金もそう驚くに値しないのだが、何せ当時と比べると吸う本数が違う。ちょっと計算しただけでも、年間トータルでは8万円近くも負担が増してしまうのだ。

さあ、こうなったらもう「禁煙」しかない!そんな思いにかられつつ、本稿に立ち向かっているところだが、見る間(ま)に灰皿が吸い止(さ)しの山。果たして今日、もう何箱目だろうか…。

ふと顔を上げると、大女優の吉永小百合さんが、この私めのために特別に書き下ろしてくださった「禁煙」を勧めるメッセージ(色紙)が、紫煙の向こうにクッキリと見える。

文豪・坪内逍遥が訳したハムレットの彼の有名なセリフは「在るか、在らぬか…」(明治42年)だったが、何も「存在すべて」(命)を賭けてまで喫煙することもあるまい。

ここはひとつ、吉永さんの教えに従って「ノン・スモーカー」の仲間入りを果たすことにするか。よし、病院へ行こう!

そう言えば、そんな題名の映画(監督は『おくりびと』の滝田洋二郎さん)もあったっけ!?