2012/12/29

いつの日かハワイに!?…それまでは「猛島」で我慢

「ねーねー知っちょ?○○さんのお宅は年末・年始ばハワイで過ごさすとげなよ!スゴかぁ~」。まるで、筆者へのアテツケのような母と家人の口ぶりである。

少しカチンときたので、こう反論してやった。「ハワイ?どうせ泳ぐだけじゃろもん。オイも3日に猛島海岸に行くとぞ!アンタたちも一緒ん来んね?」。会話は途切れ、気まずい沈黙の時間が流れた。

てなわけで、家族のヒンシュクを買いながらも、来春早々の「第18回寒中水泳」(島原市水泳連盟主催)に参加することになった。今春に続いて2度目の暴挙(愚行?)である。

ただ、もう年が年だから、その日の体調次第だ。それに、ここでポックリと死んでしまったら、長年にわたって掛け続けてきた「年金」の元が全く取れなくなってしまうし…。

まあまあ「与太話」はこれくらいにして、真面目に「告知記事」を書こう。でないと、昨年亡くなった父・藤田昌之氏の遺志を引き継いで張り切っている昭比古会長に叱られてしまう。

1月3日(木)午前11時30分、現地集合。受付後、入念な準備運動を行って、正午を機に全員で海に入る。小雨決行。

そう言えばこの前、TBSテレビのモスクワ特派員だったかが、零下20℃の気温の中で分厚い「氷」を割って「水」に浸かっていたが、それに比べればまだまだ!

冷たい!寒い!と騒いだところで、せいぜい零度くらいのものだろう。それに、こちとらには、あのユニクロでさえ売っていない「ミートテック」(贅肉)が付いているんだから!?

それにしても正月をハワイで過ごすなんて、まるで芸能人一家ではないか。本当に、まったく、羨ましい限りだ。

だいたい正月に限らず、ハワイなんて一度も行ったことがない。他のリゾート地には仕事で何度も訪れているのだが、どういうわけか、ハワイにはご縁がない。

それもこれも筆者の稼ぎが悪いせいで、母や家人には、まったくもって面目もない。ただ、これだけは約束しよう。「年金」が貰えるようになったら、必ず連れて行くからネ。

でも、その時まで(8年後)、母はまだ生きているだろうか?ひょっとして家人が先に逝ったりなんかして…。

別に期待しているわけではないが、何が起きるか分からないのが「人生」というもの。書きながら思い出したが、今年の夏の盛りに、母との間でこういう「やりとり」があった。

「お母様、お亡くなりになった後、遺産の問題で兄妹がもめないよう、今からご準備を!」。「フン、わたしゃ何も持たん。そいに、どっちが先か分からんじゃろもん?」―。

どうやら来年も「バトル」が続きそうだ。皆様、よいお年を!!


2012/12/28

自慢話より失敗談!!…女性にモテルためには…

近くのコンビニに行ったら、珍しくマガジンハウス発行の『ブルータス』(1月1日・15日合併号)が置いてあったので、買い求めた。630円也。

表紙上の題字部分(横書き)の腹を切るように《男を知る本、女を知る本、212冊》という特集記事の紹介。今さらこの年齢になって「女」を知る必要もないなとも思ったが、つい手が伸びた。まだ〝枯れて〟いないか…。

ペラペラと頁をめくっていくうちに、ちょうど中ほどで、「タモリ」(タレント)を発掘したことでも知られる漫画家の赤塚不二夫さん(2008年没)の青焼き写真と出会った。

全裸とおぼしき女性を背後にはべらせ、ピースサインを出しながら、澄ました表情で映っている。もちろん、ご本人も「ハダカ」である。

記事によれば、代表作『天才バカボン』の連載当時、赤塚さんは月に1億円近くを稼いでいた、という(=著書『酒とバカの日々』より)。

それだけでも相当ビックリする話だが、もっと驚くのは「でも、全部、飲んじゃった」と、アッケラカンと述懐していること。まあ、人それぞれに色んな人生があろうが、ここまでくると、さすがに「天才」である。

さて、その天才!赤塚さんだが、生前、よく女性にモテテいたと言われている。「そりゃー月に1億も稼いでいれば誰だって」という気がしないわけではないが、どうもそれだけの理由ではなさそうだ。

それを裏付ける話が先日、フジテレビ系の夜の番組で流れた。赤塚さんはなぜ多くの女性にモテタか?詳細は覚えていないが、確か、次のような赤塚流の「哲学(心理学?)」が語られていたように思う。

女にモテルためには→「俺はこうやって成功したなどといった『自慢話』はご法度。むしろ、『失敗談』の方を女性は好むし、喜ぶ」というのだ。

視聴後、筆者は思わず心の中で大喝采!!「やっぱ、そうやろ。オイの考え通りたい」と、独り「悦に入(い)って」喜んではみたものの、悲しい哉、まだモテタためしがない。

ということは―「筆者が赤塚さんのように裕福でなく、また才能がないから」である。ならば、その条件さえ克服すれば、必然的にモテルようになるということ?まさか!

いやいや、年がら年中飽きもせず、こんな「バカ話」ばかり書いて、とうとう1年が過ぎ去ってしまった。あと数年もすれば、もう「還暦」だ。

しかし、この前、サウナの中で聞いた話によれば、昭和30年以降の生まれの人間は、満65歳を超えないと「年金」は貰えないのだとか…。ホント?

とすれば、もっとしっかり稼がないといけないわけだ。はて、幾つになったら「モテ男」になれるのだろう…。


2012/12/22

あの頃に比べたら…仕事は沢山残っているが

今年も余すところ後10日。師走選挙の編集等の作業に追われて、飲み会の回数は〝激減〟。

「さぁ、これから取り戻すぞ!」と気合を入れ直したいところだが、いかんせん、やり残した仕事が〝山〟と控えている。はて、どうなることやら?

ただ、もう悩んでいる〝暇〟なんかない。指定された締切日までに何とか原稿を上げなくては!

てなわけで、連休期間中は朝から晩まで仕事&仕事の日程がぎっしり。チクショー!巷はクリスマスだと言うのに…。

ところで、毎年このシーズンになって頭をよぎるのは、青春期のほろ苦い思い出ばかりだ―。

【その①】20歳の頃。学生。行きつけの定食屋のオヤジの紹介で銀座4丁目にある蕎麦屋(ビル地下)で皿洗いのアルバイト。

昼休み(午後2時過ぎ)、白衣&長靴履きで三越界隈をブラブラ。周囲を見渡せば、カラフルに着飾ったハイソな人の群れ。北風がやけに身に沁みた。

客には、場所柄、芸能人&有名人多し。イナカモンの習性でボーっと眺めていたら、先輩から足で思い切り蹴飛ばされた。

当時住んでいたのは小田急沿線。イブの日。新宿駅で乗り換えようとしていたら、クリスマスケーキの投げ売りと遭遇。値段につられてつい買い求め、独り下宿で涙を流しながら全部食べた。

大晦日。京浜急行品川駅前で、年越しそばの店頭販売。「とにかく大声を上げろ!」の指示通りに動いて、完売。褒められたが、声はすっかり嗄れた。

【その②】25歳。旅行会社社員。誰も添乗に行きたがらない「年越し信州スキーツアー」(募集企画・大阪発着)に指名を受けた。

夜通し走って目的地(斑尾高原)に着くも、宿の手配がデタラメで、客からは「話が違う!」との大合唱。

仕方がないので勇気を振り絞って宿側と掛け合うが、「聞いてない!」の一点張り。余りにしつこく食い下がっていたら、やたら図体のでかいヒゲ面の兄ちゃんが出てきて首を絞められた。

それでも、何とか粘って部屋数だけは確保。真夜中、2㌔ほど離れた自分の宿まで徒歩で移動。月明かりに照らされた雪道は不思議なくらい〝幻想的〟であった。

翌朝、洗面所で鏡をのぞくと、首の周りに内出血の跡がクッキリ。帰社後、先輩に面白おかしく報告したら、渾名を付けられた。「クビノワグマ」。

まあ、そんなこんなで〝悲惨な年の瀬〟を過ごしてきたので、少々の事で驚いたりはしない。それに今は決して〝独り〟なんかではない。

母だって、嫁だって、筆者に対して少々つらく当たっているだけで、決して根は〝悪人〟ではないはず。否、そう信じて2012年〝最後の山〟を乗り越えて行こう。〔どうです皆さん、「他人の不幸は蜜の味」でしょう!?〕


2012/12/19

「代議士」の意味は?…カスミだけでは生存不可能

「桜島には カスミ~が~ かか~る。わたしゃ おはんが~ オハラハ~ 気にかか~る♪」。南九州を中心に活躍している可愛らしい女の子の音楽ユニット「サザンクロス」の代表作だ。もっとも、あまり売れてはいないようだが…。
 

テンポの良さもさることながら、古臭い中にもユーモア感溢れる歌詞が効いている。さりげなく配された「カスミ」と「気」の「掛詞」(かけことば)もニクイではないか。「皆様もぜひご試聴を」とお願いしたいところだが、今日はその話ではなく、小沢昭一さん風に「カスミについて語る」の心だ!

よく「人はパンのみに生きるにあらず」(新約聖書)などと申しますが、カスミを喰っているだけでは、とても人間は生き長らえていけません。当然、そこには「栄養価」のあるものが必要とされます。

私どもの新聞やテレビ、ラジオの業界で例えるなら、「購読料」や「視聴料」、「広告収入」などがなければ事業として成り立っていきません。否むしろ、それが欠かせぬ「栄養源」です。

ところが「(超)一流」を気取る有能な記者の中には、そうした商売がらみの話を極端に嫌う人もいます。まあ、それもある意味「道理」ではございましょう。

ただ、世の中はそんなに純粋無垢な(?)な考え方だけで渡っていけないのも反面、「事実」であります。以前に観た、緒形拳さん主演の『社葬』という映画の中のセリフ(-白紙でも売ってみせる-)が忘れられません。

映画のモデルとなったのは、部数世界一誇る「読売新聞」という説が有力です。そして、その言葉の主は「販売の神様」と呼ばれた務台光雄さん(元社長)だと言われています。

ちょっと聞いただけでは「何とまあ横暴な…」と呆れたりもしますが、裏を返せば「それだけ営業手法に自信があった」ということでしょう。

と、ここまで回りくどいことを書いて参りましたが、新聞やテレビ、ラジオにとっては、日々の出来事を正確に伝えることが何より大切です。しかし、記事やニュースだけ報じていてもカスミを喰っているようなもので、いずれ干上がってしまいます。より端的に言うなら、広告収入がなければ企業としては存続していけないのです。

どうか皆様、弊社の営業スタッフから広告出稿等の相談・依頼がありましたら、事情ご賢察の上、何卒ご理解・ご協力を賜りますよう、筆者からも宜しくお願い申し上げます。

【追伸】第46回衆議院総選挙明け(17日付)の記事の見出しの中で「代議士」という表現を使わせていただきました。この言葉の意味は、参議院議員を含む「国会議員全般」を指すものではありません。「衆議院議員」のことです。別の表現では「選良」とも呼びます。一部に誤解の向きもあるようなので、改めてお知らせしておきます。


2012/12/17

シーサイド島原が開業…〝地の利〟を活かして発展を!!

萩原高(たかし)さんという博報堂のシニアディレクターを務められていた方から以前に聞いた話―。「日本ではよく『○○ターミナルホテル』といったネーミングを見かけますが、あれは間違いですね」とバッサリ。理由を訊くと、「語感が良くない」というのだ。

「だって『ターミナル』とは『終着・終焉』の意味ですよ。恐らく、ローマの『テルミニ駅』辺りから来た発想でしょうが、何だか旅の終わりのような気がして、いただけませんね…」と肩をすくませた。

アサヒビール起死回生の「スーパードライ」をはじめ、今でも記憶に残る名だたるヒット商品の広報戦略を支えた〝名人〟のご指摘である。納得しないわけにはいかない。

さて、第46回衆議院総選挙まっただ中の15日、「島原小涌園」跡に完成した「HOTELシーサイド島原」の開業祝賀会が、盛大に開催された。

新装なった同ホテルを運営するのは、下田幸廣代表率いる「日進グループ」。総員80名の体制で、「観光島原の復活に全身全霊を挙げて邁進・努力する!」と宣言した。

来賓として招かれたのは中村法道知事、金子原二郎参議院議員をはじめ、メーンバンクの小幡修親和銀行頭取や地元政財界の代表など約400名。不肖筆者も社長代理として出席させていただいた。

私事で恐縮だが、今年はどういうわけか「シーサイドホテル」と接触する機会が多い。ざっと振り返ってみても、こんどで3件目である。

初回は鳥取県米子市の「皆生(かいけ)シーサイドホテル」。皆生温泉は霊峰・大山(だいせん)の麓に位置する、山陰地方を代表する温泉郷の一つだが、歴史は比較的新しい。

本格的な開発は大正半ばから。鉄道の敷設と併せた都市計画事業の一環として取り組まれた、という。中心となって活躍したのは有本松太郎翁。ホテル脇に胸像が建てられている。

次いで訪れたのが佐賀県唐津市の「唐津シーサイドホテル」。元の運営主体は「昭和自動車」という地元資本のバス会社だったが、後に独立。歴史は浅く開業は昭和43年。宿泊収容人員は「皆生」のほぼ1・5倍の約400名。

このホテルには私用と会社の出張で2度訪問。客室から眺める景色は、皆生のそれと重なり合って見えた。余談だが、現在の唐津市長の坂井俊之氏は国道を挟んで建つ「唐津ロイヤルホテル」のご出身だとか。

以上、愚にもつかない個人的な〝よもやま話〟でいじましくも行数稼ぎをしているわけだが、「シーサイド島原」は、かの「藤田観光」創業者の小川栄一翁をして唸らしめた〝超一等地〟に建つ。

先行する2社の同名ホテルを〝凌ぐ日〟が一日も早く到来することを、心から願って拙稿を結ぶ。


2012/12/15

50年経っても〝洟垂れ〟…悩ましいアレルギー性鼻炎

小学1年の頃の通知表に確かこう書かれていた。「勉強はともかくとして、ハナ(鼻水のこと)だけは何とかしようね」と。

担任はMさんという30代半ば(当時)の綺麗な女先生だった。綾小路きみまろ風に言えば「あれから50年…」だが、その悪癖は一向に改まっていない。

ただし、そうは言っても、洟の質自体は当時とは随分と異なっているはず。何せ食生活が激変している。昔は筆者に限らず、青洟を垂らした、薄汚いガキどもがごまんといた。

最近は違う。病院などで見かける風邪をひいた乳幼児は別として、鼻水を垂らしている姿などはとんと見かけなくなった。

筆者がまだ幼かった当時は、今のように携帯用ティッシュなどはまったく無く、トイレ兼用のチリ紙を折り曲げてポケットの中に突っ込んで登校していた。

ただ、それも時々忘れることが多く、必然的に上着の袖口で拭っていた。おかげで、袖口はカパカパ。今思うに、M先生の所見欄はそのことを言いたかったのだろう。

さて、自らの病状を敢えて暴露するようだが、実は5年ほど前から「アレルギー性鼻炎」を患っていて、季節を問わず鼻水(青洟ではない!)とクシャミに悩まされている。

春先のスギ花粉も困ったものだが、冬場で悩ましいのは、「風邪」だか「花粉症」によるものなのか、ハッキリとした区別が付かないこと。

ここ数日、その兆候が続いている。最初のうちは、てっきり風邪のせいとばかり思い込んで市販の薬を飲んでいたのだが、どうにも治らない。

仕方がないので、今朝から「鼻炎用」に切り替えた。するとどうだろう、服用後2時間余で嘘みたいにピタッと鼻水が止まるではないか!

「シメシメ…」と思って、手元の手鏡で、鼻腔の奥深くの形状をつぶさに観察してみた。

確かに鼻水は止まっている。しかし、それより何より、無数の鼻毛の中に白いもの(白髪?)がやけに目立つではないか!

短いものは仕方がないのでそのままにして、ピ~ンと伸びた〝大物〟だけを狙い撃ちするが、失敗することも度々。

そこで机の抽斗(ひきだし)から取り出したのが、乾電池式の「鼻毛カッター」。誰かの結婚式の折にもらった「引出物ギフト」で取り寄せたものだ。

切れる!切れる!5分もすると、手入れのよく行き届いたゴルフ場のグリーンのように鼻腔内はスッキリとなった。

ところが、である。そうこうしているうちに、透明色(?)の液体が一筋、ダラリと奥から顔をのぞかせてきた。

しまった!と思ったが、時すでに遅し。どのような形状であれ、鼻毛の果たす役割は大きいのである。嗚呼、またクシャミが出てきた。


2012/12/14

金はケータイの心臓部…ゴミの山から金、銀、銅…

日本漢字能力検定協会(京都市)が募集していた「今年の漢字」に「金」が選ばれた。2000年に続いて2度目だという。

理由については、ロンドン五輪での日本選手の活躍や山中伸弥・京大教授がノーベル賞受賞という「金字塔」を打ち立てたこと、「金環日食」が見られたことなどが挙げられている。

応募総数は25万8912点。うち「金」は9156票を集め、「輪」「島」「領」「乱」「空」「政」などが続いた。

さて、その「金」にまつわる〝よもやま話〟を幾つか。まずは「金字塔」について―。ふだん会話の中などで何気なく使っている言葉で、その意味は「すぐれた業績」のこと。と、ここまでは誰でも知っている話。

問題はその先。〝そもそも論〟で恐縮だが、元はエジプトの「ピラミッド」のことなのだそうだ。勿論、筆者など知る由もなかったのだが、先般、FMしまばらの「春ちゃん」こと宮崎春而さんと話しているうちに、その〝事実〟を教わった。脱帽!!

続いては、「金」そのものについて―。たまたまいま読んでいる〝老舗〟についての研究本『千年、働いてきました』(角川書店)に取り上げられていた。

一般的には「金の延べ棒」(約1㌔)と呼ばれる「金地金」の取り扱いメーカーとして知られる「田中貴金属工業」(明治18年創業)のことが筆頭に紹介されている。

同社の主力商品が「金地金」であることには疑う余地もないが、驚いたのは「純金」そのものがIT機器の先端を走るケータイ電話の心臓部(振動用モーターの一部)の役割を果たしていること。

もっと面白かったのは、廃棄されたケータイの中から再び「純金」を取り出している会社が存在していること。

「金」は世界でも最も貴重で高価な鉱物資源であるから、当たり前過ぎる話ではあるが、その会社が「ワシントンホテル」や「小涌園」などを全国展開している「藤田観光」のグループ企業であることは余りご存知あるまい。

社名は「DOWAホールディングス」。元は秋田県で「銅」の採掘に当たっていた会社(明治17年創業の「小坂銅山」)だが、最近ではケータイや車などの〝ごみの山〟から「金」だけではなく「銀」「銅」「プラチナ」まで取り出すことに成功している。

さらにその技術は全国に広がる「土壌汚染」の浄化対策にまで及んでいるというから、思わず〝賞賛の拍手〟を送りたくなってしまうではないか。

他にも、この本の中には、誰も知らないような老舗の知恵と、生き残りを賭けた壮絶な戦いの軌跡が紹介されているので、是非ご一読を!!

蛇足だが、金の延べ棒1本を取り出すには、廃棄ケータイ3・5トンを要するそうだ。


2012/12/13

辛い境遇の〝ムコ殿〟…なぁ~んとも思ちょらん!?

このところ選挙関連で「堅苦しい話」ばかりが続いているようなので、今日は「軟ネタ」を―。と言っても、ご多分にもれず9日に投開票が行われた島原市長選での一コマから。

我が家の家族5人が墓参りを済ませて投票場となっている市民課ロビーを訪ねたのは、午後の1時を過ぎたあたりだったろうか。

まず筆者が投票を済ませて後の4人を待っていると、顔見知りの立会人がニヤニヤしながらヒソヒソ声で尋ねてこられた。

最初のうちは何のことだか聞き取れなかったが、よくよく耳を澄ませているうちに、その意図が判って独りで大爆笑。立会人はこう問われたのだった。

「新聞で時々あなたが書いている意地悪な母親って、あの方?」。筆者はすかさず応じた。「そう一番左のコーナーでいま書いているのが鬼婆で、その隣にいるふっくらしたのが実の娘の鬼嫁なんですよ」と。

よもや聞こえはしまいと思っていたが、さすがに〝悪口〟だけには耳聡い性質のようで、クルリと踵(きびす)を返して、「もう勝手なことばかり書かれて迷惑しているんですよ、私たちも」と、ものの見事に一本取られてしまった。

その日、「罰」として筆者に課せられたのは「昼飯代」。しぶしぶ立ち寄った焼き肉屋さんでの支払いは全額筆者に回ってきた。まったくもって「口(筆?)は災いの元である」と実感した次第。

ところで、どういう編成の悪戯だか知れないが、現在、BS朝日というチャンネルでは、昼間に『市長はムコ殿』という番組を流している(再放送)。

タイトルからも類推出来るように、ストーリーは、入り婿が市長だった岳父の突然の死去によって、思いもよらなかった「市長選」に担ぎ出されるというドタバタ喜劇だ。

主演は里佳子(タレント・女優)の元ダンナの渡部篤郎。義母役を市毛良枝が務め、気の強い嫁を黒谷友香が演じている。

劇中、渡部は気の弱い「ムコ殿」を見事に演じ切っており、何だか身につまされる思いで、昼飯で帰った時などにチラチラと画面を眺めている。

とそこに、雲仙市長選に金澤秀三郎県議が出馬するというニュースが飛び込んできた。別段、驚きはしなかったものの、ほんの冗談のつもりで「他所の人はよかね~。自由に選挙に出られて」と口走ったら、案の定、傍らの鬼コンビから〝口撃〟の矢が一斉に放たれた。

「あんたも雲仙市(生まれ故郷)に戻ってから出馬すればよかとん。どがん?」と。さすがに温厚篤実な筆者もこの時ばかりは堪りかねて、声を大にして、こう反論した。「おいば何て思とっとか~!」。

と、件の母娘コンビは身じろぎもせず、互いの顔を見合わせながらこう冷静に返してきた。「なぁ~んとも思ちょらんよ」。〝筆者完敗〟の瞬間であった。


2012/12/12

ノーサイドで行こう!!…前市長の手腕を評価した上で

今年の師走は日本列島全体が「衆議院選挙」一色に塗りつぶされた感があるが、ともにイギリスを発祥の地とするサッカーやラグビーのスポーツ界もいよいよこれから正月明けへ向けて〝佳境〟を迎える。

そのラグビーの世界でよく語られる言葉が2つある。すでに人口に膾炙(かいしゃ)している話なので今さら述べるまでもなかろうが、1つは「ワン・フォー・オール。オール・フォー・ワン」という、かの有名な言い回しだ。

直訳するなら、「一人はみんなのために。みんなは一人のために」―。つまるところは、団体競技(≒社会)におけるチームワークの大切さを謳っている箴言(しんげん)だ。

さて、もう1つは?こちらも有名なのでご存知の向きも多いだろう。そう、「ノーサイド」という短いフレーズだ。

換言するなら、試合が終わったら、勝敗の結果は別として、互いの健闘ぶりを称え合おうというスポーツマンシップに則った、いわゆる「騎士道」の精神に基づく考え方である。

先般、元国見町長で合併後初の雲仙市長選に挑んで敗れた渡辺秀孝さんとお会いする機会を得た。そこで、以前から〝小耳〟に挟んでいたある出来事について尋ねてみた。以下はそのやりとりの一部。

「先生(筆者はそう呼ぶ)は、市長選挙で負けた後に、当選者に祝福の電話を入れられたそうですね。その話は本当ですか?」。

「あー、したよ。立候補者は誰でも、その地域を発展させたいと願っていることに違いはなかろう。『私の分もしっかり頑張って!』と激励した」。

話は相前後するが、渡辺さんは本県ラグビー界の重鎮の一人である。筆者は直接ご本人から事の真偽が確認出来て、とても清々しい気分になれた。「これぞ、『ノーサイド』のラグビー魂なのだ」と。

さて、島原市長選挙の結果が出た。市を二分した激しい一騎打ちの戦いだったが、結果は新人の古川隆三郎さんが見事!初当選を果たした。

休刊日から一夜明けた各紙の紙面では、新市長の当選の喜び、選挙戦を振り返っての話、抱負などが分析記事として紹介されている。いずれも傾聴に値する内容だ。

ただ、新市長も各社のインタビューに応じられている通り、むしろ問題はこれからの「市政の舵取り」の難しさである。

戦いである以上、「勝者」もいれば、「敗者」もいる。また、ある程度、心情的なシコリも残るだろう。

しかし、それは1日も早く取り払わなければならない。それが新たな島原市を醸成していく上での「ノーサイド」の精神だ、と思う。

最後に、誤解を恐れずに言うなら、筆者は前市長の行政手腕を今でも高く評価している。もちろん新市長には、手法は違えども、さらにその上をいってほしい、と期待している。


2012/12/09

選挙にまつわる思い出…「本多VS吉岡」から早20年

島原市長選挙もいよいよ今日9日が投・開票日。前回と同じ顔ぶれによる現職と新人の一騎打ち。事前の予測がどうであれ、深夜には〝決着〟がつく。

人それぞれの人生だが、誰しも幾つかは選挙にまつわる〝思い出話〟をお持ちのことだろう。かく云う筆者とて例外ではない。

最初の記憶は中学時代。親戚(男性)が県議選に挑んで敗退したこと。選挙権もないのに、子供心に悔し泣きしたことを今でもよく覚えている。

長じて、大学生として上京した折には、「美濃部VS石原」の都知事選に遭遇。興味本位で石原事務所(新宿)を訪ねたこともある。また、クラブ(同好会)の仲間には当時の社会党委員長のお嬢様もいた。

社会人になって飛ばされた四国・徳島では、「後藤田VS三木」の熾烈な争い(阿波戦争)が際限もなく繰り広げられていた。

皮肉なことに、仕事の上では両事務所に出入りすることを許され、後に首相秘書官、鳴門市長などを歴任された三木派のYさん(故人)には格別に可愛がっていただいた。

足掛け6年余の徳島勤務を経て長崎に帰郷。その頃はいわゆるプータロー状態で、乞われるままに、大学の先輩に当たる某衆議院候補の選挙を裏方として手伝った。結果は負け。

島原入りしてからは「公平中立」を旨とせねばならぬ新聞記者として、様々な選挙戦をウオッチしてきたが、やはり一番印象深く残っているのは噴火災害の最中で行われた平成4年の市長選挙。

師匠筋に当たる現職大臣の威光を背に颯爽と出馬表明を行った本多繁希県議に、島原市の助役だった吉岡庭二郎氏が果敢に挑み、薄氷の勝利を収めた、あの伝説の選挙戦だ。

そうか、あの戦いからもう20年の歳月が流れたか…。本多氏はすでに鬼籍に入られ、吉岡氏は4期を務めた後に引退された。

その後、平成の大合併等の影響もあって、首長・県議選に限らず、島原半島地域における市議選の様相も一変した。

それもこれも〝時代の流れ〟に違いないが、選挙戦そのものが確実に盛り上がらなくなってきているような気もする。

長年にわたる地域経済の停滞が遠因なのか?それとも政治・行政に対する期待値が漸減し続けているのであろうか?

政治学者でもないから、その辺りの事情は分からないが、昔は選挙戦となると急に生き返ったように活発に動き回る〝名物〟がどこの地域にも必ず1人や2人はいた。

今でも思い出すのは当時中年だった某男性。選挙時にはテカテカした顔で我が家にも頻繁にやって来て「あの陣営には誰々が付いている」「もう勝負は決まっている」などと、余り当てにならないアングラ情報を提供してくれていた。

そう言えば、もう彼の姿をとんと見かけない。どこに行ってしまったのだろう…。


2012/12/08

どうしてそんな日に?…開票翌日は「新聞休刊日」

背中の窓越しに冬の柔らかな日射しが顔をのぞかせている。猫であれば、その日溜りの中にゴロンと横になりたいところだが、働くことが義務付けられた人間である以上、そういうわけにもいかない。

さて、今日で師走も早1週間が過ぎた。いよいよ市長選&衆議院選も佳境に入ってきたようだ。気のせいだろうか、選挙カーの声も次第に熱を帯び、絶叫調に変わりつつある。

もちろん、我がカボチャテレビ&FMしまばらでも、開票現場から「生中継」する予定でいる。当日はどうぞ、ご自宅のテレビ&ラジオ&スマホで「票の行方」をご確認下さい。

市長選において残念なのは、「開票結果」を知らせる翌10日付けの一般紙(全国紙、ブロック紙、県紙)があいにく「休刊日」に当たっていること。

さすがに地元唯一の「郷土紙」である島原新聞は、何が何でも休むわけにはいかない!ただ、一部配達を一般紙の販売店に委託しているため宅配が遅れてしまう分も出てしまうが、前述した通りの「事情」なので、どうぞご寛恕いただきたい。

と、ここまでおとなしく書いてきたが、段々と腹も立ってきた。そもそもどうして「休刊日」の前日に、選管は開票日程を組んだのだろうか?

それを決める段階ではまだ、「休刊日」が定まっていなかったのだろうか?それとも全く意識していなかったのか?今さら言っても詮なきこととはいえ、いまだに合点がいかない。

「だったら新聞も休まなければいいのに…」との反論も予測されるが、一般紙の場合わずか「1年に10日」だけの休刊日である。その指摘は当たるまい。

いずれにしても、今後も再び起こり得る問題である。選挙が終わって落ち着いた段階で、関係者にじっくりとお話をうかがうことにしよう。

ところで、師走入りから1週間が過ぎた12月7日~8日あたりが二十四節気で言うところの「大雪」(たいせつ)なのだそうだ。余り耳慣れない言葉だが、解説書を読むと「寒気が増し、平地にも雪が降り始める」とある。

さすがに降雪の兆しはまだ窺えないが、足元の冷え込みはこのところ随分と厳しさを増してきているように感じる。

ふだんから雪の中での生活に慣れ親しんでいる北国の人々と違って、我々南国人はからっきし「寒さ」に弱い。以前、こういうことがあった。

まだ、噴火災害が続いていた頃、某全国紙記者の奥様から叱られた話だ。筆者がご愛嬌のつもりで「今日は死にそうなくらい寒いですね」とご挨拶したら、「何言ってるの。これしきのことで」と、目の前で腕まくりされたのだ。確か、その奥様は東北地方のご出身であった。

忙しない気分で「大雪」を迎えるにあたって、そんなエピソードをふと思い出している。


2012/12/02

悩むより動こう!!…月明かり浴びて安堵感

このところ〝心労〟が重なって、いささか食欲をなくしつつあった。ならば、少しはスリムになっているだろうと思って自宅風呂場の体重計に載ってみたが、一向に変わらず。しっかりと〝大台〟をキープし続けている。


そこで、ふと我に返った(倒れてもいないのにオーバーな)。考えてみれば、実に簡単明瞭な身過ぎ世過ぎの〝真理〟だが、悩んだところで問題は何一つ解決しないのである。


デブの立場からもっと言うなら、痩身効果もないのにアホらしい!そんなことよりもっとカラダそのものを動かそうと、昨夜(30日)は久方ぶりに散歩に出かけた。


暦によれば確か満月は2日前(28日)のはずだったが、老眼と乱視が入り混じった目には完璧な〝まんまる〟状に映った。


お伴は同じような体型をした家人と、旅行先の熊野古道(和歌山県)で仕入れてきた木杖。手に持った感覚がないほど軽いので、多分材質はスギではないかと思うのだが、振り上げれば〝野犬除け〟くらいにはなるだろう、と思って持参した。


長浜から猛島~北門と海岸沿いを歩いているうちに、月にかかっていた叢雲(むらくも)もすっかり失せて、月明かりでクッキリと影ができるほどに―。


唐突だが、我が家の菩提寺は桜井寺(崩山町)である。その本堂に赴くと、浄土宗の開祖・法然上人が詠まれた次の和歌が展示してある。《月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ》


仏教的な解釈など門外漢の身には分かるべくもないが、本堂にお参りする度に心の中で朗誦しているので、改めてその月の照射を受けてみれば、そこはかとなく〝安堵〟を覚える。


散歩のおかげで、昨夜は酒の力も借りることもなくグッスリ。おかげで寝覚めはいつになく爽やか。今後の人生における〝曙光〟の兆しをしっかりと受け止めることが出来た。


こういう〝澄み切った心境〟になると、全ての物事の見方がまったく違ったものになってしまうから不思議だ。一体自分は、何を今までウジウジと思い悩んでいたのだろう?答えはすでに用意されているではないか!


と言うことで、本日の〝活力朝礼〟はいつになく力が入った。演題は「秋茄子」。


よく諺で言われる「秋茄子は嫁に食わすな」についての2つの解釈をめぐる話であったが、結論(今日の心がけ)としては「旬の野菜で体調を整えましょう!」と。


社員全員で読み終えた後に、猛然と〝食欲〟が湧いてきている自分に気付いて急に可笑しくなった。そう言えば、慌てて出てきたので、まだ朝飯を食っていなかったのだ。


さあ「師走」だ。走ろう!その前にメシを!!