2006/09/29

「佐藤岩」は無いぞ!! - 馬場先生が "仕掛人" だった -

 昨報の「岸信介岩」の記事を読んでいただいた大先輩の山本悌一郎さん(緑町)から "命名" にまつわる裏話を聞いた。

 山本さんによれば、事の起こりは地元の青年団が、郷土出身の代議士、馬場元治先生(元建設大臣、南串山町出身)に一枚の写真を送ったことから。

 馬場先生は「岩の形が岸総理に似ている」という便りをたずさえ、早速官邸に写真を持参した。一目見るなり、総理は「本当に私と瓜二つだ!!」。

 そこから先が、いかにも政治家らしい話で、「今はそっくりだが、波に洗われ続けると、首の部分から崩壊してしまうかも…。縁起でもない」ということになって、即座に補強工事の予算がついた、という。

 以上が「岸岩」(正式にはこう呼ぶらしい)誕生の?末だが、後に総理となる弟の佐藤栄作さんがこの話を聞きつけ、「『岸岩』があるなら、『佐藤岩』があってもおかしくない。何とか私のも探してくれんか、馬場君」と泣きついてきた。

 佐藤総理と馬場先生は旧制第五高等学校(熊大の前身)の同級生で、大変に仲が良かった。当時の五高には二人の「佐藤姓」がいて、色の黒いのが「黒砂糖」、白いのが「白砂糖」と呼ばれており、佐藤総理は前者の方だった。

 親友からのたっての願い事ではあったが、馬場先生は即座にこう言って断った。「島原半島には無いものは無いくらい色んなモノがある。黒砂糖だってある。でも、さすがに君に似た岩だけは無いなあ…」と。

 ところで、今回の自民党総裁選で安倍晋三官房長官に敗れはしたものの、麻生太郎外務大臣はインターネットの世論調査でトップに立つなど、巷間に一定の存在感を植え付けた。

 以前にも書いたが、麻生外相の母方の祖父は、日米講和条約を取りまとめた、戦後を代表する大宰相の吉田茂氏。今でも選挙区の老舗旅館「城西館」(高知市)には吉田総理が飲み残したオールド・パーのボトルが大切に保管されている、という。

 その吉田政権を裏で支えたのが、白洲次郎氏(一九〇二~八五)。エッセイストとしても知られた白洲正子さん(一九一〇~九八)の夫だ。いま、その「白洲次郎」がちょっとしたブームになっている。

 曰く「GHQを叱り飛ばした男」「外車(ベントレー)を乗り回し、初めてジーパンをはいたスタイリッシュな日本人」。知る人ぞ知る "伝説の人" だ。

 本日は行数が足りないので、また稿を改めて書かせていただくことにするが、とにかく "痛快な" 人物である。今の政財界にもこんな "快男児" がいればなあ、とも思う。

 蛇足だが、白洲正子さんの生家(伯爵家)は今の自民党本部が置かれている永田町一丁目だ。


2006/09/28

半べそブルドッグ!? - 「岸信介岩」は健在だった -

 日本国第90代、57人目の内閣総理大臣が26日の衆参両院本会議で正式に決まった。先の小泉政権下で官房長官を務めていた安倍晋三氏。52歳。戦後生まれ初。

 新総理に関しては新聞各紙やテレビ等で様々な論評が繰り広げられているので、筆者ごときがしゃしゃり出る幕ではない、と心得てはいる。だが、一国の "総理" の誕生である。閣僚の顔ぶれも含めまったく興味がないわけでもない。

日付はさかのぼるが、総裁選レース3人の顔ぶれが出揃った折、弊社の社長ともども島原半島をドライブした。さして目的はなかったが、時計回りで加津佐から南串山に入った所で目にしたのが「岸信介岩」だった。

 小学生の頃だったか、叔母が加津佐に嫁いでいたこともあって、その珍奇な形をした「岩」は良く眺めていた。ただし、総理として記憶に残っているのは、もう一代後の池田勇人大臣からである。

 「岩」の命名者が誰で、いつ頃名付けられたものかは知る由もないが、恐らくは「岸内閣」発足の祝賀ムードに乗じて、そう呼ばれたものだろう。

 以前、社長から聞いていた話がある。山口県の湯田温泉に「山水園」という老舗旅館があって、そこのオーナーの中野何某という老人が、岸総理の熱烈な支持者で、同時に島原の大ファンであった、と。

 南風楼を常宿として、地元の皆さんとも親しく歓談していた、とも。社長はしばし「岩」を見つめながら、「中野のジイさんには良く可愛がってもらった。現職を退いた岸さんと愛娘の安倍洋子さん(晋太郎夫人)が同行してきたこともある」と懐かしそうだった。

 さて、新総理については、曰く「自民党のプリンス」「お坊ちゃま」「夫人は森永製菓社長の令嬢で、聖心卒」「高級アイス『ププ』を毎日お召し上がり」などと何かと "セレブ" な話題ばかりが取り上げられているが、腹を抱えて笑った記事に出くわした。

 朝日新聞社発行の『アエラ』(10月2日号)がそれ。若手の放送作家、町山広美さんにインタビューしているもので、その形状を「腹を下しっぱなしの半べそブルドッグ。一番似合うコスプレは、執事」などとバッサリだ。

 まあ、外見の評価はともかくとしても、「昭和の妖怪」の孫が、この「平成の世」で何を為そうとしているのか、日本国民として、また島原半島の住民として、じっくりと見守っていこうではありませんか。


2006/09/27

ウナジに強い決意の表れ - テーマは「粋な男の一人旅」 -

 「トットット」や「スースース」はかつて "九州人" にしか解らない方言だったが、タモリや武田鉄矢らの活躍のおかげで、今や全国的にも通用する状態表示語になった。その独特の "言語感覚" を社名に取り入れた、地域密着型のベンチャービジネスが近く、島原市で始まる。

 筆者は記者会見(市役所)、起工式(湊新地)ともに参加した。首都圏進出以来、足掛け20年にわたって蓄積した、国内外の食に関する "ノウハウ" を一挙に注ぎ込むべく、社長には「みそ半」の松永忠徳さん(56)が就任した。

  松永さんの発想は極めてユニークだ。その原点は島高時代の恩師、故木下正彦先生(美術)によるものだ、という。彫刻が専門だった木下先生は一本の木を取り 出し、こう語った。「いいか松永、この中には『仏像』が宿っている。それを彫り出していくのが芸術。人生も同じだ」。

 「とっとっと」のメーンテーマは「粋な男の一人旅」。都会の暮らしに疲れ果てた団塊旦那衆の胸をくすぐるフレーズだ。松永さんは、その「粋」という言葉が大好きだという。

 理由を聞くと、「聞きかじりだが、『粋』という字は『米を砕く』から来ている。すなわち、余分なモノをそぎ落としていく、という意味。根底の部分で、木下先生の考えにも相通じるものがある」と。

 一方で「遊び」の方も豪快だ。ゴルフは夫婦そろってシングルの腕前。漁協の正組合員を自負するだけあって、船舶免許は1級。農業にも造詣が深い。

 起工式には地元政財界から約50人が出席。澄みわたった秋空のもと、神事が営まれ、パートナーの山本蔦五郎さんや満井敏隆さんらとともに事業繁栄を願って玉串を捧げた。

 筆者も後方に座らせていただいたが、ふと読みかけていた塩野七生(しおの・ななみ)さんのエッセイ『男たちへ』の一節を思い出した。手元にないので、正確な引用はできないが、確か「西洋の男に比べて、日本人男性のウナジには力強さがない」と記してあったように思う。

 そんなことを思い浮かべながら、前方に座っている "島原男" どものボンノクボ付近を眺めていた。十人十色、千差万別。白髪交じりもいれば、薄いのも、テカっているのもいた。

 遠目に松永さんのウナジが見えた。綺麗で力強かった。「首を洗う覚悟」で、この古里再生事業に打ち込む。その「決意の表れ」と見た。

   ※    ※

 同社ではコンサートホール用のグランドピアノの提供を呼びかけている。「手作りで始めたばかりで資金的に余裕がないので、ご寄贈下さる方を探しています」ということだ。連絡は開設準備室まで(電話65-2000)。


2006/09/23

キンコスケヤクって誰? - 次第に "運" がついてきたぞ!! -

 21日午後、所用で島原振興局を訪ね、帰ろうとしたら、愛車のフロントボディがひどく汚れていた。おかしい?まだ洗車したばかりなのに…。

 恐る恐る近づいて見ると、なんと鳥のフン。数えたら、18カ所もやられていた。周囲を見渡してみたが、どうやら被害を受けたのは筆者だけらしい。

 「チクショー、カラスの野郎どもか。はたまたハトの軍団か」。"憤慨" のまま車に乗り込み会社に戻ったら、古株の社員から「物は考えよう。"運" がついてきたんですよ」と変な慰め方をされた。

 で、根が単純なものだから「そうか、最近何だかラッキーなことが続いているもんなあ!!」。その頭で、以前口之津町で起きた "糞尿" 事件などを思い出したりもした。

 ところで、20日から島原一中の「職場体験学習」に協力させていただいている。男の子が3人。1人は我が子(三男)なのでさて置くとして、後の2人も良く知っている。

 それにしても3人とも随分と大きくなったもんだ。普賢岳の噴火災害の最中(平成4 - 5年)に生まれたチビ君たちがもう中学2年生。自分が年老いていくのも当然か…。

 ついでのようで申し訳ないが、3人を紹介しておこう。まず、橋本賢人君。上の町、橋本理容院の息子さんで、見るからにスポーツマン。いつの間にか、見上げるくらい大きくなっていた。

 次いで、宮崎拓三君。お父さんはピーシーベース経営の宮崎孝三さん。小さい頃は、聖和幼稚園隣の西日本新聞島原支局の庭で一緒によく遊んだものだ。

 そして、我が分身、清水文太君。先日の本欄で、「漢字に弱い」と書いたら、家に帰って "抗議" を受けたが、どう親のひいき目で見ても確かに弱い。

 もう二週間ほど経つが、有明の友人からメールが送ってきたので、読ませてみた。すると「キンコ、スケヤクガ、ウマカラオチテ…」などと何やら意味不明のたどたどしい音読。不思議に思って読み直してみたら、「キンコ、スケヤク」とは、何と「金子助役」のことだった。

 もう怒りを通り越して "笑う" しかなかったが、よくよく考えてみると、金子助役の前身は「長崎銀行取締役・有明支店長」。

 してみると、「谷口英夫助役とともに、島原市の "金庫" を預かる吉岡市政の重要なサポート役という意味を込めたのだな…」と拡大解釈した次第。そんなバカな!?

 筆者も営業研修という名目で一時間だけ某金融機関に同行した。すると、やにわに支店長に向かって切り出した。「どうか、お父さんの会社の金利を下げてください。お願いします」。でかしたぞ、ブンタ!!何だか晩年の秀吉みたい…


2006/09/22

始まるか!?小泉叩き - 評論家の配役に素朴な疑問 -

 自民党総裁選は安倍晋三氏が総投票数の3分の2を集め "圧勝" した。21日が誕生日なので、何とも晴れやかな気分で迎えた52歳の船出であったろう。まずは祝意を表したい。

 実は昨日(20日)、総務省九州総合通信局と熊本経済同友会共催の「IT(情報技術)活用セミナー」が熊本市内のホテルであって出かけてきた。

 講師は平成10年度に九州電気通信監理局長(当時は郵政省)を務めていた森清氏。昭和24年生まれ。東大法学部卒のバリバリのキャリア組だ。現在の肩書きは総務省総合通信基盤局長。

 同局長は「情報通信をめぐる動向と今後について」と題して、分かりやすく論点をまとめていたが、中でも「安倍政権でも情報通信はこれまで同様、国の施策の大きな柱に位置づけられている」と強調していたのが印象的だった。

 さて、安倍内閣の発足ということは、イコール小泉内閣の終焉である。良くも悪しくも、小泉さんは "派手" な総理だった。その点、安倍さんは少し地味な感じもするが、まだその "正体" は見えてこない。

 最近、少し怪訝に思っていることがある。それは、ワイドショーも含めて、各局のテレビ番組に登場する政治評論家の顔ぶれがほとんど硬直化している、という点だ。

 ハッキリ言って、三宅久之氏(毎日OB)は出すぎだ。好々爺然とした風貌とは裏腹に、時に激して、歯に衣着せぬ語り口はいかにもテレビ向きではあろうが、過ぎたるは何とやら、である。

 復活しているそうだが、昔『時事放談』(TBS)という番組があって、プロデューサーの天野源悦さんに随分と可愛がってもらった。東北生まれで早稲田柔道部出身の "猛者" だった。体型が良く似ていたので、背広を譲ってもらったこともある。

 脱線しかけたが、同番組の主役は何と言っても細川隆元氏(朝日OB)だった。対談相手は小汀利得氏(日経OB)や藤原弘達氏(明大教授)などで、政局の痛快な切り口が毎週楽しみだった。

 政治評論家の細川隆一郎氏(毎日OB)は隆元氏の甥に当たる人だが、何かの本で「マスコミはのぼせ上がってはいけない。所詮、政治家には勝てない」と自虐的に語っていた。「なるほど…」。昨今の偏向キャスティングを見るにつけ、そう思わざるを得ない。

 それを裏付けるかのように、以前は毎朝のように "ご意見番" としてフジテレビに出ていた森田実さんの姿をまず見かけない。ところが、先日、ある本屋で著作の "小泉批判本" を見つけた。

 安倍政権の誕生を機に "小泉バッシング" が起きるのかどうか!?下世話な楽しみである。


2006/09/20

四季を「色」で表すと - 吾いまだ「木鶏」にあらず!! -

 自身51回目の誕生日は台風13号の対応に追われた。30歳を迎えた頃はまだ独身。35歳から十年近くは、普賢岳噴火災害の取材で走り回っていた。

 そして迎えた50代だが、早くも一年の歳月が過ぎた。何事も成しえないまま半世紀余。このまま徒に馬齢を重ねていって良いのか、悔恨の日々が続く。

 さて台風一過。晴れわたる青空を見上げて、確かな秋の訪れを感じた。日本は四季の国で、季節それぞれに「色」がある。

 春は青、いわゆる「青春」。夏は「朱夏」という。秋はご存知、北原「白秋」。冬が雪ではなく、黒の意で「玄冬」というのは意外だった。

 相撲の世界でも同じように「青房」「赤房」「白房」「黒房」と、吊り屋根の方角を定めている。ちなみに「青房」は北東方向。

 元々この色分けは、古代中国から伝わった「四神」(北=玄武、南=朱雀、東=清竜、西=白虎)に由来するもので、中央に位置するのが「皇帝」を表す黄色。紫禁城の屋根瓦が黄色いのはこのためだ。

 まあ、堅い話はこれくらいにして、筆者が幼い頃の角界のスターといえば、栃錦に初代若乃花。テレビが一般に普及し始めた昭和三十年代中頃の話で、取り組み後の再現方法は「分解写真」と呼ばれていた。

 次におとずれたのが大鵬、柏戸が活躍した「柏鵬時代」。この2人より力量は劣ったが、後に協会理事長となった本県出身の横綱佐田の山も忘れてはならない存在だ。

 あの頃の力士は色んな個性派がそろっていた。内掛けの名人大関琴が浜、相撲界の紳士と呼ばれた天草生まれの大関栃光、もみあげの根性大関北葉山…枚挙にいとまがない。

 しかるに今の大相撲は、国際色豊かになった反面、国技としての面白みは少なくなってきたような気がする。その点、島原出身の下田君には存分に "個性" が発揮できる関取に早くなっていただきたい。

 時代はさかのぼるが、前人未到の69連勝を成し遂げた大横綱双葉山は熱心な法華経の信者で、ある意味 "哲学者" だった。

 勝負を前に揺れ動く自らの心境を戒めた有名な言葉がある。「吾いまだ木鶏(もっけい)にあらず」 - 。巧みな日本語を操るいまの外国人力士も立派と言えば立派だが、いかんせん "深み" が感じられない。

 昨夜(18日)は、愚妻と、漢字が苦手な三男の3人でバースデーケーキをいただいた。と、ここにもデジタルの時代が来ていた。「5」と「1」の数字をデザインしたロウソクが用意されていたのだ。

 食べ終わってそのロウソクを捨てようとしたら、三男が「僕の15歳の誕生日に使うから取っといて!!」。まだ一年半も先の話なのに…。三男はサリン事件の日に生まれた。


2006/09/18

触らぬ神に崇りなし!! - またまた "やった" 植草先生 -

 平戸市議会議長に続いて、県警捜査二課長、そしてまたもやの植草先生…。性的な犯罪行為が後を絶たない。それぞれの事件を簡単におさらいすると - 。

【平戸】=先月2日、竹山初吉議長(66)が長崎空港で同僚の女性議員(55)の胸を触った、というもの。同議長は今月5日「健康上の理由」で辞職。

【課長】=91年に国家公務員?種試験に合格した準キャリア組。38歳。夜回りの20代の女性記者を自室に招き入れ、体を触るなどのセクハラ行為をしたことが発覚。

【教授】=ご存知!!植草一秀教授(名古屋商科大学大学院、45歳)。早稲田大学大学院教授だった2004年4月に続いて13日夜、2度目の現行犯逮捕。今度は "手鏡" でなく直に女子高生(17)のお尻を触った。

 恐らくお三方とも動物的男性本能に突き動かされて "犯行" に及んだのだろうが、それぞれの肩書きからしても何ともお粗末なてん末だ。

 「一人前の大人、社会人とは、本能を抑えることができる人間だ」と誰かが言っていたが、そういう意味でいくと、「人間失格」の烙印を押されても仕方がない。

 この3人の場合は明らかに "犯罪" であるから弁明の余地などあろうはずもないが、時々「セクハラ」って何だろう、と考える。

 当然、ある一線を超えてしまうと、「セクハラ」のそしりを被ることになるので、便宜上「基準」が設けてある。知らなかったが、我が社にもあった。

 問題はそこから先だ。キムタクのようなイケメンだと許される行為(例えば肩をポンと叩く程度)が、汚いオヤジだと「セクハラだ」と訴えられてしまう(原告は見目麗しくない女性に多い!?)。

 だが、どう考えても間尺に合わない。「逆差別」ではないか、と思わないでもない。昔「まりちゃんず」とか言うグループが「ぶす」に関する歌をうたっていたが、この層に属する方々が異常にセンシティブな反応を示すことが多い。

 ところで、「ぶす」は漢字でどう書くのだろう、と岩波国語辞典で調べてみたら、〔俗〕醜女、とあるのみ。ついでに、「エッチ」という項目をみると、「変態」のローマ字表記の頭文字から、と記されていた。

 諺に曰く「触らぬ神に崇りなし」。類句に「触り三百」。注釈にはこうあった→「触っただけなのに三百文の損をする意から。がったり三両、とも言う」。

 三百文や三両が今の貨幣価値で幾らぐらいなのか知らないが、新聞ダネになったお三方には随分と高いものに付いた "お触り" であったに違いない。

 脱線するが、「触る」の同音異義語に「障る」がある。こちらは「さしつかえる」「害になる」。むしろピッタシじゃないか!!


2006/09/14

私家版『ちょっといい話』 - 厭な世間は笑いでぶっ飛ばせ!! -

 森本元成さんが本紙にご寄稿いただいている『ちょっといい話』を愛読している。折にふれ示唆に富んだ内容で、さすがに年輪の重みを感じる。宮崎和子さんの『ひとくち説教』にも毎回脱帽している。

 ところで、恐る恐る始めた本稿の連載も30回を超えた。当初、パリー装飾の横田啓さんから「どうせ10回も続かんでしょ」と揶揄されたが、まだまだ続きますよ。「ヒロシ君、オイもやっときゃ、やっとばない!!」。

 とは言ったものの、 "ネタ" に苦労することも度々だ。本日などはその典型で、「なんば書けば良かっじゃろかい?」と悩みに悩んでいる。

 『ちょっといい話』で思い出すのは、演劇評論家の戸板康二(といた・やすじ)さんのエッセイだ。戸板さん(1915 - 93)は東京・芝の生まれ。祖母は戸板学園の創始者で、自身は慶応国文科に学んだ折口信夫門下生の一人。

 その切り口は "洒脱な都会的エスプリ" が身上とされているが、田舎には田舎ならではの "面白さ" がある。それでは私家版『ちょっといい話』の類いを幾つか - 。

 【その1】もう10年も20年も前のこと。安中青年団10数人が上京した。食事の時間になり、都心のレストランに入った。

 「いらっしゃいませ」。洗練された出迎えでテーブルに着いた一行。綺麗に磨かれたグラスや無数のナイフやフォークを前にしばし "無言" の状態が続いた。

 余りにオーダーが出ないので〃不審〃に思ったウエイターがおもむろに近づいてきた。「ヤバイ…」。"気の利いた" のメンバーの一人が思い切って口を開いた。

 「あのー、とりあえずメニューを」。と、「オイもそっで良か」「オイも」「オイも」…堰を切ったような "仮注文の嵐" が吹き荒れた、という。

 【その2】南島原市布津町がまだ「布津村」だった時代。博多で行われた何かの祝い事の席での話。こちらは和食コース。

 当時はまだ「おしぼり」という習わしは一般的には普及していなかった。一行は何やら白い湯気を上げている "白い物体" を怪訝な面持ちで眺めていた。

 すると、ここにもいた "パイオニア" 。その人が沈黙を破って発した言葉は「さあ、冷めんうち、早よご馳走になろーで!!」。

 この手の話は罪がなくて良い。まだまだストックもある。筆者も次男を連れて東京に行った際、不思議な光景を見た。それはホテルのシャワーキャップを被って雨の中を歩いている20人ほどの中国人旅行団の人々だった。

 拝啓、石原・東京都知事様。中国人を「支那人」と呼んだり、九州を田舎扱いしては、いずれバチかぶりますよ。本当に。敬具。


2006/09/13

廣井脩先生を偲ぶ - 人間味溢れる不世出の社会学者 -

 その数およそ400。「救急の日」の9日夜、東京・市ヶ谷のアルカディア6階ホールは溢れんばかりの人出で埋まった。東京大学大学院情報学環教授で日本災害情報学会々長を務めていた「廣井脩先生」を偲ぶ会に出席してきた。

 祭壇正面には、従四位、瑞寶中綬章の勲章を従えるかのように焼酎の四合ビンが2本。先生とは10年程前、弁天町の「網元」で初めて直に会った。2人きりだった。筆者もかなりピッチが早い方だが、先生のそれは遥かに凄かった。

 しかも、割り水なしのオンザロック。「美味いねーこの刺身。スリ身揚げも最高だねー」。その晩は瞬く間に2本を空け、お開き。勘定はワリカン。全国紙やテレビに出て難題の解説をしている東大の先生が、こんなにも気さくなオッサンだったとは!!

 本郷の研究室を訪ねたこともある。赤門に近い薄暗い部屋だった。「おー、良く来たね、清水ちゃん。ここに座っといて」。この時初めて国立大学では「係長」のことを「掛長」と呼ぶことを知った。

 この晩も飲んだ。先生はお気に入りの「神の河」の四合ビンに、赤いクコの実を入れていた。聞けば、先生の "特製ボトル" とか。自分の生い立ちやマスコミ報道全般についても色々と話をしてくれた。

 「僕の田舎は群馬の山の中。ミズバショウの尾瀬に近いんだ」「実は僕はパソコン・オタクで、いつもキャリー・バックに入れて持ち歩くんだけど、細かな振動がマシーンには良くないらしいんだ」。

 そんな先生から一度だけ褒められたことがある。2年半程前、地震の震動を予測する、文科省系の実証実験を島原で行った際、本社のIP告知システムが大きな役割を果たしたことについて。

 この時は、記者会見の模様がヤフーのトップページで紹介されたこともあって、先生からすぐ「やったね、清水ちゃん。もっとガンバレ!!」などと激励の電話をいただいた。

 この緊急地震速報システムは "実用化" に向けさらに研究が進んでおり、今月8日付の朝日新聞『ニュースがわからん』のコーナーでも詳しく取り上げられている。

 会場では懐かしい顔ぶれとも多数出会った。池谷浩・元建設省河川局砂防部長)松井宗廣・初代雲仙復興工事事務所長ら、ともに普賢岳噴火災害と戦った面々だ。

 その中の一人、共同通信社の所澤新一郎記者(夫人は有家町出身)がしみじみ呟いていた。「もう廣井先生のような人間味溢れる社会学者とは出会えないでしょうね」。

 今年4月15日、直腸ガンのため死去。享年59歳。日本災害情報学会の来年度の大会は、島原市で11月に開かれる。合掌。


2006/09/08

時よ親王を守って下さい - 愛育病院前には多くの報道陣 -

 東京都港区南麻布五丁目6番地。秋篠宮・紀子様ご夫妻の第三子、皇室にとって実に41年ぶりの男児のお子様「親王」がお生まれになった「愛育病院」のある場所だ。

 所属する日本ケーブルテレビ連盟の緊急集会とことし4月に亡くなった「廣井脩先生(日本災害情報学会前会長)を偲ぶ会」に出席するために、久々に上京している。

 5日朝、会社を出ようとした直前に「親王ご誕生」のテロップがテレビ画面に流れた。帝王切開の予定日だったから判っていたこととはいえ、母子ともにご無事で何よりだ。

 実は「愛育病院」には思い出がある。別段、関係者が入院していた云々とかではなく、よくその周辺を散歩していたからだ。

 道一つ隔てた所に有栖川宮記念公園。こちらは5丁目7番地。宿舎に近かったので、朝早く起きて少しのぞいてみたが、鬱蒼とした木立や水のせせらぎなど、その風情は30年近く前と少しも変わっていなかった。安心した。

 ヒグラシなどのセミ時雨が降り注ぐ中、テレビ各社のカメラが列をなしていた。蚊も多いらしく、足元から蚊取り線香が白い煙を上げていた。

 報道によれば、母子は4階にいらっしゃる、とか。警視庁警官に訝られながら、持参したデジカメのシャッターをそっと押した。齢50を超えても、まあ物好きである。とは言っても、国民的話題である以上、やり過ごすのはもったいない、と考えた。

 この前から脱線に脱線を重ねて下宿の話ばかりを書いているが、実は "5年生" の時には恵比寿に住んでいた。今でこそサッポロビールのホテルなどができてオシャレな街という印象が強いが、筆者が居た頃は何とも形容しがたい "中途半端" な土地だった。

 山手線で渋谷から一駅。地下鉄に乗れば六本木、赤坂方面へも至便。地の利は抜群だったが、ビール工場から伝わってくる「酵母」の臭いには辟易していた。

 我が青春の街近くの病院で「親王」がお生まれになった。報道陣がたむろしている。ふと十数年前の噴火災害当時、「島原生き残りと復興対策協議会」で国会や官庁などへ請願に出向いたことを思い出した。

 あの頃は手書きの原稿をファックスで送っていた。今は写真だって簡単に送ることができる。便利になったもんだ。

 宿舎への道すがら、先日買ったイルカのCDに収められている『時の子守唄』という曲の歌詞が浮かんできた。調べてみると、島原でお会いしたことがある荒木とよひさ氏の作品だった。健やかお育ちいただくことを心から願って、その歌詞の一節を捧げたい。

 <あどけない その寝顔 どんな夢 見てるのかしら 時よ この子を 守って下さい


2006/09/07

むしろ苦労知らずが!? - 美しい国は、美しい地域から -

 豆腐屋の朝は早い。寅次郎ジイさんは別段、仕事をするわけではないが、3時すぎにはもう店を開け、飼い犬と大きな声で会話。『老人と犬』。鼻をつく油揚げの臭い。筆者がいまだに油揚げが苦手なのは、この経験がトラウマとなっているからである。

 成城は今も田園調布と並ぶ、東京を代表する高級住宅地である。その一角で筆者の学生生活は始まったわけだが、何せ丸出しの田舎モンであるから、すべて物珍しさが先に立った。

 駅の階段を下りるとすぐ三菱銀行があった。CDコーナーで、なけなしの何千円かを下ろしていたら、隣で加山雄三夫人が分厚い札束を引き出していた。

 まっすぐ行くと、宇津井健経営のレストラン「葡萄屋」(?)があって、試しに入ろうかと思ったが、ピラフ1200円の数字を見てすぐ腰が引けた。路地を入る と、もう売れなくなっていた日活の青春スター、浜田みつおの居酒屋があった。パン屋では大蔵官僚と結婚した司ようこ母子が買い物をしていた。

 別段、筆者に東大コンプレックスはないが、たまたま自室の以前の住人が東大生だったことで、下宿屋のバアさんから「君も誰々さんのようにしっかり勉強して出世しなさいよ」と激励を受けたが、その期待は早々に裏切った。

 で、安倍長官である(フーゥ)。母方の祖父、岸信介元首相は、実弟の佐藤栄作元首相と違って東大きっての "大秀才" で、銀時計組ではなかったか。

 実父の晋太郎氏も東大→毎日新聞社のエリートコース。しかるに、長官は成蹊卒。後に警察官僚から衆議院議員となる平沢勝栄氏に家庭教師を受けながらも…。恐らく青春期には相当なプレッシャーを感じていたはずだ。

 しかし、見方を変えればこうした経歴が長官の "魅力" と言えないこともない。むしろ、権力欲を不自然に押し隠した "取り巻き連中" の汚さだけが目につく今日この頃だ。

 『月と6ペンス』や『人間の絆』を書いたイギリスの作家、サマセット・モームは「人間は余り苦労を知らない方が良い」とも言っている、くらいだ。

 その長官の出馬に当たってのキャッチ・コピーは「美しい国、日本」。文春からは『美しい国へ』という著書を出して、その政治信条を披れき。内政、外交ともになかなかに読ませる内容に仕上がっている。

 昔、川端康成氏が日本人初のノーベル文学賞を受けた後、『美しい日本の私』とかいう随筆を書いていた。確か当初は『美しい日本と私』という題名だったものを、余りにおこがましいので変えた、と書かれていたのを記憶している。

 美しい国は、美しい地域の集合体。さあ、美しい島原半島を創り上げていきましょう!!‐おわり‐


2006/09/05

「田舎の味」に期待!! - 都会派「小泉路線」と異なる -

 いよいよ8日に告示が迫った、自民党総裁選。国会議員403名、党員300名の計703名の票の行方が気になるところだが、「安倍氏圧勝」との下馬評でもちきりだ。

 立候補表明順に、谷垣禎一財務大臣(61)、麻生太郎外務大臣(65)、そして安倍晋三内閣官房長官(51)。小泉純一郎現総理と違う点は、三氏とも選挙地盤が「西日本の地方都市」というところだ。

 谷垣財務相は、島原市の姉妹都市、京都・福知山市を地盤にしており、何年か前に親善訪問団の一行として現地入りした際、JR駅前に地元事務所があった。東大法卒。弁護士。

 麻生外相は、福岡県飯塚市出身。母方の祖父はご存知!!吉田茂大宰相。父、太賀吉氏は九州の炭鉱王にして代議士も務めた。学習院大政経卒。日本青年会議所元会頭。

 安倍長官の父親は、外相や幹事長などを歴任後、竹下登、宮沢喜一両氏と総理の座を争った晋太郎氏(故人)。母方の祖父は日米安保条約を締結した "昭和の妖怪" こと岸信介(のぶすけ)氏。山口4区。成蹊大法卒。神戸製鋼勤務。

 いずれも二世、三世議員ではあるが、誰が当選したにしても、都会派の小泉総理とは異なる「田舎の味」に期待したいところ。

 姉妹都市、同じ九州人と、谷垣&麻生お二方ともさほど遠い存在のような気はしないが、やはり「安倍総理の誕生」の可能性が濃厚なようなので、ここから先は長官に絞る。

 筆者とは一歳違い。学生時代は阿佐ヶ谷(杉並)に住んでいたので、成蹊大のある吉祥寺には良く飲みに行った。一度だけ芝居のチケットを売るため、訪ねたことがある。

 緑の木立に囲まれた綺麗なキャンパスだった。まず学生の服装からして違っていた。みんな、何とはなしに垢抜けていて、現在の長官のダンディぶりを見るにつけ、今更ながらに氏素性の違いを感じる。

 まったく関係ないが、羽田孜元総理(当時、新進党)の母校は成城大学で、実は上京後の一年間は小田急沿線の成城学園で暮らしていた。ここも成蹊に負けず劣 らずの "お坊ちゃま学校" 。確か、成城、成蹊、学習院(もう一校は失念)の4校は何とか言う交流戦を行っているはずだ。

 成城時代、豆腐屋の2階に間借りしていた。当主の氏名は「山田寅次郎」。何だか『フーテンの寅さん』の親戚のような名前だったが、実名だった。冗談めかして、手紙の住所欄には「マンションハウス寅」と記していたが、別段、怒られたりはしなかった。隣は葬儀屋だった。

 〈安倍総理のことを書くつもりでいたが、どうやらまた "迷路" にはまってしまったようだ。今日はこの辺で‐つづく‐とさせていただく〉


2006/09/02

「真」の字はどんな意味 - 野球の表記は「の・ぼーる」から -

 早実優勝がらみの本稿を読んだ我が家のクサンチッペ(?)が、「正岡子規と野球て何ね?」と訊いてきた。ならば、答えて進ぜよう。

 子規は慶応3年、伊予松山に生まれた。幼い頃は「升」(のぼる)といった。ベースボールを最初に「野球」と翻訳したのは、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)という鹿児島出身の人だが、子規はその幼名をもじって「の・ぼーる」(野・球)としゃれた。

 自身も「結核で喀血して病に伏す直前まで、捕手としてプレーしていた」ということで、2002年には「野球殿堂」入りを果たしている。

 余談だが、子規の誕生日は9月17日。亡くなったのが9月19日。35歳という早世だった。ちなみに坂本龍馬は、生まれた日も死んだ日も同じ11月15日。こちらは33歳。

 さらに蛇足。筆者の誕生日は昭和30年9月18日。かつてのアイドルスター、郷ひろみはちょうど一月遅れの10月18日。(関係ないか!?)

 さて、今日から9月。机の前の暦(義妹提供)は『字通』編者の白川静さんの世界を平凡社がまとめたものだが、めくってみると、8月の欄は「まこと」の特集だった。

 「真」「誠」「信」「実」そして「端」。いずれも「まこと」と読むらしいが、筆者の名前にある「真」については、こう記してある - 。

 「真」の旧字は「眞」で、「匕」と「県」からなる。「匕」は「化」のもとの字で、人が逆さまになった形で「死者」をあらわす。「県」は?死者、不慮の災難にあった行き倒れの人をいい、首を逆さまにした形。(オイオイ、本当かよ??)

 ?死者の呪霊は特に激しいので恐れられ、これを祭所におき(?)、その霊を鎮めた。「真」とはその呪霊が虚妄でなく、つねにその威霊を発揮することから、真実にして永久のものを意味する語となった。(フー、安心した!!)

 子規で思い出すのは何といっても司馬遼太郎の『坂の上の雲』だろう。同じく松山出身の秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟らとの青春群像を描いた傑作だ。

 兄は陸軍大将、弟は海軍中将として活躍したことで知られるが、分野こそ違え、子規も文学(俳句)の世界で〃壮絶な戦い〃を繰り広げた人だ。

 病床にあっても、決して明るさを失うことなく句を詠んだ。筆者の誕生日に辞世の三句を遺している。「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をととひのへちまの水も取らざりき」「痰一斗 糸瓜の水も間にあはず」。

 昨日、島原市議の山下博正さんから「朝顔に 釣瓶とられて貰い水」が有明で見つかった、との連絡をいただいた。こちらは子規ではなく加賀千代の作品だが、早速、取材に行こ!!


2006/09/01

食は文化と言うけれど… - 「島原キリン会」を近く設立 -

 昼休み、社内の会議室で社員とメシを食う。と、驚くことがある。なんとコーヒー牛乳やオレンジジュースと一緒にご飯の弁当を食べるのだ。

 前深江町長の横田幸信さんが "牛乳大好き人間" で、良くご飯にかけて召し上がっていた、という話は聞いたことがある。我が家でも、効果の程は疑わしいが、息子が毎食事に牛乳をいただいている。

 「何ともないか?」。恐る恐る "連中" に尋ねてみるが、別段こともなげに咀しゃくし、飲み込んでいる。不思議ではあるが、「食後のコーヒー」のことを想えば、その過程で流し込めば同じことか…。

 昔、ドイツ人と結婚した知人がこぼしていた。「女房に不満はない。ただ、冷や奴にジャムを付けて食べるのだけは…」。

 そう言えば、東京の学生街でも「チョコ・カツ」というのが流行った。いわゆるトンカツに板チョコをはさんだ前衛フーズだが、想像するだけでご遠慮申し上げたい。

 ここから話は飛躍するが、キリンビールが、総出荷量で久々にアサヒビールを抜いた、という記事が少し前に掲載されていた。

 キリンと言えば、以前は、ビール業界の "ガリバー" 的存在で、そのシェアは優に6割を超えていた。まさにビールはキリンの代名詞だった。ところが、「ドライ」の開発を機に、アサヒが猛攻勢をかけ、アッという間に首位の座を奪ってしまった。

 経済のことは良くわからないが、5割を超えれば、自然と販売はその社に流れる、と言われていただけに、キリン関係者のショックのほどは計り知れないものがあっただろう。

 アサヒは、敵の本丸である三菱重工に醸造タンクを造らせる一方で、テレビCMなどで徹底したイメージ戦略を展開。「コクがあるのにキレがある」のコピーは一世を風靡した。

 しかし、筆者などはむしろ、キリンの "復活物語" 方に興味がある。かつての王者がいかにしてトップの座に還りついたか。

 キリンの戦略は言わば "迂回策" 。ビール単体の増販を狙わず、全国の特産物とのコラボレーションに照準を絞った。

 「急がば回れ」、「将を射んと欲せば、先ず馬を射よ」 - である。近場では、JA島原雲仙のアスパラやニンジンも取り上げられている。

 しかし、関係者に聞くと、その道のりはまだまだ険しい、とか。特に島原半島では、アサヒの優位性は堅固なものらしい。

 キリンは来年創立百周年。サッカーの振興にも力を入れている。で、筆者は決めた。これからはキリンを飲む。ここに「島原キリン会」を立ち上げる。ご賛同の方はカボチャテレビまで。近く設立総会を開催の予定。