2007/11/29

いま改めて不易流行!! - 立場逆転で取材を受ける -

コミュニティFM放送を始めたことで、日刊工業新聞と、「ザ・ながさき」というタウン情報誌から27日、28日と2日連続で取材を受けた。

普段は取材をさせていただく立場なので、いささか面食らってしまったが、喋った後で、果たして〃真意〃がきちんと伝わったかどうか…。

日刊紙の記者はまだ若く、九州各県のCATV局をシリーズで追いかけている、という。弊社を訪ねたのは、久光製薬などが出資している久留米ケーブルと諫早ケーブルに紹介されたから、との由だった。

時間にして約2時間。自分で言うのも何だが、会社の成り立ちから最近の業界の動向まで、熱を込めて語った。

しかし、それは所謂「宣伝」のためではない。最近とみに感じるのだが、何かしら「前へ!前へ!」と推し進める不思議な高揚感を感じるのだ。

別段「スピリチュアルの世界」に凝っているわけではない。ただ普通に行動しているだけだが、時代が、周囲の方々がこぞって応援してくれているような気がしてならない。

単なる勘違いかもしれないが、思い上がっているつもりは毛頭ない。日々「感謝の気持ち」を忘れないよう、お日様や神社仏閣に手を合わせ、なるべく花や木々などの自然と親しむように心がけている。

振り返ってみると、この3年間はまさに〃紆余曲折〃の連続であった。期間的にもそれは、自分にとっての〃千日修行〃の毎日であったのかも知れない。

精神的に落ち込むことも多かったし、ベルトの穴も、体重も上下に激しく揺れた。運命的な人との出会い、別れもあった。

そうした経験が自分を強くしたとは思わないが、50歳を過ぎたあたりから「島原半島は本当に素晴らしい」と、心の底から思えるようになってきた。

日刊工業の記者は秋田県能代市の生まれだという。同県の地理にはまったく疎いので、同市がどの辺りに位置するのか見当もつかなかったが、さすがに新聞記者で、むのたけじさんの「たいまつ新聞」の話をしたら目を輝かせてきた。

その上で、島原新聞が今年で創刊108年目であることを伝えたら、我が事のように喜んでくれて、「しっかり頑張って下さい!」と励ましてくれた。

清々しい出会いであった。始終横道に逸れ、口数ばかりが多い拙者の話をどうまとめ上げてくるのだろうか、楽しみでもある。

「ザ・なが」の記者は男女2人。今では稀覯本(きこうぼん)となりつつある「長崎じげ辞典」(平成5年刊)を差し出すと、こちらも大喜びしてくれた。

その本では「島原新聞」が題字入りで紹介されており、表紙はメジャーになる前の蛭子能収さんが描いている。何の脈絡もないが、「不易流行」の四文字が浮かんできた。


2007/11/28

晴れてよし、曇りてよし - 研究者は無理でも探求者には!! -

「晴れてよし、曇りてよし、富士の山」 - 。島原市の名誉市民でもある故・北村西望さんが岳父宛にご寄贈下さった一幅の日本画がある。

その「富士山」には久しくお目にかかっていないが、古里の山「眉山」は朝な夕なに我々島原市民を見守ってくれている。

岳父の叔父に当たる故・清水辰一氏は公立高校の校長を退いた後、島原新聞社に入り、「眉山」を見上げながら『対山語』という随筆をものした。

確かに「眉山」の秀麗ぶりは、人々の心を捉えて離さない。まさに「晴れてよし、曇りてよし、眉の山」である。

つい、そんなことを考えながらセンチな気分に浸っていると、東京在住の普段から大変にお世話になっている方から、浅草・鳳神社の「酉の市」で仕入れてきたという「熊手」のお守りが送られてきた。

同封された手紙によると、それは「かっこめ」と呼ぶものだそうだ。福の神、幸運、縁起、ツキ…。ありとあらゆるラッキーをゲットせよ!!とのメッセージと受け取った。

お蔭さまで、今月11日の「一並び」の大安吉日に、島原半島で最初で最後と位置付けられている「コミュニティFM局」を開設することができた。

放送開始から2週間。日増しにリクエストの数も増えてきた。防災・防犯面での利活用は言わずもがな、身近な街のラジオ局として、市民生活に定着する日もそう遠くはあるまい。

世は押しなべてワールドワイドでグローバルな時代である。その事自体、否定はしない。しかし一方で、これ程までに「地方」「地方」と叫ばれた時代がかつてあったろうか。

弊紙百周年の記念号に祝辞を寄せて下さった、早稲田大学前総長の奥島孝康氏は「グローカリズム」という造語を携え、地方で暮らす校友に「意識改革」の大切さを訴えかけた。

今にして思うに「お説の通りだ」という気がする。国内ではないが、分かりやすい例が、フランスの「ボージョレ・ヌーボー」。この前テレビでやっていたが、生産地は人口2千人の小さな村だ。

それが11月の解禁日が近付くと、「今年の出来は?」だとか、「やれ船便だ、航空便だ」だとか、世界中のメディアが大騒ぎする。

ということは、我が島原半島にもその可能性は存分に秘められている、ということだ。尤もそのためには、綿密な下準備と広報戦略が求められる。

つい先日、アジアで初めてという「火山都市国際会議」が大成功のうちに幕を閉じた。会場には世界中から多くの火山学者、いわゆる「研究者」と呼ばれる人々が集まった。

彼らの思慮深そうな横顔を眺めながら、拙者も考えた。「研究者にはなれないが、我々だってそれぞれの分野での探求(究)者にはなれるぞ!!」と。


2007/11/27

外国では柿が一番人気!! - 木々の植栽行政に素朴な疑問 -

音無川沿いに立つ、「こひつじ保育園」脇のイチョウの黄葉が美しい。毎朝、会社のプランターの花々に水をやりながら、うっとりと眺めている。少し山手側にある柿の紅葉もお見事。若干〃過ぎた〃きらいはあるが、まだ十分鑑賞に堪えられる趣きだ。

8月中旬に開催した弊社主催の「少年ソフトボール大会」の折に、「三会ふれあい運動広場」で見かけたイチョウの葉の何枚かはすでにその時点で黄色く染まり始めていた。

どれくらいの標高差があるのか知らないが、仮に〃黄葉前線〃なるものがあるとすれば、随分とゆったりとした移動である。

イチョウは東京都の木。また、東京大学の校章である。それらが如何にして選定されたか知る由もないが、この時節、神宮外苑や国会周辺の並木通りは黄色一色だ。

すでに過去の出来事となってしまったが、普賢岳の災害当時、憲法第16条にのっとって実行した国会への請願活動の際に感じた忸怩たる思いは、今も変わらない。

以前に、本県出身の前川清さんが唄う『東京砂漠』という歌が一時期、流行ったことがある。しかし、首都圏には想像以上に、至る所に木々の緑や黄葉が溢れているのも事実だ。

学園都市だからだろうか。いや、そうとも限るまい。大学近郊にかかわらず、多くの人々が行き交う渋谷駅から原宿にかけての明治通りのケヤキ並木(紅葉)もまた見事である。

古都・京都の美しさは今さら述べるまでもないが、杜の都・仙台や熊本、福岡もそれぞれに素晴らしい景観美を誇っている。

ひるがえって、我が島原。「水と緑の城下町」というのが一般的なキャッチフレーズだが、果たしてそうか…。その思いは災害当時から変わらない。

数日前、NHKの朝のニュース番組で、久留米のハゼ通りを紹介していた。まだ幾分か早いものの、今後の展開が十分に期待できる美しさであった。九州自動車道南関インターを降りて通る菊池川沿いのハゼ並木も侮れない魅力だ。

端的に言って、島原はそうした名所が少なすぎる。「島原大変」後の藩財政改革の切札として奨励され、一定の効果を収めたことも事実なのに。伝統あるハゼの里が泣いていないか?

行政側も「治山事業に及ぼす影響を考えれば…」などと理屈をこね回す時代ではない、と思う。何とか、普賢岳の山肌に緑を蘇生させた、あの「空中播種」の方式を採用できないものか…。

話は戻るが、イチョウが大火の際に消火の役割を果たすのは有名な話だし、徳島県上勝町で採れる柿の葉一枚は何百円もする。

「火山都市国際会議」も無事閉幕した。多くの外国人火山学者が島原に集ったが、「諸外国でいま一番珍重されている果物は柿である」とは、つい先日、友人から寄せられた情報だ。


2007/11/26

僕、ハーフなんです!? - ダジャレは世の〃潤滑剤〃 -

「に・し・む・く・さむらい・小の月」。子供の頃に教わった「30日以下の月」の覚え方だ。つまり2、4、6、9、11月がその「小の月」に当たる。少し解説するなら、11は漢数字で、「十」と「一」を組み合わせて「士」の形だからだ。

その「さむらいの月」について、まだたどたどしい喋りの「FMしまばら」の放送を聴いていると、しきりに「いい」と読み替えた記念日の紹介が目立つ。

恐らく何かの〃ネタ本〃を手元に置いているのだろう。ちなみに、11月22日が「いい夫婦の日」で、同23日が「いい夫妻の日」ということだ。

そうした〃語呂合わせ〃に頼らずとも、11月23日は「勤労感謝の日」というれっきとした国民の祝日である(昭和23年制定)。

元々は「新嘗祭」(にいなめさい)という宮中行事の一つで、「天皇が新穀を天地の神に供え、自らもこれを食する祭事」とされている(岩波国語辞典)。

「勤労感謝の日」は英語で「サンクス・ギビング・デイ」と言うらしいが、人間、何に対してでも、この「感謝する気持ち」を忘れなければ、世の問題の大半は解決するに違いない。

その伝でいくと、11月23日は、関係を夫婦間に限らず、「いい負債の日」とした方がよりしっくりとくる。つまり、お互い相手に何らかの「負債」があると理解すれば、全ての物事は万々歳だ。

と、そんな他愛もない事を考えながら遅めの夕食を摂っていたら、来春に高校受験を控えた三男君が「よっ、お父さん久しぶり!!」と近寄ってきた。

何だかいつにもましてニヤけているようにも感じていたら、歯の矯正金具の奥から出てきた言葉は、「お父さん、実は僕、ハーフなんですよ」。

???一体、何を言い出すのかと訝っていたら、「だってお父さんは『ライ・ヒン』という中国人でしょう。だったらお母さんは日本人だから、僕はハーフなんです」と。

「バカ野郎、お前は試験の点数が他人様の半分しかなかけん、ハーフたい」と答えたら、「大丈夫、いつもお父さんが言っているじゃないですか。『もう』ではなく『まだ』ですよ。まだ後3カ月もあるじゃないですか」 - 。

確かに、ガツガツした受験の虫よりは人間らしくはあるが、親としてはチト心配でもある。でも、ここは息子の言葉を信用するするしかないか…。

閑話休題―。世の中「オヤジギャグ」だとか、「ダジャレ」とか言って蔑む傾向があるが、それはある意味、「クッション」というか「潤滑剤」でもある。

前述の食卓で「近く日刊工業新聞社の取材を受けることになった」と話したら、家人の顔色がさっと変わった。

「そい、大丈夫ね?まさか『肉感興業』じゃなかろうね、エロおじさん」。せっかく口にしたビールが鼻孔から吹き出てきた。


2007/11/23

宮崎に来ています - 〃妄想〃ふくらむ朝の執筆 -

社団法人・日本CATV連盟九州支部支部主催の「トップセミナー」で、21日から宮崎に出張している。22日まで。

8時25分のオーシャンアロー号に乗って、御船インターから九州自動車道。道中、FMしまばらの88.4メガヘルツに周波数を合わせながら走ったが、いささか入りは悪いものの、八代の先まで聴くことができた。

目的地の宮崎市内のホテルに着いたのは、ジャスト正午。山本富治さんが「観光宮崎」の産みの親である岩切翁に会いに行っていた時代は、7時間を要していたというから、宮崎も随分と近くなったものだ。

セミナーには業界関係者を中心に、約二百人が参加。先日「CFM放送」の免許を頂戴したばかりの総務省九州総合通信局長や放送部長も来賓として出席されていた。

講演のトップを飾ったのは総務省情報通信政策局地域放送課長の藤井昇氏。東大法学部→自治省の典型的なエリートだが、語り口は柔らかで、好感が持てた。

配布資料の経歴欄に「平成3年7月消防庁救急救助課課長補佐」とあったので、後の懇親会で「島原から来ました」と挨拶したら、大変に喜んでくれた。

続いて、福岡ソフトバンクホークス取締役の小林至氏。東大経済学部から千葉ロッテマリーンズに入団(平成4年)した、異色の元プロ野球選手だ。

「プロ野球ビジネスのしくみ」と題して1時間にわたって熱弁をふるったが、この人の話も分かりやすく、業界は違えど、大いに参考になったような気がする。

そして迎えた3番バッターが、昔から大ファンだったNHKアナウンサーの目加田賴子さん。若干お年はめされているものの、帰国子女独特の颯爽とした身のこなし方は実にカッコイイ!!

と、ここまで書いてきて、「まるで小学生の作文のようだなー」と思い始めてきたが、実は今、この原稿は宮崎観光ホテルの一室で書いている。

何を隠そう、11月23日は拙者ら夫婦の21回目の結婚記念日だが、新婚旅行で泊まった先は、つい何軒が隣のホテル神田橋だった。

それが、今はもうない。空き地となって、マンション建設予定地となっているのだ。NHKの朝の連続ドラマ「たまゆら」の舞台となり、「顧客サービス度日本一」だった、あの名門が…。

本当に残念だ。と言うより、栄枯盛衰、世の無常を伝える「平家物語」の一節が思い出されて震撼とした。

カーテンを開けると、東の空が赤く染まってきた。山本一力さん言うところの「あかね空」である。どうやら今日も天気が良さそうだ。

シャワーでも浴びてそろそろ島原に帰ろう。いや、待て!!昨夜のパーティで、都城ケーブルの吉原常務が「帰りに寄れ」と言っていた。ひょっとしたらまた「赤霧」、いや「金霧」ばくれらすかも知れん…。

夜明けとともに妄想をふくらませていたら、何だか物狂おしくなってきた。はす向かいの目加田さんはもう起きとらすやろかい!?


2007/11/18

近々注目のメディアに!! - 日本災害情報学会で一本締め -

日本災害情報学会の会員になった。以前から知人に誘われていたが、分をわきまえたつもりで、加入は見送っていた。

しかし、アジアで初の「火山都市国際会議」が島原で開かれるのを機に、思い切った。ケーブルテレビに加え、コミュニティFMを始めたことも大きい。

もちろん、同学会の島原での開催(第9回)は初めてのことだ。これまでは地方開催とは言っても、政令指定都市に限られていたというから、吉岡市長ならずとも「名誉なことだ」と思う。

受け入れに汗を流したのは、高橋和雄・長崎大学教授(大会実行委員長)をはじめ木村拓郎・社会安全研究所々長、槌田禎子さん(KTN報道部)など、前々から島原とも馴染みの深い面々だ。

他の会議との掛け持ちで、研究会そのものには長く在席できなかったが、その分、夜の懇親会で張り切った(?)。

見回してみると、随分と偉い先生方である。名だたる有名大学の「名誉教授や「教授」などといった胸のネームカードが誇らしげである。

だが、よくよく考えてみると〃飲み友達〃だった廣井脩さん(昨年4月没)だって「東大教授」だった。「一杯入れば、皆同じ」。いつもの悪い癖で〃友達症候群〃に罹患してしまった。

懐かしい顔ぶれもおられた。普賢岳の災害当時、色々と教えていただいた元NHK解説員の藤吉洋一郎さんは、大妻女子大の教授になられていた。

藤吉さん(大牟田出身)とは、「島原生き残りと復興対策協議会」の会長として活躍した故・高橋三徳さん(呉服の丸三)の話で盛り上がった。

学生時代にアルバイトをしていたTBSからは、当時カメラマンとして活躍していた天野教義さんが出席していた。名刺をいただくと、総務部担当局次長。モスクワやワシントン特派員だった田近東吾さんが島原出身であることを伝えた。

余りに多くの人々と名刺交換をしたために、誰が誰だか分からなくなっていたところに、大会事務局から「高橋先生の後に、地元を代表して一本締めをせよ」との命。

一瞬、迷いもあったが、今でも尊敬して止まない故・植木等さんのノリで「わっかりやーしたぁー」と引き受けた。

でも、相手は名だたる研究者&企業の幹部揃いである。何を喋ったものかと頭が混乱したが、司会の文化放送防災キャスター、高橋民夫さんが実に上手くリードしてくれた。

「つい先日、11月11日に生まれたばかりのCFMです。本籍は島原新聞社。番地は1111番地。近いうちに、日本でも注目されるメディアになることでしょう」。

満堂の拍手を受けて良い気分で帰宅したが、お隣りのPTA研修会場にいたはずの家人のご帰還は、拙者より随分と遅かった。


2007/11/17

素晴らしかった馬頭琴 - 東京では皇太子殿下と競演 -

世界が泣いた。そして島原も泣いた。15日夜、島原文化会館で開かれた「モンゴル国立馬頭琴交響楽団」のコンサートは実に素晴らしかった。

「感動」という表現は安っぽく遣うべきではないが、会場を埋めた予想を遥かに上回る(?)約1000人の聴衆は等しく同じ思いを抱いたもの、と想われる。

モンゴル国。首都ウランバートル。面積は日本の約4倍。人口260万人。1キロ平方メートル当たりの人口密度で言うと、日本が約330人にあるのに対し、わずかに2人。ちなみに、お隣中国は130人。

日本とは4000キロほど離れているが、近年は横綱の朝青龍や白鵬などの大相撲力士を輩出するなどして、その距離は年々縮まりつつある。また、民間交流も盛んになってきている。

同コンサートは日蒙の国交樹立35周年を記念して開催されたもの。九州では福岡、長崎に続く公演だったが、島原は圧倒的な〃集客力〃で前二市を凌駕。楽団員の演奏にもひときわ力がこもった。

この結果には、主催した同実行委の山本蔦五郎&由夫父子もビックリ。以前からモンゴル事情に詳しい〃仕掛け人〃の「漁人市場・とっとっと」社長、松永忠徳さんもニンマリだ。

肝心のコンサート模様の説明については、本紙の一般記事やカボチャテレビの放映に任せるとして、どうして馬頭琴の響きがこうまでも日本人の心を揺さぶるのだろうか。

ステージ上でタクトを振るコンサートマスターや約30人の楽団員は、当然のことながら「エリート中のエリート」だ。日本で言うなら、全員が東京芸大の卒業生のようなものだ。

拙者は前二列目で鑑賞させて頂いたのだが、何より感心したのは全員の表情。今時のニッポンでは、めったに見かけなくなった〃真剣勝負〃の面持ちだ。

もちろん「音楽」である以上、楽しくなくてはならないが、まさしく〃心の琴線〃をかき鳴らすその音色以上に、国家を代表する〃矜持〃のようなものを感じた。

もっと言えば、いずれの曲も国家建設の〃使命感〃に満ち溢れていた。通常のコンサートでは、知っている曲に巡り合えた時だけ〃安心感〃のようなものを抱くのだが、今回は終始一貫して全霊を傾けて聴くことができた。

最近では耳垢が乾燥しているか、湿っているかで日本人としてのルーツを推量るらしいが、50を過ぎてもまだまだ〃ケツの青い〃拙者のそれは間違いなくモンゴリアンだろう。

一行はこの後、在大阪名誉領事、佐藤紀子さんの古里である山口に一泊して、皇太子殿下と競演することになっている東京へとバスで向かうという。その距離ざっと1000キロ。

「モンゴル人の感覚で言えば、隣町に行くようなものです」。松永社長は事も無げに笑い飛ばした。


2007/11/16

腰抜け!!日本お笑い系 - めぐみさん拉致から30年 -

一昨日、昨日と熊本方面へ、とある研修旅行に出かけていたので、お休みをいただいた。

ところで、「周年」ばやりである。早稲田大学が創立125周年を迎えたと思ったら、長崎大学医学部はオランダ軍医のポンペ以来、150年だという。

先日、民放ラジオを聴いていたら、作曲家の平尾昌晃さんは今年、活動を始めて40周年だとか。そう言えば、『喝采』を作曲した中村泰士さんも来年が40周年だと言っていた。

そうした周囲の〃事前情報〃が頭を支配していたせいか、この前のNHKのBS放送には、ごくごく自然な成り行きで引き込まれてしまった。

主役として登場したのは演歌界の大御所、遠藤実さん。見た目はチョビ髭を生やしたけったいなオッサンだが、メロディラインは実に心に沁みる。

ミリオンセラーは数知れずあるが、一番の代表作は千昌夫が唄った『北国の春』だろう。当初はB面で吹き込まれたが、後に世界的な大ヒットとなったのは、皆様ご存知の通りだ。

番組では、モンゴルの大平原を舞台に開催されていた同曲の「歌唱コンクール」の模様を紹介していた。とっても大らかで、微笑ましく感じた。

遠藤さん自身は東京生まれだが、戦争のために新潟に疎開。そこで幼少年期を過ごすことになり、番組冒頭では、日本海の白波が洗う同市内の海岸線を映し出していた。

その番組とはまったく関係ないが、恐らくその近辺から横田めぐみさんは北朝鮮の工作員に拉致されたもの、と想われる。今からちょうど30年前の悲しい出来事だ。

拙者も数年前に付近を車で移動したことがあるが、ある意味その長くて寂しい砂浜は〃国境〃でもある。ご両親や関係者の心中を慮れば、改めて怒りがこみ上げてくる。

週刊誌やテレビ等で報道されているようなことが〃事実〃であるとすれば、北朝鮮は、まったくもって怪しからん国家である。

外交術には相当長けているのだろう。しかし、いつまでもそうした常軌を逸した〃独裁体制〃が続くはずもなかろうに…。

不思議なのは、あのチマチョゴリを着た国営放送の女性アナウンサーのモノマネを、日本のお笑い系の芸人が一人として〃モノマネ〃しないこと。

徹底してコキ下ろして嗤えば良いのに、誰もそれをやらない。拉致被害者の会の皆さんに気を遣っているのか、それとも闇に隠れた工作員の姿に怯えているのか…。

江川紹子さんが普賢岳噴火災害と併せてオウム事件の取材をしていた当時(平成4、5年頃)、「人が忽然と消えた」という極秘情報を写真家の西川清人さん(故人)は持っていた。

今にして思うに、あれは一体何だったんだろうか…?


2007/11/14

一日も早く根付いて!!…開局時の〃初心〃を忘れず

「FM開局おめでとう」「良かったね」などと、会う人ごとにお祝いの言葉を頂いて恐縮している。本当に有難い話だ。

一方で心配でもある。高田元知事の言葉を借りて「放送も終わりなき駅伝」と挨拶したが、果たして途切れることなく〃完走〃できるのだろうか…。

いやいや、始まったばかりの段階で、そんな弱気でどうする。想った以上に好反響ではないか。もっと強気で!!

こういう気分を「ないまぜ」というのだろうか。が、「賽(さい)は投げられた」のである。現実をありのままに受け入れよう。

一週間後にアジアで初の「火山都市国際会議」を控えて、新聞も、ケーブルも、FMも忙しい。ただし、実際に取材や設営に当たるスタッフと比べると、拙者なんかまだまだ。

そんなこんなで、拙者は傍目で見るほど多忙ではない。ただ、気は使っている。ならば、何故そんなに肥っているのか、と言われても〃体質〃なので仕方がないのである。

この原稿を書きながらでも、耳ではFM放送を聴きながら、目はテレビスタッフの動きを追っている。

一昔前のテレビドラマの青春物ではだいたい、校長がお人好しであるのに対し、教頭はチマチマした小悪人という設定が多かった。配役で言えば、名古屋章VS穂積隆信などといった具合に。

柳生博もどちらかと言うと教頭役が多かったような記憶が残っているが、最近は「自然派」へと見事なイメチェンぶりだ。

まあ、そんな事はどうでも良いが、どうも拙者の役回りはテレビドラマで言うところの「教頭」のようなものらしい。

もっと鷹揚に構えてどっしりとしていれば良いものを、やれ「言葉の読み方が間違っている」「なぜそんな的外れな折衝をするのか」などと口うるさい。

言ってしまって反省することも時々あるが、「それが自分の仕事だ」と割り切っている部分もある。

そうした状況の中で秘かな楽しみにしているのが、花々や木々との対話。実際に言葉で語りかけるわけではないが、熱心に水をやっていると、知らない間に大きくなっている。

ポイントは「大地に根付いているかどうか」だ。根付きさえすれば、少々水やりを忘れてでも元気な状態を保っている。

仕事だって、勉強だって、人づくりだって基本は同じだ。基礎がしっかりしていれば、何が起きても慌てふためく必要はない。

ひるがえってFM事業。今のところ順調な滑り出しのようだが、まだまだ安心するには早すぎる。この先、予想もつかないような〃紆余曲折〃が待ち受けているのは、火を見るより明らかだ。

スタッフの〃語り〃が、一日も早くリスナーの皆さんの〃心の奥深く〃根付くことを祈るばかりである。初心を忘れずに!!


2007/11/13

FM放送いよいよ開始!! - 市長の一言で緊張感ほぐれる -

関係皆々様方のお蔭で11日に「FMしまばら」が予定通り開局できた。

来賓でお招きした九州総合通信局の坂本純一放送部長によれば、九州で21番目、全国では220番台目の誕生だという。

以前にも書いたが、この日は「世界平和の日」であると同時に「大安」。そして、英語で言う「ノベンバーイレブンス」。宇崎竜童&阿木燿子夫妻が東京・赤坂で経営しているライブハウスと同一名称だ。

式典開始は午前10時。緊張のせいか、5時前には目が覚めてしまった。辺りがまだ真っ暗な中を、会社に向かった。

しばらく挨拶でも考えようと机に向かったが、どうにも落ち着かないので、菩提寺参り(桜井寺)で気分を鎮めることに。

風が強くて、なかなか線香に火が点かず苦戦。手を変え、品を変えて、やっとのことで着火。墓前で手を合わせているうちに、境内の銀杏の大木がざわめいているのに気付いた。

そうこうしているうちに、東の空が白み始めた。会社に戻ると、前日に社員総出で清掃したピカピカの玄関口に、柔らかな初冬の日射しが降り注いでいた。

前日に引き続いて、お祝いの電報や生花が次々と寄せられた。いやがうえにも高まる緊張感。まだ挨拶の草案がまとまっていないことに気付いたが、こうなったらブッツケ本番でいくしかない。

午前10時きっかりに放送が始まり、拙者の主催者挨拶もスタートした。もともと語尾がはっきりしない喋り方だが、普段にもまして口ごもっている自分に気付いた。

「慌てるな、落ち着け!!」。そう言い聞かせて、数日前に胸像が完成したばかりの高田勇元知事の4選出馬の弁を借りて「放送事業も同じく終わりなき駅伝である」と強調した。

その上で、高い出席率に感謝申し上げ、中越沖地震におけるコミュニティ放送の活躍ぶりを伝えた。時間にして約5分間。久々に手の平に汗をかいた。

席上、吉岡市長から「11月11日に拘ったのだから、いっそのこと開局も11時11分に設定すれば良かったに」と冷やかされたが、その一言で落ち着きを取り戻したことも事実だ。

式典後は吉岡市長、坂本部長とともに開局記念番組に出演したが、耳につける「インカム」が小さ過ぎてインタビュアーの声が良く聞こえず、どうやらトンチンカンな受け答えをしてしまったようだ。

開局2日目、もう通常通りの番組編成だ。7時前に会社に着いたら、この日のパーソナリティである「ヨッシー」がすでにリハーサル中。

恐る恐るカーラジオのスイッチを入れたが、1カ月間にわたる特訓の成果か手馴れた進行だった。

「それでは音楽にまいりましょう。1曲目はクイーンの『アイ・ウォズ・ボーン・トゥ・ラブ・ユー』。そう、弊社もその思いで開局したのですよ!!


2007/11/11

同級生の息子大きく!? - お蔭様で本日メデタク開局 -

本紙はじめ各紙が報じてくれているように、8日付けで「コミュニティFM局」の放送免許状を総務大臣から頂いた。

島原半島で第1号であるわけだが、有明海域の電波の輻そう状況からして、もう帯域は残っていない。従って、唯一の局となる。改めて「責任の重さ」を痛感しているところだ。

授与式は熊本市内の同省九州総合通信局(武井俊幸局長)で行われたのだが、会社を出る直前に、自室の壁掛時計が何かの拍子でずり落ちた。

普通なら「縁起でもない…」と眉をひそめるところだろうが、拙者は迷いもなく喜んだ。「そうか、古い時代が終わったんだ。今日からいよいよ新しい時を刻んで行くんだ」と。

帰途、熊本市内のデパート「鶴屋」で純白のネクタイを買った。11月11日午前10時から行われる開局式典で着用するものだ。

5千円から1万2千円まで各種取り揃えてあったが、ポケットタイ付きの一番安い品を選んだ。「お祝い事ですか?」と聞かれたので、「島原でFM局の立ち上げがあります」と答えたら、「それはオメデトウございます」とにっこり。

その笑顔が余りに可愛いらしかったので、つい虚勢を張って「もう1本いただこうか」と口走ったら、奥から年季の入ったオバヤンがしゃしゃり出てきた。

「お客様、こちらがただ今入ってきたばかりのアクアスキュータムの新作でございます」。引っ込みが付かなくなってしまい、泣く泣くカードを差し出してきた次第。

実は、メガネも買ってしまった。こちらは島原市内の眼鏡屋さんだ。従来の乱視に加えて、最近は細かな文字が見えづらくなっていたので、老眼補正機能を付けてもらった。

フレーム台は下半分で、色は赤茶系のハーフトーン。これまでとは別世界のように辞書の文字がハッキリと飛び込んでくる。

早速、社内のスタッフに自慢げに披露したら、「どう見ても古本屋のオヤジですね。何ならハタキをプレゼントしましょうか」などと笑われてしまった。

「ならば - 」と勇んで帰宅して母と家人に掛けて見せたが、こちらも頗る悪評判。「フレームが顔の贅肉に食い込んでいる」「ミーハーね。そのまんま知事のモノマネでしょう」などとぬかしやがった。

チクショウ!!こうなったら、もっともっと勉強して絶対に見返してやる。そうだ、日本人で今一番「ノーベル賞」に近いと言われている作家は村上春樹だ。

彼は学部の先輩で、暇な折には辞書を読むのが趣味だと言っていた。拙者もこれからは「コンサルツ・ア・ディクショナリー」で行くぞ。

悲嘆にくれてトイレに駆け込んだら、長年連れ添っている「同級生の息子」(!?)がいつもより大きく見えた。なるほど老眼鏡にはこういう「効用」(!?)もあったのか…。


2007/11/08

「個性的」が意味するもの - 大切なのはオリジナリティ -

近頃ときどき感じることがある。島原半島はひょっとして、破綻する前の「旧ダイエー」のような状況ではないか、と。

確かに何でもある。海、山、温泉、湧水、食べ物、歴史…。いずれも土地に住む〃当事者〃がその価値に気付いていないだけで、勿体ない話である。

そうした中で成功を収めている一部企業は、いち早くその価値観に気付き、絶えず問題意識を持って、前向き発想で取り組んでいる所だ。

唐突だが、拙者は「個性(的)」という言葉が嫌いである。例えば、女性に対して「君、個性的だね」と言われることは、「ブスだ」という表現と同じだ。

そもそも「大切なのは家庭や教育現場における個性の尊重だ」とか言って子供を甘やかし過ぎた結果が、昨今の目を覆うばかりの親殺し子・殺し事件ではないか。

確かに人間にはそれぞれ「特性(質)」がある。国語が得意な子、算数ができる子、運動神経が発達した子、絵が上手い子…。それこそ〃千差万別〃である。

その違いを見極めるのが親や教師としての「眼力」であり、育てる側の「責任」ではないか。どうも最近の風潮を見ていると、「自由」と「放縦」を履き違えているのではないか、という気がしてならない。

厳密に言うと、「個性」と「特性」の間にさほどの違いはないのかも知れないが、現状の「結果」から遡れば、その差は歴然としている。

つまり、「個性」という言葉の響きが数々の〃悪印象〃を帯びて、拙者の耳には伝わってくるのである。まあ、勝手と言えば勝手な理屈ではあるが…。

そこで最近、拙者が頻繁に持ち出しているのが「オリジナリティ」という言葉。主に社内で使っているのだが、企業や自治体にはこれがなければダメだ。

もはや、似たような製品を大量に生産したり、バスを連ねて団体旅行をするような時代ではない。

自治体だってそうだ。国の「三位一体改革」とやらで、かつてのように各種事業を「交付税」で補填してもらえる〃甘え〃の構造は払拭されつつある。

そうした状況下で求められるのは、一にも二にも「オリジナリティ」だ。もっと端的に言えば、他が真似しようにも真似られないモノを創り出すこと。

拙者が今一番注目しているのは雲仙市の「こぶ高菜」と「エタリの塩辛」。市長はじめ関係者が一丸となって「ブランディング」に力を注いでおられるようだが、その効果はいずれ現れるだろう。

角度を変えて見ると、同市の小浜温泉(自噴)はとてつもない〃潜在力〃を秘めている。まったくの思いつきだが、地元産品を材料に使った「おやき」の製造販売はどうだろうか?

先般、ある旅館経営者に提案したばかりだが、採用してくれるかどうかは知らない。


2007/11/07

どちらが結果責任を!? - 見事に蘇生した長崎・中島川 -

2日続いての雨模様だが、佐世保や大村では水不足が懸念されている、という。その点で言うと、島原は、まったくもって有難い土地柄だ。

こうした書き出しをすると、即座に国土交通省や地元自治体、商工会議所などが取り組んでいる「眉山トンネル」の話題に入っていきそうなので、ちょっと角度を変えて…。

先日、開局挨拶を兼ねてFM長崎本社(スマイルFM)を訪問した際に、史跡の眼鏡橋などが架かっている近くの中島川界隈を少し歩いてみた。

ビックリした。綺麗なのである。透明感のあるせせらぎの中を大小のニシキゴイが泳ぎ、その様子を羽色鮮やかなカワセミが見守っていた。

言うまでもなく、中島川は都心の河川である。それがこんなにも美しい景観を保っているとは!!感動すら覚えた。

同河川は昭和57年7月23日の「長崎大水害」(死者299人)で壊滅的な打撃を受けた、象徴的な被災地でもあった。

あれから四半世紀が過ぎて現在の美しい姿形となっているわけだが、それは取りも直さず、行政や地元住民、マスコミ等が一体となった「環境美化運動」の成果である。

文献等をひもといたわけではないので詳しい経緯は知らないが、知恵を絞り、汗を流した中心的な人物だけは良く知っている。

誰とは言わないが、普賢岳の噴火災害でもそれぞれの分野で活躍した方々である。最近はとんとご無沙汰だが、元気にされているのだろうか。

さて、翻って我が島原。これが何とももどかしい。計画を進めようとする行政側VS「島原の宝=湧水の保全」を盾に論陣を張る市民運動グループ。

一体どちらが正論(正解)なのか、拙者のようなボンクラ頭では判じかねるが、両者の間に「深くて暗い川がある」のは残念でならない。

少し視点を変えてみよう。どちらが主張が外れた際の「結果責任」を取れるのだろうか。物事すべて「絶対」はないのだから。

これはあくまで個人的な意見だが、拙者が一番恐れるのは、折角これまで積み上げてきた「国 - 県 - 地元」の信頼関係が崩れ落ちてしまうこと。

もし、国が「あーそうですか。では、あなた方が考えているようになさって下さい。我々は引き上げさせてもらいます」という強硬姿勢に転じたら…。

予想される反論は「そんなことは絶対にない。なぜなら我々は税金を払っている。国民あっての国家ではないか。トンネルを掘って湧水が枯渇したら、ご先祖様が怒るだろうし、誰もここには住まなくなる」といった内容か。

まとまりがつかなくなってしまったが、見事なまでの中島川の蘇生を目の当たりにして、つい色んな事を考えた次第。


2007/11/06

目指すは〃効くラジオ〃 - 菊の花を見て思いついた!! -

朝夕の冷え込みをめっきり感じるようになった。つい先日まで「暑い、暑い」とぼやいていたこと自体がまるで嘘のようだ。

花壇の植え替えを行った。日々草やポーチュラカの後継者は、ナデシコ、パンジーとビオラ。いずれも見かけによらず強かな習性を持っているようだ。

客人として制作スタッフが取材先からいただいてきた菊の鉢植えが、文字通り「花を添えて」くれている。こちらはどっしりとした大人の雰囲気だ。

この季節、各地のお城や神社では「菊祭り」が盛大に執り行われているが、印象に残っているのは、随分と前に明治神宮と熊本城で見かけた大輪の花の数々。お見事!!の一言だった。

菊は天皇家の紋章だが、英語で言うとクリサンセマム。受験生の頃、必死になってスペルと読みを丸呑みしようともがいていたことを憶い出す。

そのトラウマかどうか知らないが、宴席などで刺身のツマに菊が添えられていたりすると、ついつい苦笑いを浮かべてしまう。まあ、味そのものがほろ苦くもあるのだが…。

話は飛ぶが、「きく」は「聞く」でもあり、「聴く」でもあり、また「効く」でもある。このほか「訊く」という字も充てられるが、こちらは「尋問」のような聞き方だと以前に教わったことがある。

なぜ唐突にこのような話になってしまうかと言うと、弊社が間もなく「コミュニティFM放送」を開始するからだ。

最近では、県域放送などで「見えるラジオ」ということで、字幕が流れていたりするが、弊社が目指そうとしているのは「効くラジオ」である。

勿論、その関連の機器さえ設置すれば「見えるラジオ」なんて簡単にできるので、別段意に介していない。あくまでも目指すは「効くラジオ」なのである。

では、我々は一体何に対して「効こうとしている」のか?第一義的には防災であり、防犯であり、さらに敷衍して地域全体の活性化に対して「効果的でありたい」というのが基本のコンセプトだ。

当然ながら、物事はなべて「言うは易し、行うは難し」である。そうそう簡単には運ばないだろう。放送開始前の現時点においてでさえ、すでにある程度のトラブルは予想している。

だが、「賽は投げられた」のである。コミュニティとはいえ、島原半島で初めての、放送法にのっとったラジオ局の誕生だ。

この言葉はもともとシーザーがルビコン川を渡る際に発した有名な言葉だが、先日久しぶりにテレビに出演していた日産CEOのカルロス・ゴーン氏が、同社のインド市場進出に当たっての「気構え」として使っていた。

拙者は今、開局を一週間後に控えて武者震いの心境だ。そう言えば、菊花を使った「武者人形」というのもあったはずだが…。


2007/11/03

3日は「まんがの日」 - 紛れもない文化なのだぁー -

今日11月3日は言わずと知れた「文化の日」であるが、同時に「まんがの日」でもある。

毎度おなじみの『年中行事・記念日事典』(学研)によれば、2002年(平成14)に日本漫画協会と出版5社が中心となって制定したというから、まだ日は浅い。

だが、一口で「まんが」と言っても、その影響力には計り知れないものがある。先般の自民党総裁選で予想以上の〃善戦〃を果たした麻生太郎氏(前幹事長)は自他ともに認める「マンガ・フリーク」だ。

今どのようなまんがが人気があるのか知らないが、拙者が子供の頃の最大のヒーローは何と言っても「鉄腕アトム」。「鉄人28号」も人気があった。

アトムが光文社刊の『少年』という月刊誌に最初に登場したのは1952年(昭和27)4月号だということだが、原作の設定では、その誕生日は「2003年(平成15)4月7日」とされている。

一連の「アトム本」に関しては、上の町の麺処「すずみ」に、かなりフリーク的に揃っているので、食事がてらお運びいただくのも一興か、と考える。

さいとうたかおさんの「ゴルゴ13」も名作中の名作だ。拙者は散髪などに行った際に拾い読みするくらいだが、本当に好きな人は何十巻という単行本を、全巻揃いで持っているくらいだ。

その人気の秘密は「情報収集力」にある、という。ウソかマコトか知らないが、さいとうさんのシンジケートは世界数十カ国にも及んでいる、という。

出版業界にとっても経営を支える〃屋台骨〃だった時代もあった。事実、「明日のジョー」を連載していた「週刊マガジン」(講談社)の売上部数は、一部全国紙のそれを遥かに超えていたほどだ。

最近では、古典をマンガに置き換えた企画がヒットしているそうだ。日本文学史上最初にして最高の長編小説と言われる「源氏物語」は「あさきゆめみし」という作品に生まれ変わって、受験生を中心に人気を集めているとか。

また、東京など大都会の主要駅では、週刊誌のような「フリーペーパー」が配布されているが、中身は立派なマンガ本で、スポンサー広告は劇中でさりげなく紹介されている。

ここまでくると、「たかがマンガ、されどマンガ」である。くどいようだが、昔の感覚でマンガを侮ることはもはや完全なる〃時代錯誤〃である。

だからこそ「文化の日」にあやかって「まんがの日」が制定されたのであろう。そう、バカボンの父ちゃん風に言えば、「まんがは文化なのだぁー」。

もう一つ、11月3日にちなむ記念日があった。それは語呂合わせをして「いいお産の日」。

我が社のKちゃんもいよいよ今日から産休に入る。ゆっくり休んで元気な赤ちゃんを産んで来いよ!!


2007/11/02

ついに頂いた予備免許!! - 開局は宇崎さん夫妻に倣って -

コミュニティFMを始めるに当たっての第一関門となる「予備免許」をついに頂戴した。10月29日付で総務大臣の判子が押してある文書は、当社にとっては〃宝物〃の一つである。

今後は11月上旬に「本免許」を頂いて、その上で、世界平和記念日で大安吉日でもある「11月11日」に記念式典が挙行できるよう、諸準備を進めているところだ。

付与される予定の周波数は88.4メガヘルツ。すでに数日前から試験電波を発射して、機器の最終調整に当たっている。

実は「1」の4並びにはこだわりがあった。何となれば、それは我が社の地番(白土町1111番地)そのものである。

それから、もう一つ。若い頃からの大ファンである宇崎竜童&阿木燿子夫妻が東京・赤坂(一ツ木通り)で経営しているライブハウスの名称が「ノベンバーイレブンス」。すなわち「11月11日」という意味だからだ。

欲を言えば、これをご縁に、宇崎さん夫妻には是非島原でコンサートを開いてもらいたいし、「FMしまばら」にも出演していただきたい、と願っている。

今日が2日であるから、開局(予定)まで、あと10日を切った。火山都市国際会議より一足早いカウントダウンだ。次第にドキドキしてくる。

ところで、火山都市国際会議では、当社は在京の協力メーカーと一緒に、「安心&安全の確保」をテーマとした展示ブースを出すことにしている。

そのための下準備として一昨日、若手スタッフ3人に平成新山に登ってもらった。もちろん、関係機関の許可を頂いた上での、正式登山だ。

直線にして約10km。地形や地磁気等の面で一部問題も残しているが、山頂と復興アリーナをつなぐ「通信実験」には見事に成功した。あとは、中継当日の好天を願うばかりである。

また、日にちは前後するが、1日からは小学校低学年児童の登下校時の様子を見守る「無線LANシステム」(総務省補助事業)の運用も始まった。

我が社にも小学一年生の男の子を持つ母親が勤務しているが、「携帯メールで確認できるので、安心して働けます」と、画面を見ながら安堵の表情。

一方、FMしまばらの社内では、12名の新規スタッフが一人前のパーソナリティー、レポーターを目指して猛特訓中だ。

「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」。寸暇を惜しんでの自主トレの発声練習が響いてくる。些かウルサクも感じるが、その前向きな姿勢や良し!!

「活字」「映像」「音声」の三位一体化。今の状況を考えると、肥っている暇なんかはないはず、と思って下腹に力を入れたら、オナラがプー。

情けない。ほんにアチキは屁のような…。


2007/11/01

君、昔なら不敬罪だよ!! - 懐かしい顔ぶれが続け様に -

2日続けて懐かしい顔ぶれが訪ねてきてくれた。一昨日が元長崎県島原振興局長の川端一夫さん。そして、昨日が元読売新聞島原通信部長の鬼木省三さん。

川端さんはその後、雲仙岳災害復興室理事を経て、長崎空港ビルの専務を務め、今夏からは県の社会福祉協議会副会長の要職にある。

ダンディさとエネルギッシュぶりは相変わらずで、久方ぶりに在任当時の〃川端節〃に触れることができて嬉しかった。

島原時代で一番思い出に残っていることは、地方行政機関の長として皇室の方々と直に接したこと。殊に両陛下を振興局にお迎えした時は「最大の栄誉で感激だった」と当時を振り返る。

その思い出話を聞きながら、拙者もとあるエピソードを思い浮かべて、改めて赤面してしまった。それは、お迎えの際の写真撮影での一コマ。

通常、皇室関係者や政府の要人が現地入りする場合は〃お付き〃の記者クラブの面々が随行してくる。そこで行われるのが場所取りのための抽選会だ。

スチールとテレビに分かれてアミダクジを引くのだが、たまたま両陛下が振興局入りされたその時、拙者は〃ド真ん中〃の好ポジションを得た。

だいたい30分から1時間くらい前から並ぶので、そのうちに尿意をもよおしたりする。いよいよ5分前、全員の緊張感が高まってきた頃合いを見計らって幹事社が最後の点検。

その日の幹事社は、皇室関係の記事を良く掲載している女性誌の記者だった、と記憶している。拙者はカメラのグリップをしっかりと握り締め、ピントと絞りを確認、連写態勢で構えていた。

とその時、幹事社が拙者の方を指差して、「島原新聞さん、ほら前、前が開いてる。昔なら〃不敬罪〃で捕まるところだよ」。

一同、笑い転げる大失態だったが、本番は無事に済ませることができた。今にして思うに、あの時の幹事社は『女性自身』(光文社)ではなかったか!?

鬼木さん(読売新聞→スポーツ報知)は、12月1日に開催される「第10回記念島原・雲仙学生駅伝大会」の打合せのため、来島した。実兄は先ごろ親和銀行の頭取に就任したばかりの鬼木和夫さんだ。

当然の成り行きとして晩に一杯やったのだが、その際に話題になったのが数日前にライバル朝日新聞の『天声人語』にも掲載されていた「鬼ダチ」の話。

それによると、「鬼ダチ」とは、とても仲の良い友人のことを意味する若者言葉で、「親友」のようなものらしい。その意味でいくと、鬼木さんは紛れもない拙者の「鬼ダチ」だ。

余談だが、島高を卒業した鬼木さんの娘さんは福岡のCATV局「ジェイコム」でキャスターを務めている、との由。彼のことだからきっと「鬼可愛がっている」に違いない。