2008/03/28

ジャガイモの世界史 - 歴史を動かした〃貧者のパン〃 -

「右手に見えますのがジャガイモ畑。そして左手に広がるのが馬鈴薯畑でございまーす」。そんな他愛もないギャクをかませていたバスガイドのことを思い出した。でもって、今日は「ジャガイモ」の話。

中公新社から出ている『ジャガイモの世界史』は何とも面白い、読み応えのある一冊だ。著者は元中日新聞の記者で、桜美林大学教授の伊藤章治さん。

サラダやカレーライスの材料として欠かせない〃身近な野菜〃であるジャガイモ。学術書はともかくとして、その存在価値をここまで掘り下げ、かつ分かりやすく解説した本がかつてあっただろうか。

著者はジャガイモのことを「歴史を動かした『貧者のパン』」と称し、同書のサブタイトルとしている。帯のコピーは「小さなイモの大きなドラマ」。

ジャガイモの原産地が南米のペルーであることは周知の事実だが、話はいきなりそこへは向かわない。前書きは1991年の旧ソ連・保守派によるクーデタ計画の失敗談だ。

歴史の表舞台は取りも直さず人間そのものだが、著者は「ジャガイモこそが『隠れた主役』『影の実力者』だった…」と説く。

第1章のタイトルは「オホーツク海のジャガイモ」。我が国企業公害史の原点とも言える「足尾鉱毒事件」(明治23)で、古里の地を追われた栃木県の罹災者が、北海道佐呂間へ集団で入植して以降の涙ぐましい苦労話だ。

第2章に入って初めてそのルーツに触れる。先にも記したようにペルーは「発祥の地」である。〃聖地〃とも言うべきその場所は富士山の山頂より高いティティカカ湖周辺。

標高3800メートル超。陸地の部分だけでなく「トトラ」と呼ばれる葦でできた〃浮島〃でも栽培されている、というから驚きだ。写真を見ると、形はとてもいびつで、紫や茶、黄…など色もとりどり。

この原産種の祖先の一部が厖(ぼう)大な量の財宝とともに、インカ帝国を亡ぼしたスペイン人の征服者の手によって、16世紀中頃にヨーロッパ大陸へと運ばれる。

その後は、革命や飢きん、産業革命など様々な歴史の洗礼を受け、アイルランドやフランス、ドイツ、ロシア、アメリカ…と世界中へ広まっていく。

国内の栽培事情について触れている点も興味深い。その中の一つに「愛野馬鈴薯支場」を紹介した章立てがある。ここで登場しているのが支場長として長年〃品種改良〃に取り組んでいる小村国則さん(有家町出身)だ。

本当にまだまだ語り足りないが、いずれにしても我々庶民の食卓が、時空を超えた世界へと通じていることが判明したのは、大きな〃収穫〃だった。

ジャガイモの話ついでに、「インカ・マヤ・アステカ展」が今月25日から福岡市博物館で始まった。6月8日まで。


2008/03/27

欲しいの、必要なの? - しっかりせんば、島原人!! -

このところ連続して「良書」に巡り合っている。陽気のせいもあろうが、なぜかそれだけで嬉しい。

筆頭は永六輔さんの『もっとしっかり、日本人』。ヴィレッジブックスから出ている新書本だ。

元は、永さんが出演したNHKの「視点・論点」の放送内容を取りまとめたもの。全編、話し言葉で書かれているので、読んでいるうちに、あの独特のかん高い声で語りかけられているような気がする。

中身は読み応え十分だ。なかでも〃傑作〃と思ったのは「あの一億円」というタイトルの章。一億円とは、竹下登元総理が全国一律(3056市町村)に配った「ふるさと創生資金」のことを指す。

通常の感覚では、もうとっくに記憶の彼方に消え去った感さえある同資金だが、永さんの〃口〃にかかると、その本質(問題点)がものの見事に浮き彫りにされるから不思議だ。

永さんの考えでは、貯蓄に回した自治体(首長)は愚の骨頂。金塊にせよ、温泉の掘削にせよ…失敗してもいいから「地域活性化のため使うこと自体に意味があった」というのだ。

問題はそこから先。永さんは幼かった頃、近所に住んでいた大工の棟梁の言葉を借りて、人生の要諦を衝く。

〈江戸っ子が宵越しの金はもたねぇなんていうのは、あれはもらった金のことをいうんだぞ。稼いだ金は大事に使いな。もらった金は、その場で使え〉

〈で、稼いだんだか、もらったんだかわからない性質の金ってものがある。これは受け取っちゃいけない金だ〉

この言葉だけでも十分すぎるほどの〃含蓄〃が漂うが、さらに棟梁の話は続く。状況は、子どもに小遣いをねだられた親。

〈お前、それは欲しいのか、必要なのか。欲しいのなら我慢しな。世の中、そんな甘いもんじゃない。必要なら、何とかしてやろうじゃねーか〉

小生はここまで読んでハタと膝を打った。この春、念願の志望校に合格した三男君が、携帯電話をしきりと所望していたからだ。

「それは必要なのか、欲しいのか、どっちだ。必要なら買ってやる。欲しいだけなら我慢しろ」。本に書いてある通りに喋ったら、万事うまくいった!!

たまたまだが、島原市の行改審議会の最終会合が昨日あって、会長職を仰せつかっているため、締めの挨拶をすることになった。その席で持ち出したのが、前述の棟梁の話だ。

「行政改革はある意味、市民の皆様に負担を強いること」 - 。金子副市長の言葉に間違いはない。まさに、その通りだ。

この先、かなりの確率で、これまで通りのサービスが望めなくなるだろう。その際の考えの中心に、棟梁の言葉を持って来ると、実に分かりやすい。

〈それって必要なの、それとも欲しいの〉 - 答えはみんなで考えましょう。


2008/03/26

「履正社」という学校 - さくらパパはどうしてる? -

先日、何げなくテレビをつけたら、高校野球選抜大会(一回戦)の模様のダイジェスト。中で、近畿代表の「履正社」というチームを紹介していた。

対戦相手は中国代表の下関商業。かつて池永正明投手(→西鉄ライオンズ)を擁して全国制覇(63年春)を果たしたこともある伝統高だ。

結果は、延長戦を制して、履正社が3対2で勝利。が、そんな事はどうでもいい。関心を持ったのは、その校名だ。

早速、同校(大正11年創立)のホームページを開いてみると、校訓の一番目に「履正不畏」が掲げられていた!!続いて「勤労愛好」「報本反始」と。

本欄のタイトルについては連載初回に、「三国志、魏、崔林伝」などと、その出典を明らかにしているので重複を避けるが、何だか知らない土地で知人を見かけたような気分だ。

スポーツついでに、日曜日の女子ゴルフ(ヨコハマタイヤ)。十中八九勝利を手にしたかのように見えた横峯さくら選手が、最終18番ホールで痛恨のダブルボギー。

結果はプレーオフの末、韓国の申智愛選手(世界ランク7位)が日本ツアー初戦にして、栄えある優勝をもぎ取った。

ゴルフファンの方なら即座に感じられたことだと思うが、この光景は昨年秋の「上田-横峯」の決戦とは真逆の構図だった。

ゴルフに限らず、勝負の世界は非情だ。勝利の陰には、必ず敗者がいる。横峯選手にはこの悔しさをバネに、さらに飛躍を期してほしい。

ところで、晴れて参議院議員となられた〃さくらパパ〃こと横峯良郎氏はどうされているのだろうか。最近はとんとマスコミにも登場しなくなったが…。

またどこぞで人目を忍んでの〃乱痴気騒ぎ〃だろうか。余計なお世話だが、今度は週刊誌に嗅ぎつかれないように…。

最初に氏の講演(熊本市)を聴いた時は、愛娘が売り出し中とあって、随分と鼻息が荒かった。正直「なんだ、この野郎は!?」と思った。

ただ、同じくプロを目指し挫折した姉(次女)への処遇について語った時は、「この親父、タダ者でない」という気はした。

この手の輩は良くも悪しくも〃興行師〃である。当たれば大きいが、外れると大損して、批判の矢面に立たされる。

別の言い方をすれば、「固い志」の持ち主とも言えよう。他人がどう言おうとも、「我が道は、我が道」を地でゆくタイプ。羨ましくもある。

さて、弥生3月もいよいよ残り1週間を切った。春は「出発」の季節であると同時に、「別れ」のシーズンでもある。

長年勤しんだ職場を離れる人も多いだろう。名刺の右肩に「退任」や「転勤」の挨拶スタンプを目にする度に、我が来し方、行く末を思う - 「汝に志ありや」。はて?


2008/03/25

いよいよ〃春満開〃 - 4月から番組表を改編 -

自宅庭の杏(アンズ)の老木が、爽やかな春風に舞って花を散らし始めた。本番のサクラより一足早い〃花見〃気分だ。

会社の花壇では、冬場に球根を植えたチューリプが、夜来の雨に打たれてスクスクと茎を伸ばし、うち何本かは色鮮やかな花を咲かせている。

朝のラジオ(もちろんFMしまばら!!)を聴いていたら、稲田産婦人科医院(加美町)のソメイヨシノはもうほころび始めている、と言っていた。

〃春満開〃である。どことなく気分も弾んでくる。昨夜は〃肉離れ〃後の右ふくらはぎを庇いつつ、堀端を一周。島商前の桜並木も〃用意万端〃という様子だった。

話は変わるが、来月から当社の番組表が一新する。(→雑誌方式)そのため、昨日は日曜出勤だった。続々と集まるカラー原稿。時おり頭を抱えながらも、社員ともども心地よい汗を流した。

本のタイトルは『もっぱらしまばらマガジン』。4月号はその創刊号だ。フリースタイルで全64ページ。カボチャテレビの番組表を軸に、市内外の各種生活情報を掲載している。

何の場合でもそうだが、新しい事を始めるのは大変に骨の折れる作業だ。それにしても、当社のスタッフは良く頑張る。

みんなズブの素人ばかりなのに、誌面の企画&構成から広告営業、カード会員の募集まで、全員〃八面六臂〃の活躍だ。

この本のコンセプトは徹底して〃地元情報〃にこだわっていること。ただし、それだけでは「了」としない点が最大の特長(他所との違い)。

狙いはその先。つまり、情報提供を雑誌掲載だけで済ませるのでなく、その後をCATVやFMの番組でフォローする点に主眼を置いている。まさに「もっぱら!!」だ。

陰には先輩局の指導&協力がある。毎週のように当社にお出向き願い、時宜に応じてアドバイスをいただいている、のだ。

その過程で、何より社員スタッフを〃その気〃にさせたのは、彼の地(山口県宇部市)でのサクセスストーリー。

何と、宇部市のリンガーハット店は、カード事業とFM放送のアライアンス企画が奏功して、全国240店のフランチャイズの中で堂々の〃売上ナンバー1〃だという。

「そうか、やり方次第では地方都市が日本一になれるのか」 - 。まさしく〃コロンブスの卵〃。作業や営業に向かうスタッフの眼が俄然輝き出した。

が、決して忘れてならないのは当社の趣旨に賛同して広告掲載や取材にご協力いただいた地元の方々のお気持ち。有難い!!

まだ〃実物〃を目にしていないので喜ぶのは早計だが、そう遠くない時期にさらに充実した誌面をお届けできる、と思う。きっと!!


2008/03/22

安らかな〃旅立ち〃と - 「朝に道を聞かば、夕べには…」 -

私事になるが、我が一族本家(大手)の当主の奥様が21日、亡くなった。まだ満55歳の若さである。「残念」の一言だ。

元気な頃は恰幅に恵まれた陽気なママさんだった。とりわけ、小生とは辛らつな〃批判&批評〃をぶつけ合う間柄で、好敵手的存在だった。

闘病6年。ご主人をはじめ家族挙げての必死の看護も、「ガン」という〃病魔〃を打ち負かすまでには至らなかった。

遺族によると、静かな旅立ちだった、という。連絡の電話が入ったちょうどその頃、小生はある本を拾い読みしていた。

題名は『おじさんはなぜ時代小説が好きか』。関川夏央著。岩波書店から出ている新刊本で、山本周五郎や吉川英治、司馬遼太郎らを取り上げている。たまたまではあるが、藤沢周平の章を開いていた時に、訃報のベルが鳴った。

藤沢(故人)と言えば、最近人気の作家で、先年は木村拓哉主演の『武士の一分』が映画化され、評判を呼んだ。

著者によると、藤沢が「心に残る作品」の一つとしてハンス・カロッサの『ルーマニヤ日記』を取り上げている。同作品は〃死の風景〃にあふれた実録的小説だという。

【軍医だったカロッサが白樺の幹の間に倒れていたルーマニア兵のかたわらを行き過ぎようとした時、死んでいると思われた兵隊が外套の裾を引いた】

【カロッサが(意を決して)モルヒネの注射を打つと、その兵隊は白樺の幹に頭をもたせかけ、気持ちよさそうに両眼を閉じた。そして、その眼窩に大きな雪片が落ちてきた】

藤沢自身、若い頃から当時「不治の病」と言われた結核にかかり、長い間療養生活を送っている。著者はその状況を「生と死のインターフェイスのようなもの」と表現している。

小説の世界に限らず、我々が現実生きている世界も「生」と「死」は常に隣り合わせだ。こうしている間にも、多くの命が生まれ、そして多くの人々が死んで行く…。

古人は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と悟りに近い言葉を遺しているが、小生の如き凡人にとっては、「死」はひたすら悲しく忌むべきものだ。

先般、三男の卒業式に家人とともに出席したが、式辞に立った校長がこう力を込めた。「自ら命を絶つようなことは断じてなりません」と。

その言葉を聞きながら、もう随分と以前、夏休み前の児童達に心構えを説く、ある小学校長の話を思い出した。「皆さん二学期には、生きたままの姿でまたここで会いましょう」。今にして思うに何とも〃含蓄〃あふれる言葉でないか。

身近な人の「死」に接して様々な思いがよぎる。〃死に顔〃は安らかだった。カロッサではないが、最期は苦しまれずに旅立たれたことだと想う。合掌。


2008/03/21

「ひつまぶし」の流儀 - 喫茶の最高名は「ひまつぶし」 -

別段「恥」でもないが、この年になるまで「ひつまぶし」を食べたことがなかった。TVの名古屋特番などで視たことはあったので、存在そのものは知ってはいた。が、まさか〃食べ方〃があろうとは…。

うなぎに関してはこれまで比較的詳しい方だと自認していた。若い頃から赤坂「宮川」の料理も食べたことがあるし、テレビ長崎のT嬢からは「白焼き」の美味しさも、講釈ともども教わった。

もっと言うなら、以前に四国にいた頃は「養鰻会社」が大切な取引先だったし、それなりに名の通っている老舗には岳父の従姉妹が嫁いでいる。

それにしても残念なのは、島原から「てんぐ」(新町)がなくなったこと。ふっくら御飯に、白ミソの味噌汁。亡くなった濱田正夫先生(元島原市医師会長)や布井孝良先生(元長崎外語短大学長)からは随分とご馳走にもなった。

関東と関西で〃捌き方〃が違うことも知っていた。なのに「ひつまぶし」の食べ方(作法)を知らなかった。

インターネット上の百科事典「ウィキペディア」によると、御櫃(おひつ)の中身をしゃもじで「十」の形に切り分ける。これがスタート。

その上で、最初はそのまま茶碗に取って、そのまま頂く。次(二杯目)はお代わりをする様に「薬味」(ワサビ、海苔、みつば等)を乗せて食べる。

三杯目は、お茶(煎茶)か、もしくはだし汁をかけ、お茶漬けの要領で。最後は、前段の中から最も気に入った食べ方を選んで仕上げる。以上が基本的な〃流儀〃ということだ。

うなぎを英語で言うと「eel」(イール)。不思議とこの単語だけはよく覚えていて、ある時、観光バスの運転手が外国人相手に「ジャパニーズ・サカナ・ニョロニョロ」(!?)などとあぶら汗を流していた様も懐かしい。

そういえば、今村昌平監督(故人)がメガホンを握った『うなぎ』という映画もあった。確か役所広司と清水美砂が出ていて、カンヌの国際映画祭で何かの賞に輝いた。

うなぎはビタミンEを豊富に含んでいて、「視力回復や強壮剤」としても知られる栄養食品でもある。中堀町の「鰻泉」では、その〃生き肝〃を出していたが、この店ももうない。

「ひつまぶし」の不明から随分と横道に逸れてしまったが、何よりもそれに類する(?)ユニークな話を、元島鉄社長の松尾英三さんから以前うかがったことがある。

それは喫茶店のネーミングのこと。松尾さん曰く - 「これまで数え切れないくらい喫茶店にも入ったが、最高の命名は『ひまつぶし』だと思う」。

考えて見ると、本欄も「ひまつぶし」の一種に違いないが、ネタ探しに苦労しているということを、賢明な読者には何卒ご理解賜わりたい。


2008/03/20

げに有難きは友人なり - 熊日の幹部の方と意気投合 -

知人の還暦祝や県外出張にと相も変らず落ち着きのない日々を送っている。その中でまた新たな出会いが生まれたり、或いは問題を背負い込んだりと…。平穏な生活は一体いつ来るのだろうか?

まあ、そんなことはともかくとして、友人とは有難いものだ。つい昨日(18日夜)も、熊本の居酒屋でその思いを深く噛みしめてきた次第だ。

同行して下さったのは伊勢屋旅館社長の草野肇先輩。母校剣道部(早稲田)のOBで、今では熊本日日新聞の幹部となられている方をご紹介いただいた。

その方はとても気さくな人柄で、八代出身だが高校時代は熊本市内の済々黌(せいせいこう)に学んだ、という。小生は島原で新聞やCATV等の経営に関わっている旨を伝えて、後の指導を仰いできた。

同氏は、すっかりイモ焼酎に席巻された感のある焼酎界の現状を憂い、「熊本に来たら、コメば飲まんば!!」と、情け容赦なく注ぎ足して下さった。もっとも最後の方は〃手酌〃であったが…。

おかげですっかり酩酊してしまったが、草野先輩が「もう一軒行こう!!」と言うので、訪ねたのがホテル最上階のバー。

と今度は、そこのマネージャーが小生の中学時代の同級生。ほうほうの体で部屋に戻ったら、ガーリックトースト(山盛り!!)が差し入れしてあった。

別段、紹介を受けたり、物を頂戴したから言うわけではないが、友達(先輩も後輩も)とは、本当に有難いものだ。

〃人脈〃と言えば、何となく胡散臭いが、さして貯蓄もなく教育費に追われる我が身にとっては、それのみが〃財産〃である。

振り返ってみると、剣道もしているわけでもないのに、いつの間にか周囲には剣道関係者が多い。それもこれも草野壬二郎大先輩(元小浜町長)のお蔭である。

宮崎康平先生との初めての出会いも、当時、草野先輩が所属していた母校剣道部の「九州遠征」と同時であった。

昨夜の宴席もその話題で大いに盛り上がったのだが、「いま吉永小百合さんの主演で映画化の話が進んでいますよ」と報告したら、我がことのように喜んでくれた。

その「康平忌」(16日)はいつになく多くの参列者でにぎわった。やはり「映画」の影響が大きいのであろう。

今回の「思い出話」の登壇者は元長崎県総務部長の小田浩爾さんだった。もとより屈指の〃雄弁家〃であるから話の内容は面白く、初めて聞く種々のエピソードに笑い転げた。

そうか、小田マジックの〃精神的支柱〃もやっぱり康平先生だったのか!!一人そんな思いを噛みしめながら、もう30年以上も前の〃初対面〃のシーンにプレーバック。

あれはご自宅だったか、バナナ園だったか…。


2008/03/16

「オヤッさん」古希祝…今日、小浜の伊勢屋旅館で

古希(数え年70歳)の由来は「古来まれなり」。「オヤッさん」の愛称で皆に親しまれている「番丁」(小浜温泉)の旦那の本名は「草野忠也」(くさの・ただなり)だ。

その「オヤッさん」が今年、古希を迎える。誤解を恐れずに言えば、「オヤッさん」は昔から老成した顔をしていた。これでやっと〃年相応〃と言えるようになった。良かった。

「オヤッさん」にはペーペーの若い頃から世話になりっぱなしだ。もっとも、今でもペーペーに変わりはないが…。

世話になったのは小生だけかと言うと、決してそうではない。今では功成り名を遂げた議員先生諸氏も、「オヤッさん」には頭が上がらない。

なぜなら、当選する前の〃生地〃の姿を、「オヤッさん」は悉く知り抜いているからだ。したがって、いつまで経っても「オヤッさん」は怖い存在だ。

20年ほど前、「オヤッさん」は若者の車と言われたトヨタの「ソアラ」に乗っていた。これが不思議と良く似合っていた。

その「オヤッさん」と奥様に、とても辛いことがあった。一人娘のYちゃんを病気で亡くしてしまったことだ。朗らかで体格の良いお嬢さんだった。

小生らが「番丁」に通い始めた頃は、Yちゃんはまだ幼子だった。数多出入りする中には、お年玉をあげるどころか、寸借して嬉野方面を目指した〃不逞の輩〃もいた。誰とは言わない。

「オヤッさん」は酒を一滴も飲まない。その代わり、奥様がビールを沢山召し上がられる。傍から見ていても、本当に仲の良い夫婦だ。

我々が訪ねるのは、一次会、二次会を終えた10時過ぎの時間帯だ。「オヤッさん」は奥の和室でいつもテレビを視ている。

テーブルには、年季の入った大きな湯呑み茶碗。愛読紙は読売新聞。文藝春秋(月刊誌)も良く読まれているようだ。

世間話が始まるが、「オヤッさん」は自分からは余り喋らない。ひとしきり相手の話を聞いた上で、おもむろに口を開く。

「ないどんか」(しかしの意味)のフレーズが出始めたら、興が乗ってきた証拠だ。談論風発。政治、スポーツから地元の話題までネタは尽きない。

そうこうしているうちに、仕事を終えた隣の伊勢屋旅館の社長夫婦が顔をのぞかせる。旦那は寡黙だが、奥様は休む間もなく喋り続ける。

何せ「オバサンの主張日本一!!」の金看板を背負っているから、太刀打ちできる相手ではない。「オヤッさん」は、そうしたやりとりの様子を温和な表情を浮かべて眺めている。

他所のことは知らないが、「番丁」は我々の変らぬオアシスだ。その「オヤッさん」の古希祝いが今日16日、伊勢屋旅館で開かれることになっている。行く、絶対に行く!!


2008/03/15

湖月堂は是非おすすめ - 久しぶりに小倉の街を訪問 -

3月13日は吉永小百合さんの誕生日ということばかりなく、自身にとって「特別な日」である。その訳はまだ言えない。

その特別な日に、久方ぶりに北九州の小倉を訪ねた。高速を使って、車で片道4時間。後で走行距離を調べたら、500キロを少し超えていた。

小倉と言えば、無法松、祇園太鼓に、森鴎外、松本清張など、すぐに思いつくことは多いが、最近では何と言っても「東京タワー」(小説&映画)の原作者、リリー・フランキーの古里である。

新幹線が通っていることもあって、駅前の大通りには大きなビルが建ち並び、一見華やかな都会の感じがしたが、魚町の商店街は以前の記憶より遥かにこじんまりとしていた。

ご多分にもれず、シャッターを下ろしている店舗も多く、一抹の寂しさとともに無常観を覚えた。

石炭産業が盛んだった頃は、周辺の産炭地や製鉄工場などから繰り出す人の波で賑わっていたはずだろうに、わずか1世紀くらいでのこの凋落ぶりは一体どうしたことか…。

歩き疲れたので、栗饅頭で有名な和菓子の老舗「湖月堂」に入った。案内されるままに奥の喫茶コーナーに向かったが、これがやけに広々としていて気持ちが良かった。

テーブルなどの調度類も決して華美ではなく、かつて殷賑(いんしん)を極めた街の歴史をゆったりと堪能することができた。

やはり「喫茶店」はこうでなくてはならない。いや「こうあって欲しい」という理想の店の雰囲気がそこにあった。

煙草も気兼ねなく吸えたし、お家芸の「和菓子セット」も手頃な料金で大変に美味であった。もちろん、「禁煙コーナー」もきちんと整備されていて好感が持てた。

一時期、小倉進出が話題となった駅前の「伊勢丹」(デパート)は今月いっぱいで店じまいをして、経営は地元資本の「井筒屋」が受け継ぐ、という。

帰路、カーナビの指示に従って運転していたら「旦過市場」という看板に出くわした。そう言えば、以前島原に勤務していた毎日新聞のN君の実家はそこで洋服店を営んでいる、ということだった。

一瞬「立ち寄ってみようか…」という気もしないではなかったが、片道4時間の距離を考えて「またの機会」とした。

そのN君は現在、東国原知事の誕生ですっかり有名になった宮崎県庁詰めのキャップ。半年ほど前に出張先で出会ったら「つい先日、都城市出身の女性と結婚したばかりです」としきりに照れていた。

その都城のCATV局(BTV)からは「旧寿屋跡のIT産業ビル(9階建て)はほぼ満杯になった」との嬉しい知らせ。

ハンドルを握りながら「有為転変」の4文字が頭をよぎった。


2008/03/12

永さんの筆まめに驚嘆 - やはり便りは手書きに限る!! -

詳しい数字は忘れたが、永六輔さん(放送作家、マルチタレント)は年間に約1万通ものハガキを、ラジオのリスナー(聴取者)に出されている、と先日聞いて驚いた。

ざっと計算しても、1日当たり30通だ。その理由がふるっている。「皆様、お便り下さい、と放送を通じて呼びかけているのだから、当然でしょう」と。

筆不精の我が身にはいささか耳の痛い話だが、その永さんがもう随分と昔に、宮崎康平さんについてラジオ番組で喋っていたことを思い出した。

「長崎県の島原に宮崎康平という盲目の作家がおられます。作品そのものも素晴らしいのですが、生き方というか、考え方が素敵です」…云々。

確かその時、永さんは「水平思考」という表現を使って、宮崎さんの人となりを全国のリスナーへ向けて語りかけていた。

ところで、「便り」と言えば、「フーテンの寅さん」こと、俳優の渥美清さんのハガキの話も有名だ。

松竹の人気シリーズだった「寅さん」は一作一作、全国の「地方」を舞台に撮影が行われていたので、主役の渥美さんは家を空けることが多かった。

田所康雄名(渥美さんの本名)で、母親宛に出されるハガキは「毎日」。いかなるロケ先からも「元気です。康雄」の一言を添えて送られていた、という。

今の時代のように携帯電話が普及した中でも、渥美さんは恐らく(いや絶対に!!)メールなどを使うことなく、せっせとペンを走らせていたに違いない。

大方のビジネスマンがそうであるように、今では朝一番の仕事はパソコンのメールチェックだろう。弊社でも、日報や社員のスケジュール管理はすべてパソコン任せだ。

確かに便利この上ない。時系列的な整理だけでなく、個人、セクションごとの一括管理、書き込み、返信などもいたって簡単。まさに現代ビジネスにとっては必須のツール(道具)だろう。

しかし、同時に味気がないのも事実。転勤、引っ越しの挨拶など、手書きの部分が1つもないのは、はなから読む気がしない。やはり手紙、ハガキの類いは「手書き」に限る。

この場合、字の上手下手は一切関係がない。右肩上がり、下がり、丸文字、ミミズ文字、漢文調、ですます体…。読み進めていくうちに新たな「発見」があったりして面白い。

郵政(郵便局)が民営化されて、会社への書簡類を届けてくれるスタッフの方々の制服も一新されている。

先日、ゆうパックを配達して下さった顔見知りの職員の方は「最近はうるさくなって、受け取りは印鑑、もしくはフルネームでお願いします」とサインを貰っていかれた。

そう言えば、今年の正月は吉永小百合さんから「印刷物」の年賀状が届いていたなあ…。そろそろ返事でも書いてみようか。


2008/03/08

土産に素麺と焼酎 - 小百合さんも〃肉離れ〃 -

6日夕刻、映画『まぼろしの邪馬台国』(東映)の島原ロケを終えた堤幸彦監督と主演の竹中直人さんが弊社を訪れ、「FMしまばら」に出演してくれた。

予定では午後7時頃の到着ということだったが、当日のロケ(バナナ園)が想った以上にはかどったため、そのゲスト番組は5時前からスタート。

パーソナリティを務めたのは、宮崎春而(シュンちゃん)と菅智憲(小にょろ)の両名。御大二人にも決してヒケをとらない堂々たる〃語り口〃にほとほと感心しながら、ガラス越しに眺めていた。

と、どういう成り行きか、小生もスタジオ内に引きずり込まれた。焦った!!スタジオ入りするのは、開局時に吉岡市長や坂本放送部長(九総通)と出演して以来だったからだ。

小にょろが日頃の恨みを果たさんと、急きょマイクを振ってきた。「社長もエキストラ出演されましたが、お二方に何か聞きたいことはありませんか?」。

一瞬、本物の竹中直人さんを前に、「何だ、バカヤロー!!」と〃怒り笑い〃を演じようかとも思ったが、立場上ぐっと我慢して当たり障りの無い質問をした。

堤さん(大分出身)は「九州の元気の象徴として宮崎夫妻を描きたい」と盛んに力説。島原については「水(湧水)をもっと前面に押し出して!!」との提言をくれた。

竹中さんはお得意のオトボケポーズで『島原の子守唄』を鼻歌で奏でながら「島原は素晴らしい。殊に素麺と焼酎が美味い!!」と、お世辞でなく、本当に気に入ってくれた様子。

そんな話を聞くと、何だかこっちも嬉しくなってしまって、急きょ一番街の「ひらかた商店」から素麺を取り寄せ、BTV(都城CATV)からいただいたばかりの「赤霧」を手土産に添えた。

これから先も佐賀県に移動してロケが続くとのことだが、小生もエキストラとはいえ〃出演者〃の一員として、何よりも島原半島住民の一人として今秋11月の封切を心待ちにしている。

ところで、憧れの吉永小百合さんとの〃面談〃は実現できなかったが、至近距離でご尊顔を拝むことはできたし、その肉声も耳にすることができた。それだけでも「十分に幸せ…」と思わねば、と必死で自分に言い聞かせている。

昨夜、そんな鬱屈した思いを胸に『昭和が明るかった頃』(文春文庫・関川夏央)を再び読み進めていたら、後半部に「小百合さんの肉離れ」について語ったくだりがあった。

それは昭和38年のこと。ご存知「日活純愛路線」の名コンビ、小百合&光夫が出演した『美しい暦』(森永健次郎監督)のロケ先、長野・松本での出来事だ。

この時、小百合さんは先輩の長門裕之さんの教えに素直に従って、治療に専念した、とのこと。なぁーんだ、小百合さんもマモちゃんも一緒ジャーン!?


2008/03/07

まだ来ない〃小百合命〃 - 西田敏行さん素直に禁煙!! -

吉永小百合さんが島原半島に来られると聞いて、1冊の文庫本をアマゾン(ネット通販)で取り寄せて拾い読みしている。

本のタイトルは『昭和が明るかった頃』。著者は関川夏央(なつお)さん。10年以上も前に月刊誌『諸君』で連載されていたことをふと思い出したからだ。

この本では吉永さんの生い立ち、家族関係、日活入りの〃裏話〃等が事細かに描かれていて大変に面白いのだが、敢えてその中身の説明は避ける。

それよりも目下の問題は、肉離れした右脚である。病院では〃患部〃が痛くないように、と簡易ギプスを設置して下さった。

これは、ズボンの上から脱着が可能となっているスグレモノ。今更ながら、「マジックテープ」を発明したレオナルド・ダ・ビンチの〃天才ぶり〃に驚く。

ふだん生活している分には、さほど痛みも感じないし、どうってことはない。が、ちょっと油断するとまだ〃激痛〃が走る。

加えて松葉杖。股下70センチ弱に巻かれたギプスとの組み合わせは、傍から見れば、さぞかし〃珍奇〃に映ることだろう。

ただ、この程度のことでメゲないのが、自分の〃真骨頂〃である、とわきまえているので、必死の形相でアチコチと這いずり回っている。

総じて感じることは、島原半島の人々はやさしい。中にはこの恰好を見て、指差して笑う〃不心得者〃もいるが、10人中9人は「どがんしたと、大丈夫ね?」と声を掛けて下さる。

一方で「いやー、吉永小百合さんと競演しよったら、ちょっと危険なシーンのあったけん、仕方んなかったと」などと〃虚勢〃を張っている自分が情けないと言えば、情けない。

しかし、今朝ほどはプロデューサー(女性)の方からお見舞いの電話をいただいてとても嬉しかった。そうか、ちゃんと見ている人は見ているのだ。欲を言えば、電話の相手が吉永さんだったら!?まあ、それは身の程知らずの〃強欲〃というものか…。

それからこれは島原出身の舞台俳優、福田信昭(青年座)さんから聞いた話だが、西田敏行さんは吉永さんから「もうタバコはお止めなさい!!」と言われてスパッと止めたそうな。

福田さんはその〃事実〃を小生の耳元で囁きながら、「清水さんも、吉永さんからそう言われたら、タバコ止められます?」と訊いてきた。

小生は間髪を置かずこう答えた。「もちろんです。吉永さんから命じられたら、タバコと言わず、酒だって断ってみせます!!」と。

福田さんによれば、「確かにそのメッセージをマネージャーさんに伝えた」とのことだったが、吉永さんからはまだ、何の連絡も来ない。

エーイ、こうなったらヤケ酒だ。タバコだってもっと吸ってやる!!


2008/03/06

肝心な場面で〃肉離れ〃 - 映画作りは地方自治に酷似!? -

スタッフ間のやりとりを聞いていて、映画の世界は完全なる「ヒエラルキー」(階級社会)である、と如実に感じた。同時に、濃密な「コンミューン」(共同体)である、とも。

「脚本」をもとに監督が演出全般を手がけ、その指示のもと、助監督以下のスタッフが一つ作品の完成を目指して邁進する。もちろん、役者の力量も大きく問われる。

ひょっとして、この構図、「地域づくり」に当てはめることができないだろうか?もちろん監督は「首長」であり、作品の善し悪しが「地域の勢い(未来)」を左右する。

そうした観点に立つと、映画作りは殊のほかに面白い。いくら脚本が素晴らしくても、監督(首長)が無能(やる気がない)なら、素材の良さを活かすことができない。

複雑な人間関係が引き金となって、大小のトラブルもひっきりなしに起きるだろう。そうした中で大切なのは、「全体としての和」であり、「関係者全員の目標意識の持続」だ。

みんなが苦労して完成させた作品は、関係者にとっては、何物にも換えがたい宝物だ。が、それが必ずしも興行的に〃当たる〃とは限らない。

この辺りが映画も地方自治も難しいところだ。映画における観客とは、チケットを買って鑑賞してくれるお客様であり、地方自治の場合は、納税者や観光客などがそれに相当する存在だろう。

言い換えるなら、今後の首長の職務には、ある意味「プロデューサー的な役割」も求められる、ということだ。

少し理屈っぽい話になってしまったが、小生は撮影当日、そうしたことを考えながら〃一所懸命〃スコップを動かしていた。

もちろん憧れの吉永小百合さんを前にして、すっかり舞い上がっていたことも事実だが、「至福の時間」→「悲劇」(?)への展開は突然にやってきた。

振り返ってみると、倦(う)むことなく繰り返される「リハーサル」の度ごとに、バカ正直に、真正面から「全力」でぶつかっていた小生の体力は、もうとっくに「限界値」を超えていたのかも知れない。

何度目かの「それでは本番いきます!!」の声に瞬発的に反応した小生の右ふくらはぎ(ヒザ裏)に、一瞬「激痛」が走った。

「やばい!!」と思ったが、もう遅かった。時間にするとほんの1秒くらいの遅れだろうが、今でも決定的な過ちを犯してしまったような気分だ。

それでも、どうにか「OK」は出た。痛めた右脚を庇(かば)うようにして現場を後にしたが、気持ちは深く沈んだままだ。

やっとの思いでたどり着いた病院で訊かれた。「どうしました?」「いやー映画のロケで痛めてしまって…、アハハ」。映画とはまったく異質の「虚飾の世界」に身を置く自分がそこにいた。トホホ…。


2008/03/05

3月3日の語呂合わせ - 小百合さんに一番近い存在!? -

3月3日を語呂合わせで「燦々」(さんさん)と読むか、「散々」(さんざん)と読むか - 。意見が分かれるところだろうが、果たして小生の場合は…?

前にもお話した通り、小生も晴れて東映映画の『まぼろしの邪馬台国』に出演する運びとなり、3日、その現地ロケに参加させていただいた。

映画のストーリーや配役等については〃口外〃することを固く禁じられているので、詳しくは書けないが、自身にとって〃貴重な体験〃であったことだけは確かだ。

午前8時半きっかり、指定の集合場所に到着。はやる心を押さえながら、まず通されたのは衣装室。そこで用意されていたのは、いわゆる〃作業着〃だった。

すでにエキストラ仲間4人はその作業着に着替えていたが、いずれも顔見知りの連中。本当は一人ひとりを紹介したいところだが、敢えてここは配給元の方針に従って、名前は伏せることにする。

とは言っても、皆さんそれぞれに休憩時間を利用して、「もしもし東映(?)の○○ばってん、今、吉永小百合さんと一緒に撮影現場におっとさー」などと、いわゆる〃吹聴電話〃をされていたので、おっつけ知れ渡ることだろう。

しばらくして他の4人にはヘルメットや帽子が配られたが、衣装スタッフが小生に持ってきたのは、頭の大きさを勘案したのか、小汚い手ぬぐい1本。

「ちょっと首に巻いてもらえますか。うーん、何かピンときませんね。すみませんけど、鉢巻にしてもらえますか。おっ、ピッタシですね!!」

トイレに行ったついいでに鏡を覗いたら、ヒゲこそないが、どう見ても「レオナルド熊」ではないか!?まぁー元が元だから、仕方がないが…。

バスで5分ほどの現場付近はどんよりと曇っていて、中国からの〃黄砂〃とともに、時おり雨粒が落ちてきた。

集まったスタッフの数は、聞くところによれば70人強。この集団が監督の〃号令〃のもと、右に左に整然と動くのだから、やはり監督稼業は〃男冥利〃につきる、というものだ。

そうした雰囲気に徐々に呑み込まれながら、ふと傍らに視線をのばすと、何とそこにいるではないか、〃有名タレント〃が!!

本音のところは早速サインでも貰いたいところだったが、ここは〃エキストラ〃とはいえ同じ出演者。ぐっと我慢して、助監督らの指示に粛々と従った。

現場到着から約1時間後。何かしら〃オーラ〃のようなものを感じ始めて東の空の方を眺めたら、本物の吉永小百合さんが確かにそこに!!

恥ずかしながら、暫し見とれた。少し位置をずらして近付き、そして思った―「今、日本で吉永さんに一番近い人間はこの俺だ!!」と。が、そうした至福の時間は長くは続かなかった。


2008/03/04

「ひな祭り」はきらい!? - 時代はどこに向かうのだろう -

あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花 五人ばやしの 笛太鼓 今日は楽しい ひな祭り

どうにもガキの頃からこの歌は〃苦手〃だ。男の兄弟ばかりで育ったせいか、耳になじまない。もっと言えば、全然「楽しさ」が伝わってこないのである。

やはり「祭り」は北島のサブちゃんが歌っているように〃勇壮〃なものが良い。ただでさえ「先行きに不透明感漂う」などと言われているのに、ここで景気をつけないでどうする!?まあ、勝手な理屈だが…。

島原の場合、その景気づけが「初市」ということになろうが、こちらもいま一つ〃元気〃が伝わってこない。主催者ばかりでなく、もっとみんなで盛り上げなければ!!

一方で映画『まぼろしの邪馬台国』(東映)の撮影は順調に進んでいるようだ。小生は所用で出席できなかったが、2日には記者会見も行われた。

聞くところによれば、スタッフの滞在日数はあと1週間弱とか。天候面も含めて、無事撮影が終了することを願うばかりだ。

話は変わるが、京都と長崎を結ぶ寝台特急「あかつき」が廃止されるとの報に触れ、一抹の寂しさを禁じえない。

あれはもう10年も前のことだ。次男が少林寺流空手道の全国大会(東大阪市)に出場することになって、一家5人して出かけたことを思いだす。

夏の暑い盛りだった。大阪城を見学し、中之島に一泊した。当時、浄土宗総本山の「知恩院」に詰めておられた崇台寺ご住職の安藤光宣さんもわざわざ〃カブ号〃で駆けつけて下さったのだが、あえなく一回戦で敗退…。

仕方がないので、安藤さんはそのまま京都へトンボ帰り。我々は京阪電車で後を追いかけた。

初めて訪れた「知恩院」はとても一言では言い表せないほど立派な造りだった。国宝の鴬張りの廊下を伝って案内された広間(本堂?)には、家康公ゆかりの大太鼓が置かれていて、触りに行った三男が怒られたことを今でも鮮明に覚えている。

庭園の手入れも隅々まで行き届いていてビックリした。「ここに限らず、京の桜の美しさは格別だよ」。同住職の言葉が今でも耳にこびりついている。

数時間滞在したのちJR京都駅までタクシーで移動。が、「あかつき」の出発時刻まではまだ相当あるということで、街中の銭湯で汗を流すことにした。

サッパリ気分で乗り込んだ「あかつき」の車内は快適だった。家人も3人の子供(男ばかり)も上下の寝台を行ったり来たりして楽しそうだった。

思えば、自らの受験で上京したのは「さくら号」だった。もうその車体はすでになく、「あかつき」も姿を消す。そして島鉄南線も…。時代はどこへ向かうのだろうか?


2008/03/03

銀座食堂で映画ロケ - 「愛宕」は守護神のはずだが… -

二月は〃逃げ月〃というが、月日の経つのは早いもので、今年ももう6分の1が過ぎてしまった。

年頭に立てた幾つかの〃目標〃もそろそろ軌道修正を図る頃合いかも知れない。そうした心境を見透かしたかのように、書店には4月始まりのスケジュール帳が並ぶ。

しかして、我が実態は。嗚呼、何と成長の軌跡が感じ取れないことか…。年々、血圧の上昇に比例して、バカの度合いは増し、日々反省の連続だ。

テレビではもう20年以上も前の「ロス疑惑」が連日のように報じられているが、もういい加減にしてほしい。イージス艦と漁船の追突事故にしても、釈然としないイライラ感ばかりが募る。

科学の粋を集めて進水した艦名は「あたご」だが、大新聞のコラムはギリシア神話から取った「イージス」の由来を賢しげに開陳するばかりで「ごもっとも」の域を出ない。

「あたご」(愛宕)は和歌の世界にも出てくる日本古来の地名である。広辞苑によると、京都北西部に位置する「愛宕山」(海抜924m)の別称で、山頂に建つ「愛宕神社」は、皮肉にも、雷神を祀った防火の守護神だという。

東京の「愛宕山」は港区芝公園の近くにあり、確かNHK発祥の地。そう言えば、加津佐町にも「愛宕団地」という地名があったような気がする。

マスコミに限らず、とかくこの世の中は〃移り気〃である。昨日まであんなに怒り、悲しんでいた事件や事故がいつしか話題に上らなくなる。

「人の噂も75日」 - 。悲しいかな、すべては歴史の1ページにしか過ぎないのである。

そのようないささか〃厭世的〃な気分に浸ってパソコンに向かっていたら、何やら社員がソワソワしている。聞くと、吉永小百合さんが近くの「銀座食堂」でロケをしている、というではないか。

そうだ!!吉永小百合という〃大女優〃を間近に眺められるのも、我が人生(歴史)の貴重な1ページである - 。そんな勝手な理屈をつけて、早速現場に駆けつけたが、実際にお顔を拝めたのは割烹着姿の綾小路きみまろ一人。完全に当てが外れた。

別段、「きみまろさん」が嫌いなわけではない。どちらかと言うとファンの一人である。CDも2枚買って、時々車中で聞いては憂さを晴らしている。

でもやっぱり、ここは「小百合さん」なのである。昨日、児童見守りシステム(無線LAN)の視察で来島した宮崎県都城市のCATV局の幹部も、大の「サユリスト」だと言っていた。

帰社の途中、花壇の脇を通っていたら、知らない間にチューリップの芽の数が随分と増えていた。さあ、自分もいつしか花咲く時を夢みて!!