2006/08/30

カボチャの行く道は - 地域の皆様に重宝がられること -

 「がまだす花火大会」を見た。実物に加え、弊社のテレビ画面でも。流石に本番の迫力とまではいかないまでも、鮮明な画像と音に「今後のカボチャテレビの進むべき道筋」を想った。

 いつだったか、TBS系の日曜あさの番組に、携帯電話の「着信メロディー」で大成功している京都のベンチャー企業の社長が出ていた。

 同社長曰く「まずは相手に儲けさせて喜んでもらうこと。自分たちのビジネスは、それからですよ」。 "至言" だと思った。

 「一将功成りて万骨枯る、ではイカンですよ」。筆者が普段から尊敬申し上げている森本元成さん(島原商工会議所元会頭)が噴火災害当時、その言葉を引いて世相を戒めていた。

 成功すれば、人間は自らの力を過信して、まるで己ひとりの力で現状があるかのように "錯覚" してしまう。とどのつまりは、アンデルセンの『裸の王様』となるのである。

 今回、無線LANの実証実験に成功したと言っても、まだ本格情報化への "とば口" にしか過ぎない。簡保センター、海望荘の皆様のご理解とご協力があって、やっと "輪郭" が見え始めてきたところだ。

 時々、考える。「情報化」って一体何だろう?なかなか最終の結論までには行き着かないが、「目的ではなく、手段であること」は確かだ。

 だとすれば、住民の皆様に "重宝がられる" ことが一番だ。「カボチャに入っていて良かった」「カボチャのネットサービスは他と違って使い勝手が良く、こんなに便利だ」…などなど、地元局としての果たすべき "役割" が見えてくる。

 無線LANに関しては、色んな "使い道" が考えられる。中継基地を増やしていけば、市内のどこからでも "生中継" が可能となる。そう、NBCラジオの「スキッピー」のようなことができる。

 中継車両も要らないので、海の上からだってできる。商店街や大型店舗のPRばかりでなく、防災情報にも使える。ドラえもんの「どこでもドア」のようなことが、にわかに現実味を帯びてくるのである。

 花火当日はマルデンビルの下田社長さんのお庭でご馳走になった。芝生に敷かれた絨たんの上で、冷えたビールや美味しい料理をいただきながら、宿題に追われる三男(中二)ともども、しばし "セレブ" な気分にひたった。

 帰りは島鉄の臨時バス(三会方面)に飛び乗った。道路混雑のため、外港交差点から大手まで、約一時間もかかった。

 昔、漫才師が「地下鉄の車両は一体どこから入れるのでしょう。不思議ですね」と言っていたが、混雑はどこから始まっているのでしょう?情報化で何か役に立てないものか。


2006/08/27

無線LANで生中継!! - 有線の常識を破る新たな試み -

 行く夏を惜しむ恒例の、島原花火大会がいよいよ28日に迫った。今年は六千発が打ち上げられる、という。楽しみだ。

 その大会の模様を、カボチャテレビでは今回新たに、無線LANを使った〃生中継〃で放映することにしている。

 筆者は技術系の人間ではないので、良く判らないが、社内の詳しいスタッフに聞いてみると、非常に手頃で使いやすく、何かと便利なものらしい。

 中継の方法はこうだ。まず、本社の入っているNTTビル屋上に受信アンテナを立て、簡保センターを中継して、海望荘から音と映像を〃無線〃で本社に送り、契約世帯に配信する。

 ケーブルテレビはもともと「有線テレビ」と訳されるように、中継に関しては、光ファイバや同軸ケーブルに頼らざるを得なかった。

 その伝でいくと、カボチャの今回の試みは、有線の限界を打ち破る、まさに "画期的" なチャレンジ。恐らく、日本全国探してみても、どこのケーブル局もやっていないはずだ。

 当日は打ち上げ直前の午後八時半ごろから中継を始め、大輪の花火の迫力だけにとどまらず、海望荘の賑わいぶりを "生放送" で伝える。

 ところで今日、この記事を書く前に「第14回長崎県ジュニア・ユースサッカー選手権大会」(宅島建設杯)の開会式に出席したが、小嶺忠敏・大会会長のあいさつに耳を傾けた。

 今年の開会式は、サニーサイドアップの次原悦子社長からプレゼントされた中田英寿選手のユニフォーム(パルマ10番)を、宅島壽雄さん(宅島建設社長)が気前良く、「最優秀選手に贈呈する」ということで、いつにも増して盛り上がった。

 小嶺会長は、先のワールドカップドイツ大会に出場した日本代表の家族とともに16日間を過ごした、という。

 その際の印象から、「家族の皆さんは全員とても "謙虚" だった。君たちも "謙虚" な気持ちを忘れずに全力でプレーしてください」と訓示。

 続けて「中田選手はユース日本代表の時代から、『高校卒業後はプロ入りして、将来は必ずヨーロッパでプレーするんだ』という明確な目標を持っていた」との例を引き、若き力の発奮を促した。

 地区予選なしの百六チーム、二千二百人が参加した今年の大会の決勝戦(九月十日)の模様は、同二十三日(土)午後二時から、NCC長崎文化放送で "録画中継" される。

 もし、花火中継で確かな感触が得られたら、NCCさんより前に決勝戦の模様を "生中継" できるのだが、ここは小嶺会長の言うことを聞いて、ひたすら "謙虚"に。


2006/08/26

ガンバレ島商サッカー - モム君になれないマモちゃん -

 先日早朝、舞岳の水を汲みに千本木の県道を車で走っていたら、白いユニフォーム姿の軍団が歩道をランニングしていた。

 胸のネームを見て、島商のサッカー部員であることが分かった。高総体を終え、秋に向けての強化訓練の一環であろう。

 隣の雲仙市には常勝「国見高」が聳えている。その存在は目の前の「焼山」、背後の「平成新山」より高い日本一の「富士山」かも知れないが、決して征服できない高さではない。ガンバレ島商!!

 ところで、以前本欄でも紹介したが、島商サッカー部が全国制覇を果たした直後の、昭和60年当時の凱旋パレードを映した8mmフィルムが見つかった。

 撮影者は元島原市職員の横田一彦さん(坂上町在住)。映像には、島商サッカー部の生みの親である、江口覚太郎先生をはじめ、鐘ヶ江管一市長、園田秀利教育長(故人)、小嶺忠敏国見高前校長らの顔が収まっている。いずれも若い。

 それにしても大変な盛り上がりようだった。紙吹雪が舞う大手広場には、これまでのどの選挙でも見たことがないようなヒト、ヒト、ヒト…の波。「パワー全開」といった感じだ。

 放送は8mm→DVD変換・編集作業後の九月初めを予定。臨場感を出すために、ちゃんと「収録音」も入れている。

 想えば、この頃の島原市内の高校スポーツ界は「意気盛ん」だったような気がする。翌61年には島原中央高校が夏の甲子園初出場を果たした。

 もう亡くなってしまったが、イトー家具社長の伊藤喜八郎さんが、面識間もない筆者を捕まえて「アタンも寄付してくれなんへ」と、なけなしの万札をブン取って行った。懐かしい思い出だ。

 当時、筆者はまだ肥ってはいなかった。ところが今や、立派な「メタボリック症候群」(内臓肥満)の一員と化した。

 友人の及川政治氏(元ターザン編集長)が週刊現代で四回にわたって、自らを実験台にして対策方法を論じていたが、不良中年にとっても、笑えない現実である。

 先日、日曜日の深夜情報番組で体脂肪率10%前後の男性を「モム君」と称して、紹介していた。実際に計ったことはないが、筆者の場合は軽く30%を超えているだろう。

 「モム君」は合コン出でモテモテだった。「ならば!!」と、秘かにトレーニングを思い立ってはみたものの、この暑さでは…。

 名前も「モム君」には向いていない。そう私は「マモちゃん」だった。伊豆大島にいる5歳の甥っ子から時々、写真付のメールや電話がかかってくる。

 「マモちゃん、あんまりお酒飲み過ぎたらだめよ」。ハイハイ…。


2006/08/23

早実の優勝に "予感" - 訂正!!松商エースは生きていた -

 「からたちや 皆みんな やさしかり」 - 。我が家の渡り廊下には、先年亡くなった、平尾みさおさんが遺した俳句の絵皿が飾られている。

 毎朝、母屋へ移動する度に、お元気だった頃のご慈顔を想い出す。もう一つの日課が、郵便受けに無造作に入れてある、ご主人の平尾圭太さん名の封筒の受け取りだ。

 中身は当然のことながら、俳句の原稿だが、「今朝も元気にラジオ体操に行かれたのだなあ」と、安堵の胸をなでおろす。

 その原稿とともに新聞各紙を取り出す。今朝の新聞(22日付)には、早実の「悲願の初優勝」が大きく取り上げられていた。

 何せ、あの「松山商業VS三沢」(昭和44年)以来、37年ぶりの引き分け再試合の決勝戦を制しての薄氷の勝利である。

 21日夜の報道ステーションの特集では、ミニタオルで顔の汗をふきながら、クールに、時に気迫あふれるピッチングで栄冠をつかんだ斎藤佑樹投手にインタビューしていた。

 「チームの仲間を信じて思い切って投げました」と、ピッチング同様、丁寧な受け答えだった。番組では、同投手が群馬県出身で、身の回りの面倒を見てくれる兄と東京で二人暮らしをしている様子なども紹介していた。

 平尾さん夫妻と斎藤兄弟。俳句と野球は正岡子規で近いと言えば近いが、まったく異なる境遇での「愛情」の在りように心温まるものを感じた。

 脈絡はないが、早実の優勝にはある種 "予感" を感じていた。このところ、何とはなしに「早稲田」が勢いづいていたからだ。

 平成18年度上半期の芥川賞、直木賞の三人の受賞者はいずれも早稲田出身者だ。筆者も島原稲門会会長として素直に嬉しい。早実のユニフォームは大学と同じだし、校歌の作詞者も『都の西北』と同じ相馬御風先生だ。

 ところで、島原稲門会は物凄い勢いで高齢化が進んでいる。昨年だったか、海望荘で総会を開いたが、たまたま会場が同じだった福岡大学の同窓生の数と若さの前に圧倒されてしまった苦い思い出がある。

 大先輩のお話は補聴器の善し悪し、前立腺系の病気の情報交換等と相場が決まっている。早実の優勝を機に、少し若返りを図ってみたい気もする。来たれ!!若き早稲田マン(ウーマン)よ。

 最後に訂正。松山商業のエース井上明さん(明治→朝日新聞)は元気でご活躍、とのことだった。深くお詫びして訂正したい。

 勝手に命を奪って弁解の余地もないが、いつだったか西川清人さんの法要があり、その折二度ほど、実兄の直人さんが "仏様" にされた事例もある。お坊様も読経の誤り。いわんや不良中年をや、だ。


2006/08/19

身を粉にして実を粉に - 「島原純情かぼちゃ」が完成 -

 腕が、腰が、指先まで痛い。やはり寄る年波には勝てないのか、といささか侘しい気もするが、ある種 "達成感" にもひたっている。

 春先の植え付けから始まって五カ月目、ついにカボチャの「粉製品」が完成した。まさに身を粉(こ)にして実を粉(こな)にした "労作" だ。

 名づけて「島原純情かぼちゃ」。その意図するところは「あなた(全国の消費者)の美味しいと、島原地域の発展を願う、 "純" 粋な "情" 熱から生まれた自然食品」だ。

 ここに至るまでには色んなことがあった。喜怒哀楽…様々な思いがないまぜになってキーボードを叩いている。たかがカボチャ、されどカボチャ。手伝ってくれた社員のみんなアリガトウ。

 当社の入っているNTTビルはセキュリティの関係上、閉鎖構造になっているが、一時期は廊下から会議室までカボチャに占領されていた(まだ一部残っているが…)。

 その数、約一千五百。一個一個の皮を剥き、中のタネ類を取り除く作業はハタ目で見るほど楽ではない。加えて天日干し。

 NTTの許可を得て、屋上のスペースを貸してもらったが、真夏の炎天下とはいえ、水分の多いカボチャはなかなか乾燥しない。一週間が経ってもまだ生乾きの状態だ。

 思いあぐねていたら、以前ソーメンを製造していた経験がある某社員が「ソーメンのフシを乾かす要領でやったらどうでしょう」。有家の業者さんや深江町の製粉屋さんの協力を得て、ついに製品化まで漕ぎ着けたのである。

 七月末の日経新聞(土曜版)の『医食同源』というコラムに、かぼちゃの効能が説かれていた。筆者は東京・新宿医院院長の新居裕久氏。

 かぼちゃはカロテン(ビタミンA)豊富な典型的緑黄色野菜。カロテンには、がん、動脈硬化、老化など促す活性酸素を消去する働きがある。

 当社が作った西洋かぼちゃの一種のエビスカボチャで、日本かぼちゃに比べてカロテンの含有量は約五・五倍。ちなみにビタミンEは約二・五倍、ビタミンCは約三倍。

 シミやシワ、皮膚がんの原因ともなる紫外線は活性酸素の一つ。かぼちゃは、カロテンとともにビタミンE、Cも多く含む素晴らしい活性酸素消去食品といえよう。

 お医者さんにここまで "お墨付き" をいただけばもう迷いは不要。インターネットで調べたら、北海道の食品会社が50g五百二十五円で販売していた。

 時あたかも島原市は「健康半島構想」の行政特区。お菓子、アイスクリーム、食材…。官民一体となった新たな "名産" の誕生に期待を膨らませている。


2006/08/18

縁とは異なものだ - 早く花を咲かせて香蓮ちゃん -

 NHK巡回ラジオ体操がお盆中日の14日早朝、復興アリーナ裏の多目的広場であり、二千五百人を超える参加者で賑った。

 筆者もごくたまに早起きして、島原城のラジオ体操会に参加するのだが、やはりスケールが違った。背後に有明海、正面に平成新山を臨むサッカー場には生気がみなぎり、実に気持ちが良かった。

 思えば、今を去ること六年半ほど前、同一会場でモトクロスの全国大会を大雨の中で開催した。当時はまだ石ころだらけで、まずはそれらを拾うことから会場造りが始まった。

 それが今や芝目3cmもあろうかという、ふかふかの極上ピッチである。一際目立つ "赤シャツ姿" でやって来た吉岡市長も「皆さんもコートの中に立つ機会は少ないでしょうから、その意味でも良かった」と満足げ。

 文藝春秋8月号にサニーサイドアップ社長の次原悦子さんが『私だけが知る中田英寿の孤独』と題して寄稿している。そう、先ごろサッカー日本代表を退いた、あの「ヒデ」(同社所属)の話だ。

 次原さんとは数年前、小浜の宅島壽雄さん(宅島建設社長)のご自宅で会った。たまたま何かの週刊誌を読んで名前だけは知っていた。美人だったので、肩を組んで写真も撮った。

 実際に話をしてみると、随所に「なるほど!!」と唸らせる鋭い感覚の持ち主だった。サニーサイドアップとは英語で「目玉焼き」のことだが、今では水泳の金メダリスト、北島康介やテニスの杉山愛などが名を連ねる。まさに「目を見張らせる」らつ腕ぶりだ。

 次原さんが最初にプリデュースしたのはトライアスロンの宮塚英也選手だった。記憶に間違いがなければ、宮塚選手は確か北有馬町出身で、島原新聞でも幾度か取り上げたことがある。縁とは異なものだ。

 さて、お盆も過ぎた。子どもの頃、亡くなった祖母が良く五木の子守唄を歌っていた。<おどま盆ぎり盆ぎり、盆から先きゃ、おらんどー。盆が早よ来ぅーりゃ、早よ戻る>。

 何となく物悲しい歌詞とメロディーに涙ぐんでいたことを覚えている。長じて学生時代は東京にいてFMラジオで聴いた「島原の子守唄」にも泣けた。

 小林旭が例の甲高い声で歌っていたが、孤独な都会生活で荒んでいた心をやさしく包んでくれた。改めて名曲だと思った。

 その作者、宮崎康平先生のお孫さんである、宮崎香蓮ちゃん(島一中一年)が第11回全日本国民的美少女コンテストで演技部門賞に耀いた。

 「花あれば花あるごとく、花なくば花なきごとく、土よ生き抜け」。早く立派な大輪の花を咲かせて下さい。花なきおじさんの切なる願いです。


2006/08/13

ボクサー人生色々 - "真っ白な灰" になること -

 砂守勝巳は一九五一年、沖縄に生まれた。父はフィリピン人、母は奄美大島の出身。

 十五歳で母を亡くした砂守は、幼い頃フィリピンに帰国した父と逢いたい一心でボクシングの道を志す。有名になれば、父の方から名乗り出てくるに違いない、と考えたからだ。

 大阪に出て働きながらジムに所属。チャンピオンを夢見て練習に励んだが、結果は4回戦ボーイどまり。その後、職を転々としながら写真の世界へと入っていった。

 島原へは「ぎょうせい」(出版社)の委託を受け、噴火災害の最中に訪れた。茫漠たる土石流の原野に佇み「カシャッ」「カシャッ」と寡黙にシャッターを切った。

 そのうち写真の才能に加え、類いまれなる文章力が認められ『沖縄シャウト』(講談社)が出版された。一九九六年、写真集『漂う島とまる水』で第15回土門拳賞を受賞。

 一昨年、久々に島原の地に立った砂守氏。災害復興の軌跡をたどる「プレジデント社」の企画で訪れたのだが、その表情は見違えるほど明るかった。聞けば、パンチドランカーの症状が治ったのだ、という。

 久々に旧交を温めるべく、その夜は一緒に痛飲した。翌朝、彼は「米国で亡くなった息子さんの墓にお参りしたい」と長崎新聞社の松平和夫社長夫妻に会いに行った。

 現在、那覇在住。撮影のかたわら、地元紙の「沖縄新報」に定期的にコラムを書いている。

   ※    ※

 小泉首相が野党々首の執拗な追及に対し「人生色々…」とかわしたことはまだ記憶に新しいが、その発言の無責任ぶりはさておくとしても、ボクサーの生き方も色々である。

 むかし「東洋タイトルマッチ」とか言う番組があって、ラウンド終了ごとに「郡司さんの採点」というコーナーあった。ボクシングの世界は良く知らないが、亀田三兄弟はどう見ても "作られた偶像" のような気がする。

 "あしたのジョー" こと矢吹丈は "真っ白に燃え尽きて" 去って行った。漫画の主人公と現実の世界王者を比較することの無意味さは重々承知はしているが、今回の判定には何かしら "白けきった" 感想しか持てない。

 年齢の壁を乗り越えて三度目の世界チャンピオンに返り咲いた輪島功一。貧困の極から這い上がりながらもユーモアのセンスでは他の追随を寄せ付けないガッツ石松。そして写真の世界でチャンピオンになった砂守勝巳…。

 他にも素晴らしいボクサーは沢山いるだろうが、筆者の極めて貧困なボクシングの知識からしても、亀田父子の言動からは "人間としての魅力" は伝わってこないのである。


2006/08/12

ボクサー人生色々 - 魅力感じない亀田選手 -

 受験の頃、新宿区西落合の親戚の家の二階に間借りしていた。近くにホンダの創業者、本田宗一郎さんや、国民的大歌手、三波春夫さんのお屋敷があった。
 
 隣室には津田塾と武蔵女の学生が住んでいた。一つ屋根の下…。今考えると、夢のような "住環境" だったが、当時そんな心のゆとりはなかった。

 最寄の西武池袋線東長崎駅までは徒歩で十数分。途中にガッツ石松が居るというマンションがあった。すでに世界チャンピオンになっていたかどうか覚えていないが、十人余りのチンピラを一瞬のうちに殴り飛ばしたという "武勇伝" は耳にしていた。

 いつもの悪いクセで前置きが長くなってしまったが、最近「ボクシング」と言えば、やはり "疑惑の判定" でWBAの世界王者となった亀田興毅だろう。試合そのものを否定はしない。しかし、多くの人々が指摘しているように、釈然としないのも事実である。

 「浪速乃闘犬」。大いに結構。好きにやってくれ、という感じだが、TBSの "経営戦略" のもと、親子そろって必要以上の "ふてぶてしさ" を装っているのではないか。大阪人特有のユーモアがないのもおもろーないわい。

 漫画家のやくみつる氏やスポーツ評論家の二宮清純氏の批判ももっともだと思うが、世界戦以前に、当のTBSの番組『サンデーモーニング』の中で、ジャーナリストの江川紹子さんが「試合相手(国)に対する言動に品位がない」と切り捨てていた。さすが紹子ちゃん!!

 もともとボクシングと貧困とは背中合わせで、拳一つでのし上がって行くところに人生の妙味があった。西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』とともに全共闘世代の感涙を呼んだ『明日のジョー』がその典型だろう。

  名作『敗れざる者たち』での中で、ノンフィクション作家、沢木耕太郎氏はチャンピオンになれなかったカシアス内藤(世界ミドル級一位)を取り上げている。 しかし、今回の判定に対する同氏のコメントは聞こえてこない。取材対象としての魅力に欠けるのか、それとも古巣(TBS調査部)への遠慮か。

 筆者もそのTBSの報道部でバイトをしていた。ある時、エレベーターの中で輪島功一氏と出会った。昼の日中にもかかわらずニヤニヤして酔っ払っているようだった。後にして思えば "パンチドランカー" 特有の症状だった。

  災害当時、砂守勝己というプロカメラマンがやってきた。視線は宙に浮きシャッターを押す手も心もとなかったが、雑誌に載った作品は他とは一線を画してい た。聞けば、この人もパンチドランカー。「サベロン砂守」というリングネームを持っていた元4回戦ボーイだった。

- つづく -


2006/08/08

甲子園の思い出いろいろ - 昔懐かしい8ミリ映像を再生 -

 第88回全国高校野球選手権大会が六日、開幕した。すでにご覧になっている読者も多いと思うが、春の選抜大会の覇者、横浜高校は早くも一回戦で敗退。本県代表の清峰高校(佐々町)は春の決勝戦とは正反対の展開で光南(福島代表)を一蹴した。

 高校野球とは不思議なもので、小さいときは年の離れた「お兄さん」が活躍する舞台だったものが、いつしか「同世代」、果ては「孫子」の世界へと流れてしまう。時の流れはある意味 "残酷" でもある。

 筆者は50歳だが、少し年上の甲子園のヒーローは何と言っても青森・三沢高校の太田幸司投手(後に近鉄入り)だった。愛媛・松山商業との決勝戦は、延長18回0対0の引き分け後の再試合(2対4)で涙をのんだが、白系ロシアの血が入った端正なマスクが印象的だった。

 一方、優勝投手となった井上明選手は、いかにも古豪で鍛え抜かれたソツのない軟投型のピッチャーだった。確か明治(六大学)に進んで、卒業後は朝日新聞の運動部で活躍されていたが、もう亡くなってしまったのではないか?

 同級生では何と言っても作新の江川卓(後に法政、巨人、現在日テレの解説者)。高卒でプロ入り(指名は確か阪急)していれば、二百勝、ひょっとしたら三百勝はしていたかも知れない。それにしても江川がいたころの法政は広商出の佃ら名選手もいて、やけに強かった。

 若いころ徳島にいたから、徳島・池田高校は忘れられない。蔦文也監督率いる「さわやかイレブン」こと「やまびこ打線」は痛快だった。点が入るたびにアルプススタンドは "阿波踊り" の乱舞ショー。

 20年ほど前、縁があって島原の地へ赴いた当座、筆者は「野球の蔦」「サッカーの小嶺」この二大巨頭の紙上座談会ができないものか、と真剣に考えていた。残念ながら、蔦さんが鬼籍に入られたために実現できないままに終わってしまったが…。

 ところで、カボチャテレビでは昔の8ミリフィルムの再生に取り組んでいる。島原新聞やオリコミの番組表などで協力を呼びかけたところ、ここにきて楽しい作品が続々と集まってきている。

 明日9日から「しまばらNOW」の中で、ダイジェスト告知版を流すことにしているが、乞うご期待だ。島商サッカー部の全国制覇パレードや島三小百周年記念行事、三会地区運動会、杉谷地区健全育成会、島原甲子園大会など、懐かしい映像が盛り沢山。

 担当者は「まだまだ沢山の秘蔵フィルムが残っているはず」と推測。改めて協力を呼びかけている。電話63-3456。放送に使わせていただいたら、DVD再生料はタダ!!


2006/08/02

我々の商品は "感動" - 中退社員みごとに立ち直る -

 勤務半年、昨年10月、弊社を中途退職した元社員のA君からお手紙をいただいた。

 A君は福岡市の出身だったが、「田舎で地域情報化関係の仕事がしたい」と当社を志望した。学校の成績は優秀でほとんどが「優」。主任教授も自信をもって弊社に送り込んだ。

 学生時代から付き合っていた美人でスタイル抜群の彼女(福祉機関勤務)と二カ月後に電撃結婚。順風満帆に想えたサラリーマン人生のスタートだった。

 ところが "魔物" が潜んでいた。交通事故 - 。信号待ちで停車している三台の車と追突事故を起こしてしまった。朝早くから夜遅くまで働く "頑張り屋" であるが故の悲劇だった。

 重傷事故ではなかったが、一部被害者の執拗な電話攻勢に、真面目で実直なA君は次第に追い込まれていった。日に日に体重は落ち、頭髪には白いものまで出始めていた。

 欠勤も目立つようになった。筆者も心配になってアパートを訪れたが、固く閉ざされたドアと揺らめくカーテンの内部に新婚生活を偲ばせる雰囲気はなかった。10月末、A君は自己都合による退職願を出してきた。

 それから半年余の時が流れた。筆者も幾度か激励の手紙を出したり、また父上が弊社に立ち寄ったりしてくれていたが、芳しい状況報告は聞こえてこなかった。

 ところが、本日(8月1日)、待ちに待った嬉しい便りが届いた、のである。文面にはこう記してあった(要約) - 。

   ※    ※ 

 「入社して、わずか半年で退職という形になり、多くの方々にご迷惑をお掛けし、大変申し訳ありませんでした」

 私事ですが、いくつかの基本情報技術関連の資格取得のための勉強を3カ月ほど前より始めました」

 また、妻の妊娠も分かり、11月に出産をひかえている状況です。日に日に父親になるという実感が強くなり、喜びとともに、生まれてくる子供に自信を持って『自分が父親だ』と言える人間になりたい、と思っています」

 島原のことを右も左も分からぬ未熟な私に皆様が与えてくださった優しさは私の強い支えになりました。このような厳しさの中に温かさを感じられるような会社にはもう出会えないだろう、と思っています。本当にありがとうございました」

   ※    ※

 社内はいま出産ブームだ。朝礼でA君のことを話したら涙ぐむ社員までいた。一方で社員の家族に不幸もあった。勝利の数だけ敗北がある。また生の数だけ死がある。我々の商品はその間に位置する "感動" だと改めて思った。


2006/08/01

「炭」の活用を図ろう!! - まずは白土湖の浄化から -

 7月30日の日曜日夕方6時半から、TBS系(NBCなど)で面白い番組をやっていた。『夢の扉』という番組名で、ナレーションは女優の宮沢りえさんが担当している。

 この日のテーマは「ヘドロの湖浄化大作戦」。ウナギの養殖で有名な静岡県の浜名湖に隣接する「猪鼻湖」(いのはなこ)で進められている水質浄化活動を取り上げたもの。

 主役は「炭博士」として知られる群馬高専物質工学科教授の小島昭さん。インターネットで調べたら、同教授はすでに各方面で活躍中の斯界の "権威" だった。

 脱臭効果や湿気取りなど「炭の効用」については、比較的知れわたっているところだが、この番組に接して改めて認識を新たにした。なぜか?

 昨秋、弊社は映画「ディープ・インパクト」のモデルにもなった彗星探索家、木内鶴彦さん(長野県在住)の講演会を主催。その中で木内さんが強調していたことを思い出したからだ。

 「純度の高い炭素を取り出せば、ナノチューブやカーボンファイバとしての利用が可能となり、理論上、永久電池(超伝導状態)を作ることもできるようになる」(島原新聞平成18年1月17日掲載)。

 小島教授は「炭素繊維」そのものが持つ "吸着力" に着目。番組では、漁業者やミカン農家など地域住民の協力も得ながら、約1カ月間にわたる "実験" の経過を見守っていた。

 成果は上々だった。スペースシャトルや航空機、新幹線の車体など「炭の効用」はすでに実用化されていることもあって、小島教授は余裕の表情。自信あふれる口調で「この水環境整備技術を2010年までに世界に広めたい」と語っていた。

 さて、島原市。弊社本社のある白土町には、一日4万トンの湧出量を誇る「白土湖」が控えている。鯉の泳ぐまちや、浜の川湧水などと並ぶ「水都しまばら」のシンボルの一つだ。

 かつて旧制中学時代、島中水泳部員は湖底で折り重なった無数の墓石や蝋しぼり器を眺めながら泳いでいた、という。それらはいずれも二百年前の「島原大変」がもたらしたものだが、それくらい「白土湖の水は清澄だった」ということの証だ。

 近年は生活スタイルの変化もあって、同湖も以前ほどの透明度からはほど遠い状況。大がかりな「浚渫工事」や「草魚の投入」などの対策も行われたが、率直に言って、効果のほどはいま一つ。

 また、他の河川などとも並行してEM菌ダンゴによる浄化作戦も鋭意進められているようだが、「炭」を使った作戦にも取り組まれてはいかがか、と思う。

 うまくいけば、諫干問題の有明海でも使える!!