2007/06/30

王子は〃救世主〃の総称 - 各々の時代にいた各界の王子 -

 ハンカチやハニカミ、はてはハナカミ(?)など様々な「王子」が登場しているようだが、少し前、H氏賞詩人の荒川洋治さんが「王子」について、ラジオで面白い話をしていた。

 荒川さんによれば、「王子」とはその業界に現れた「救世主」の総称のこと。例えば、我が国小説界で最初に登場した「王子」は坪内逍遥だという。

 その代表的評論「小説真髄」は、小説の地位をそれまでの「戯作の世界」から「芸術の世界」まで一挙に引き上げたもの、と高く評価している。つまりは、鷗外や漱石も、逍遥という「小説界の王子」の後に生まれた天才だと。

 次なる「王子」は三島由紀夫。10代で文壇デビューを果たした三島は次々と大作を発表。最期の自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺はショッキングではあったが、その存在は「小説界の中興の祖」であった、と。

 最近における「小説界の王子」は村上春樹。その本質は洗練され尽くした文脈にあるが、「ひょっとしたら自分にも小説が書けるかも知れない…」と一般読者に期待を抱かせた功績は大きい、とした。

 続いて、詩・短歌の世界に移って、一番初めに名前が出てきた「王子」が石川啄木。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」(一握の砂)。

 次なる「中興の祖」となった「王子」は昭和30年代の寺山修司。「天上桟敷」という劇団を率いる一方で、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだ。

 『サラダ記念日』の俵万智(昭和60年代)は「王子」ならぬ「王女」だが、一大ブームを巻き起こしたことは記憶に新しい。

 荒川さんの説明そのものが面白かったので、車を運転しながらフムフムと聞いていたが、確かにいつの時代も「王子(女)」と言うか、停滞した局面を打ち破る「ヒーロー(ヒローイン)」を求めているものなのかも知れない。

 そう言った意味ではホリエモンもある種「IT業界の王子」の役割を演じていたのかも知れないが、残念ながら彼の前には「北尾吉孝」という「ホワイトナイト」が現れるなどして、その野望は潰えた。

 それにしても次々と「王子」「王女」が生まれ出てくるものだ。ひょっとしたら、その業界が〃市場活性化〃を目指して、意図的に送り出しているものなのかも知れない。

 先日、ある映画番組供給会社の社員が営業にやって来た。「今なら男性では妻夫木聡、女性なら長澤昌美を当てれば、その興業は絶対に当たります!!」。

 なるほど、芸能界とはそんなところか。では、政界はどうだろうか。「自民党をぶっ壊す」と登場した小泉首相は、確かに一時期は「ヒーロー」だった。

 果たして今の内閣は?追及する側の野党は?いずれも〃悪役顔〃にしか見えないのは拙者の僻目だろうか?


2007/06/29

言葉の乱れに憤り!! - 間がなくなった子供達の礼 -

 ラニャーニャ現象とやらで、今年の梅雨期は雨も少なく、アジサイの花もどこか生彩に欠けて見える。

 私事だが、会社の猫の額ほどの畑に花を植えている。マリーゴールド、日々草、ポーチュラカなど。赤や黄、橙、紫など色とりどりの花びらが鮮やかだ。

 何年か前まで、花に目を向ける趣味はまったくなかった。当然、名前も知らなかったし、水をかけてあげようなどという殊勝な気持ちは、露ほども持ち合わせていなかった。

 年をとった証拠だろうか…。最近はこれまで気にも留めなかった事柄に俄然興味が湧いてきたり、若者の振る舞いに無性に腹が立つようになってきた。

 こうした思いは太古の昔からあったようで、エジプトの洞窟にも「どうも近頃の若い連中は…」といった年配者の嘆きが綴られている、という。

 言葉遣いも気になる。テレビ等で漏れ聞く「何気に…」という表現がどうにもシャクにさわる。本来は「何げなく見過ごしていた」などといった用法のはずなのに、昨今は「何気に○○した」などと平気で使われているのだ。

 「全然」も一緒だ。本来であれば、否定語に繋がるべきところを、「全然美味しい」「全然綺麗だ」などと、肯定的な意味の強調語になっている。

 諺、格言の類いについても、まったく逆の意味で使われている例がある。よく言われるのが「情けは人の為ならず」-。

 本来的には「人に情けをかけておけばめぐりめぐって自分の為になる」という意味だが、「情けはその人の為にならない」という〃誤認識〃が堂々とまかり通っているのである。

 拙者は極端な「平和主義者」ではないし、勿論「軍国主義者」でもない。だが、「気をつけ」「礼」がきちんとできない人間は、正直言って嫌いだ。

 昔と言うより、少し前の教育を受けた人間なら、「気をつけ」「礼」の合間に若干の「間」(ま)があることをご存知だろう。

 ところが、最近の子供たちのそれは違う。「気をつけ礼」と〃一括り〃にされているのである。嘘でも誇張でもない、実際にそうなのだ。

 「間」は観阿弥、世阿弥の時代から、とっても大切にされてきた日本的美風の一つである。その意味でいけば「気をつけ礼」は〃間抜け〃そのものだ。

 誰が言ったかもう忘れてしまったが、「米大統領ブッシュはテキサスの油を飲んで大きくなった」と。とすれば、「島原の人間は島原の綺麗な湧水を飲んで大きくなっている」のである。

 数日前、弊社の目の前を流れる音無川に清掃工事が入り、見違えるほどに綺麗になった。気になるのは源流の白土湖。傍目にみる湖面の色は、モノレールから見下ろす東京湾の海面とさして変わりはない。

 こちらの対策には余り「間」を置いてほしくない。


2007/06/28

勘違いアラカルト - 面白いと思えば、面白い!! -

 「面白き こともなき世ば 面白く 住みなすものは 心なりけり」と詠んだのは、確か幕末の志士、高杉晋作だった。

 ネタ詰まりの今日は「勘違い特集」を送る。高杉先生の教えのごとく、「世の中は、面白いと思えば、面白いもの」なのですよ。

 【その1】普賢岳災害の頃、西日本新聞支局に分厚い牛乳ビンの底のようなメガネをかけた新人記者がやって来た。仮にその名をN君としよう。

 N君は京都大学を卒業したエリート記者の卵だったが、決して偉ぶったところがなく、記者クラブ仲間の〃アイドル的存在〃でもあった。

 ある年の暮れ、海望荘で忘年会をしよう、ということになって30人近くが集まった。一通り宴も終盤にさしかかった頃、N君は自席に戻り、刺身皿を前に何やらゴソゴソ。

 その箸の先には、ワサビをたっぷりと付けた白身魚のようなものに、ワカメが几帳面に巻き付けてあった。しきりと口を動かすN君。と、その表情が次第に硬直化していった。

 それもそのはず。N君が「ヒラメ」と思い込んで食していたのは、中敷のウレタンマットの切れ端だったのである。

 【その2】似たような経験が拙者にもある。先月、CATV業界の会議で出かけた佐賀県伊万里市でのこと。懇親会の食卓には地元でとれた海の幸、山の幸が所狭しと並んでいた。

 ミニスカートのコンパニオンから勧められるままにビールをあおっていたのだが、そのうちに小腹が空いて、鉢盛りの〃白い物体〃に箸を伸ばした。

 伊万里と言えば、呼子が近い。呼子と言えば、イカ。拙者はN君よろしく、ワサビに刺身醤油をたっぷり垂らして口に運んだ。瞬間「違う」と感じた。大根の薄造りであった。

 【その3】昨夜聞いた、島原郵便局長の小谷学さんの話も面白かった。小谷さんは明るい性格で、誰彼となく声を掛けることをモットーとしている。

 車で市内を巡回する時も、郵便配達のバイクを見かけたら「事故するなよ」「配達先を間違えるなよ」などと手を振って職員の注意を促す。

 最近は中元シーズンを控えて、「ゆうパック」のワゴン型車両がよく走っている。ある時、赤い車体を見かけたので、親しみを込めて激励したら、ナントその車の主はコカ・コーラだった、と。

   ※    ※  
 
 この手の話は罪がなくて良い。と言うより大好きだ。まず「責任(感)」が存在しない。突っ込まれたら「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私のせいなのよ」ですべて片付く。

 「勘違い」ついでにもう一つ。最近は釣銭をくれる時に、可愛らしい女の子(店員さん)が両手で包み込むようにしてくれる。あれって商売だろうーな、やっぱり…。


2007/06/27

濡れ手に粟の逆を行く - 銚子電鉄を支えた情熱とIT -

 緊急の用件が生じて福岡に行かねばならなくなった(25日夕)。生憎、船便の都合も悪かったので、仕方なく愛車を駆った。

 久しぶりに走った。諫早ICから鳥栖JCまで〃他車に抜かれる〃こと皆無。妙な所で〃記者魂〃を発揮する格好に。

 恥ずかしながら、極度の方向音痴である。ただ最近は「カーナビ」という新手の機器が登場したお陰で、迷うことなく目的地に到達できるようになった。

 帰路も高速をガンガンすっ飛ばして来た。何とか今日の紙面に間に合うかも知れないと、いま必死でパソコンに向かっている。はて、何を書こうか?

 そう言えば、今朝のNHKニュースで、地方公共交通機関の奮闘ぶりを放映していた。紹介されていたのは、滋賀県米原市の乗り合いタクシーと三重県四日市市の乗り合いバス。

 ご多分にもれず、両市にある会社とも、マイカーの普及や急激な過疎化&高齢化の波に押されて、厳しい経営状況だという。

 そうした中で選択された手法は「利用者本位」の発想。徹底的にムダを省き、「利用する側の視点」から生まれたのが「乗り合い方式」だった。

 ちょっと待てよ!!その方法は前に聞いたことがあるぞ。そうだ!!何カ月か前に訪れた「葉っぱビジネスの山村」(徳島県上勝町・人口二千人)ですでに実践されていたではないか。

 現在、好景気が実感できるのは東京と、トヨタのお膝元の愛知県くらいだと言われている。とすれば、その他の地方都市はいずれも同じような悩みを抱えているはずだ。

 社会構造の変化は避けようもない〃現実〃だ。ならば、それに見合った、生き抜いていくための〃知恵〃が求められるわけだ。なるほど、そうか…。

 てなことを考えながら運転してきたのだが、頑張っている地方公共交通機関の代表格は、何と言っても千葉県の「銚子電鉄」だろう。

 先日もフジテレビの番組で特集を組んでいたが、総延長6.5キロ、従業員25名の、この小さな会社の経営難を救ったのはナント「ぬれ煎餅」と「IT」だった。

 何より感動したのは会社と地域の〃一体感〃。そこにベースがあって「ぬれ煎餅」というアイデアが生まれ、「IT」がそれを全国に運んだ。

 つい最近まで、同社は車両の整備費(250万円)も払えないくらい、経営危機に瀕していた。その状況を打破したのがインターネット上のホームページだったのだ。

 再建の中心人物がしみじみと語っていた。「存続の危機を訴えたホームページに、全国から煎餅の注文が殺到しました。デジタル(IT)の向こう側にアナログな人々の温かみをしっかりと感じました」。

 「濡れ手に粟」の逆を行く地道な努力に拍手。シマテツも頑張れ!!


2007/06/26

資生堂・永嶋さんが講演 - 海外勤務支えた日本人の矜持 -

 「資生堂」と言えば、日本を代表する老舗の化粧品メーカーで、圧倒的なシェアを誇っている。例えて言うなら、広告業界の「電通」のような存在だ。

 その〃巨人〃との付き合いが60有余年にも及んでいる会社が島原市にある。中堀町(一番街商店街)の(株)ミネ。代表取締役はご存知、峯潔さんだ。

 その峯さんからお誘いを受け、23日午後に南風楼で開かれた、とある講演会に出席させて頂いた。会場を埋めた聴衆の99%は女性。些か息苦しい感じもしないではなかったが、中身の濃さは圧巻だった。

 実は、資生堂関係の講演会に呼ばれたのは、こんどが2回目。前回はもう10年以上にもなろうか、桐島洋子さん(作家)がやって来て、情熱溢れる恋愛体験や、「気」(気功)に関するお話を伺った。

 今回の講師は、福岡県出身で、女性として2人目の資生堂取締役にも選ばれた実績を併せ持つ永嶋久子さん(68)。現在は生徒数約500名の同社美容技術専門学校長を務めるかたわら、東京都中央区の教育委員などを歴任している。

 すでに何冊も著作のある永嶋さんだが、当日は3年前に西日本新聞社から出版した『肌にふれて 心にふれて』と同じ演目で熱弁をふるった。

 経歴を見ると、生まれはかつて筑豊炭鉱で栄えた嘉穂郡碓井町。地元の高校を卒業後、親戚が経営する福岡市内の料亭で働いたのち、資生堂の福岡販社に就職(昭和31)。

 6年後、第1回海外派遣美容部員に抜擢され香港へ。以来、27年間にわたって世界34カ国を駆け巡って現地法人の立ち上げなどに尽力する。

 著作にも取り上げられているが、香港、バンコク、ハワイ、ニューヨーク…と続いた海外勤務の中で永嶋さんが終始持ち続けたものは、日本人としての矜持(プライド)と、女性美への飽くなき探究心。

 極東の敗戦国、人種差別というハンディキャップにもめげず、派遣先の国情や国民性に理解を示す一方で、一心不乱に仕事に励んできた体験談にしばし聞き惚れた。感想を述べると、語学留学などという昨今の薄っぺらな「国際性」とはまったく異質なものだ。

 紙上で再現するには余りに多岐にわたる内容で無理があるので、興味を持たれる読者の方には、是非同書をお求めいただきたい。1冊1,600円(税込)。

 ところで、講演そのものより、聴いていて面白かったのは、主催者代表の峯社長のご挨拶。創業135年の歴史を誇る資生堂の成り立ちから、社是五訓まで、一つの企業が社会の荒波を超えて存続していく要諦を衝いたお話には、学ぶところ大であった。

 「綺麗なお姉さん」と遠目に憧れているガラスのカウンターの向こうで、生き残りをかけた壮絶なドラマが展開されていようとは…。今週は男女共同参画週間でもある。

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2007/06/24

しかして博士の実像は!? - エクアドルに「野口英世通り」 -

 アジアで初めてという「火山都市国際会議」(第5回)まであと5カ月を切った。関係者にとってはこれからが〃追い込み態勢〃といったところだろう。

 ところで、吉岡市長をはじめ関係者が〃島原誘致〃を取り付けてきた前回開催地の南米エクアドルに、あの野口英世博士の〃足跡〃があることを、毎日新聞を読んで知った。

 もう2カ月ほど前の土曜日版に掲載されていたものだが、いつか書こう、書こうと思ってはいたが、生来の〃怠け癖〃から、ついつい今日まで延び延びになってしまった。

 記事は『あの人に会う』(日本近代史を訪ねて)というタイトルで、博士にゆかりの深い福島県会津若松市の喫茶店「会津一番館」と資料館「野口英世青春館」を紹介している。

 それによると、元々その場所は博士が若い頃に医学修行をした「会陽病院」の跡地。東京生まれの照島敏明さんという人が20年近い歳月をかけて再生・整備を図った、としている。

 近年は映画『遠き落日』(92年)などの影響もあって多くの観光客で溢れている、という。誠にもってめでたい話だが、拙者にとっては、博士そのものの〃破天荒〃な生き様の方がより面白い。

 野口英世と言えば、一般的には、火傷で追った身体的ハンディキャップにもめげず、勉学に励み、貧困の極みから世界に雄飛した〃立志伝〃中の人物。確か、小学生の頃の授業でも、そう教わった。

 だが、数年前に、星新一さんのエッセイ『人民は弱し官吏は強し』を読んでからは、そうした崇高なイメージは一変した。いま手元にその本がないので、曖昧な記憶に頼るしかないが、ドクターノグチはとんでもない〃自堕落〃な男だったのである。

 長年の研究成果が認められ、いよいよ明日から「米国留学」という前の晩に、横浜の遊郭で遊びふけってしまい、関係各方面から頂戴した〃餞別〃を、船賃もろとも使い果たしてしまうのである。

 この点は〃自堕落〃というより、むしろ〃豪放磊落〃と言った感じがする。しかしながら、そうした性格だったからこそ、後世に名を遺すような研究成果をあげられたのだろう。

 エクアドルがどういった国か、首都のキトがどういった都市かまったく知りもしないが、会津若松と同様に、彼の地にも「ドクターノグチストリート」(野口博士通り)が2つもあると聞いて、改めてその〃偉大さ〃が分かる。

 話は変わるが、参議院選の投票日が1週間延びた。その影響がどうなるのか分からないが、島田紳助から「エクアドルのバナナ売り」と揶揄されている丸山和也弁護士が自民党から出馬する、という。

 調べてみたら、エクアドルはインド、ブラジル、中国に次ぐ世界第4位のバナナ生産国だった。勉強になった。

人民は弱し 官吏は強し
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2007/06/23

〃不都合な真実〃次々と - 構図的には「羊頭狗肉」だが… -

 北海道苫小牧市の食肉加工業「ミートホープ」の〃牛肉偽装〃事件の報道に触れた時、すぐに「羊頭狗肉」(ようとうくにく)という言葉が思い浮かんだ。 

 学研の『故事ことわざ辞典』によれば、「狗肉」は犬の肉。「羊頭を懸けて狗肉を売る」の略で、羊の頭を店先につるし、羊の肉を売ると見せかけて、実は犬の肉を売ること」とある。

 類句に「看板に偽りあり」。英語の諺では、「ワインだと叫んで酢を売る」という使い方をするそうだ。

 今回は「牛肉」との表示で「豚肉」を売っていたわけだから、「牛頭豚肉」とでも呼ぶべきだろうが、一部テレビ報道によると、ウサギの肉も混じっていたというから、いやはや何とも形容し難い構図だ。

 事件発覚直後の報道では、生協で発売されていた冷凍の「牛肉コロッケ」が問題の商品だった。曰く「牛肉に見せかけるため、豚肉に血を混ぜて赤みを付けていた」云々。

 生協と言えば、無農薬、低農薬の野菜に代表されるように〃食の安全性〃が最大の売りだったはずなのに、MH社はその金看板にも大きく泥をぬったことにもなる。

 拙者がまず気になったのは、コロッケが「北海道加ト吉」社の製品だったこと。その後の調べで、問題のミンチ肉の搬出先は、全16社で総量は140トンにも及ぶことが判明したが、個人的には「加ト吉」に引っかかった。

 同社は香川県観音寺市に本社を置く冷凍食品の中堅メーカーの一つだが、つい最近、不適切な経理処理問題が顕在化したばかりで、「またか!?」とガッカリしていたところだった。

 というのも、旅行会社勤務時代に、四国の市議会議長会主催の「欧州視察ツアー」を受注し、その参加メンバーの一人に加ト吉関係者(仮にKさん)がいて、随分と可愛がっていただいていたからだ。

 パリの日本料理でのこと。件のKさんは夕食に出された天ぷらをしげしげと見つめながら、エビの尻尾をつまみ上げた。「ここに白い線が2本入っとるやろ。養殖の証拠や」。

 その時以来というか、いまだに〃真偽〃のほどは分からないのだが、「さすがはプロ!!お見立てが違いますな」と、一生懸命ヨイショしたことを憶えている。

 だが、そのKさんは洋食のマナーについては全くわきまえていなかったようで、ワインの前にミルクを所望するなどして、彼の地のソムリエをびっくりさせていた。

 本題に戻る。今の世の中は〃不正〃というか、当事者にとって〃不都合な真実〃が次々と暴かれていっているようだ。

 「不二家」の不祥事はまだ記憶に新しいが、先般、上京の折に訪ねた数寄屋橋店は客で溢れており、思わず「ペコちゃん」の頭を撫ぜてしまった。

 皆さん、公私にわたって〃不都合な真実〃はありませんか?


2007/06/22

「環境」が最大のテーマ - 地域メディアの可能性と責任 [3] -

 【田原】私は月に一度、故郷の滋賀県に足を運んで「琵琶湖塾」というシンポジウムを開いています。毎回、五百人くらいが参加しますが、地元のテレビ局はまったく放送しません。この状況はCATVにとってはチャンスなのに…。地域はそこのメディアの頑張り次第で変わります。

 【田原】何だか、私一人がしゃかりきに喋っているようですが、「介護」の問題で言うと、65歳以上を「高齢者」として同列に括るのは良くない。頭が元気なうちは目いっぱい働かせること。死ぬまで働いてもらうんですよ。(笑い)

 【ばば】そう言えば、我々が東京12チャンネルにいた頃は、視聴率が取れずに、ビデオリサーチ等の調査ではいつも「※印」でしたね(笑い)。ところが、今でも視聴率表を見ると、60歳以上の欄が欠落しています。これは断然おかしいですね。

 【田原】その上の層にビジネスチャンスがあるのに。すき間はいくらでもあります。今では大企業もそれを狙っています。キヤノンの御手洗さんの凄いところは、パソコン市場7位の地位を捨てて、周辺機器の製造に特化したことです。IT産業にとっては、すき間の部分こそが、新たな需要を生み出すものです。

 【ばば】ところで、田原さん。日本のジャーナリズムの行く末をどう見ていますか。我々も相当ガタがきている年代で、筑紫哲也さんもガンになった。まあ、近々復帰されるとは思うんですが…。

 【田原】私は安部総理が祖父さん恋しさからか、「戦後体制からの脱却を!!」と、しきりに唱えているのが不思議でならない。じゃ、どこへ行こうとしているのか。まったく伝わってきませんね。

 【ばば】政治家にもジャーナリストにも、もっと五十年、百年先を見据えてほしいですよね。

 【田原】作家の村上龍が今のニッポンをこう表現しています。「何でもあるが、夢がない」と。これから大切なのは東京女子大の建学精神にもある「奉仕」と「自己犠牲」といった考え方です。ケネディも同じことを言っています。

 【ばば】個人益より会社益。それより地域益。さらには国家益、地球益といった精神構造ですね。

 【田原】今、世界にとって一番大切なのは「環境」問題です。京都議定書によれば、2012年までに欧州で8%、米国で7%、日本で6%の二酸化炭素削減を目標にしていたのに、日本だけ見ても、逆に8%も増えている。由々しき問題です。

 【ばば】これからは地域ジャーナリズムにとっても、環境問題は避けては通れませんよね。

 【田原】実業界ではトヨタもホンダも松下も、社を挙げて二酸化炭素削減に取り組んでいます。これからは、「省エネ路線」でなければ、何も商売になりませんよ。

‐おわり‐


2007/06/21

教育崩壊は地域崩壊 - 地域メディアの可能性と責任 [2] -

 田原さんと、ばばさんの対談は約1時間にわたって繰り広げられた。以下はその要旨-。

 【ばば】放送事業に係わる者はみな「公共心」を持っていなければいけない、と思う。社長だけでなく社員スタッフも。

 【田原】それはそうですね。天下りの問題で言うと、テレビ局も官庁と変わりませんね。テレビ朝日は私とも関係の深い局ですが、前の広瀬社長にも言ったんですよ。「新聞社出身の社長は貴方で最後にして下さい」と。ところが、その次の社長もまた新聞社からやって来た。(笑い)

 【ばば】インターネットの世界で言うなら、CATVの明らかな敵は通信事業者ですよね。それが、今度は同じようにテレビ番組を流そうとしています。CATVの武器って一体何でしょう。「地域密着」、あるいは「地域のためになる放送局」と言い換えても良いと、私は思っています。つまり、それが「公共心」ではないか、と。

 【田原】話は飛躍するようですが、2011年は大変な年になります。関係者は薄々気づいているはずですが、対策はゼロといった状態です。端的に言うと、1チャンネルから12チャンネル全てに、コンテンツメーカーが殺到してきます。言い換えるなら、既存の放送局が受像機を独占できなくなるわけですよ。

 【ばば】そうした中で、CATVにとって大切なのは、地元の視聴者の方々から「自分たちのテレビ局だ」と思ってもらえるかどうか。それが存続のカギになってきます。

 【田原】そうした意味では、ローカル局は遊んでいますね。レコード会社が何故なくなってしまったのか。昔は作詞・作曲・歌手がいて、工場があって、宣伝システムがあれば、経営できていた。ところが、CDが登場して工場はいらなくなったし、今や音楽は配信の時代。2011年以降は、恐らくCDショップもなくなるでしょう。

 【ばば】これまで、中央と地方は固く結ばれていたが、様々な技術革新でその蜜月時代は終わりました。だからこそ、地方にとっては「自分たちの局」が余計に必要になってくるわけですよ。もっと言うなら、CATVはソフトウエアの中継業者になったらダメ。必ず時代は変わります。

 【田原】時代認識で言うと、いま国主導で「教育再生会議」なるものが生まれていますが、あれはまったく無意味。何故なら、「教育崩壊」とは「地域崩壊」に他ならないから。私が尊敬している、ある中学校の先生が言っていました。昔は新人の教師が着任すると、地域の顔役に必ず挨拶に回っていた。それが今はなくなってしまった、と。

 【ばば】団地造成が地域コミュニティを崩壊させた!?教育はつまるところ「現場の問題」「地域の問題」であるのに。しかしながら、それはイコール「国、地球の問題」でもあるわけなんですね。

‐つづく‐


2007/06/20

内田憲一郎さん逝く - 臨終の間際まで島原を心配 -

 前島原市議の内田憲一郎さんが19日早朝、来年の還暦を待たずに逝去した。享年59歳。まずもってご冥福を祈る。

 何人かいる兄貴分の一人だった。訃報に接し、まず浮かんだのが「第1回島原水まつり」のこと。当時、JCの理事長だった内田さんの呼び掛けで、灯篭作りに汗を流した。

 場所は故人が学んだ島原工業高校グラウンド下の一軒家。拙者の不器用な手つきを、笑いながら見守ってくれていたことを思い出す。

 岳父の故・尾崎大和さんと一緒になって、青少年の健全育成を目指し、ソフトボールの普及に頑張っていた姿も忘れられない。

 災害時には、その活動の様子を日本テレビが追いかけ、全国版の1時間番組で放映された。確かチームの名前は「ラビッツ」、番組名は「スーパーテレビ」ではなかったか。

 松田新也さん(お多福クリーニング社長)や古川芳郎さん(三河屋社長)、青年団&JC後輩の宮本秀利さん(宮本造園社長)らとともに「島原生き残り会」の主要メンバーだった。

 噴火災害下に〃民衆の怒り〃を発火点として呱々の声を上げた同会は、高橋三徳さん(故人・呉服の丸三社長)や森本元成さん(元島原商工会議所会頭)を軸に、青年会議所OBを中心とした〃精鋭〃が顔をそろえた。

 みんな〃手弁当〃だった。仕事を終え、会議所の小、中ホールで幾度も幾度も対策会議を開いた。閉会後は、頭に昇った〃血〃を冷ますため、自ずと会員行きつけの「スナック藍」(高島)に足が向いた。

 ある時、「こんまんまではいかん!!」と衆議一決。翌朝の第一便で上京することになった。拙者も社長の了解を取り付け、まだ明けやらぬ中を、内田さんらと長崎空港に向かった。

 内田さんは若い頃から政治好きで、中曽根派(当時)重鎮の倉成正代議士(故人・元外相)に私淑していた。その関係もあって、永田町でも顔がきいた。

 意外な一面と言ってよいのか、隠れた〃洋楽ファン〃でもあった。ある上京の折、「時間はあるか?」と聞かれたので「はい」と答えたら、六本木のピットインに連れて行ってくれた。そこにも知人がいた。

 大村の国立病院に入院される前日(13日)、電話をいただいた。呂律が回らないので心配していたが、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて思ってもみなかった。

 「オイは一回目の選挙は2・3票で落選した。そして今度は23票差やった。何かしら〃因縁〃めいたものを感じる」。拙者は「早く体調を回復して下さい」と言うしかなかった。

 「苦しむこともなく眠るように旅立ちました」と夫人の玉美さん。実弟の英顕さんは「最後まで島原を何とかせんばいかん、て言いよった」と唇を噛み締めた。


2007/06/19

田原さんの講演を聴く - 地域メディアの可能性と責任 -

 過日、全国ケーブルテレビフェア(東京)を訪ねた。会場は以前、池袋のサンシャインだったものが、数年前から晴海のビッグサイトに移っている。

 これまでの新商品開発の視察から転じて、今年はじっくりと「地域情報化」そのものについて勉強するため、田原総一朗さんと、ばばこういちさんのシンポジウムに参加した。

 田原さんは『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)等でおなじみの顔だが、ばばさんはCATV業界とは以前から繋がりの深い、辛口のコメンテーターとして知られている。

 2人は東京12チャンネル(現テレビ東京)→岩波映画→フリーランスと同じ道を歩いた〃気骨〃のジャーナリスト。年齢は田原さんが73歳、ばばさんが74歳。

 当日のタイトルは「地域メディアの可能性と責任」。まず、田原さんによる基調講演が行われたが、その中で最初に取り上げられたのが記憶に新しい『発掘!あるある大事典』(関西テレビ)の捏造事件。

 田原さんはテレビ番組の制作現場には、厳然として「差別構造」がはびこっている、と指摘。端的な事例として、下請け会社社長の報酬が、局担当者の5分の1でしかない〃現実〃を明らかにした。

 一方で、小渕内閣時代に起きた「長銀問題」を例に引き、メディアへの政治介入の〃実態〃を暴露。今年2月の部落解放同盟のオン・エア問題も絡めながら「テレビが段々と自己保身の道を辿り始めている」と警鐘を鳴らした。

 田原さんは言う。「その典型が地方の民放局だ」として、「いかに自主制作に金をかけないかだけに頭が向いている。これでは地方発の良い番組など出てくるはずがない」と切り捨てた。

 返す刀で「CATVの奮起」を促す田原さん。「明治以降、多くの発展途上国がそうであるように、中央集権の国家体制がもてはやされた。しかし、社会が成熟していくと、それでは対応できなくなる」。

 「中央集権に行き詰って、国にお金がなくなってきたから、国は地方分権を言い出している。そこが格差問題の根っこ。以前なら、ケインズ理論に従って、公共事業で景気回復を図ったところだろうが」-。

 さらに「中央集権体制の一番腐った官庁が、社会保険庁」としたうえで、IT時代の効用を説いた。「送り手と受け手の区別がない、ブログのような形態こそ双方向メディアだ」と。

 講演の結びはCATV業界へのエール。「地方局のサボリはCATVにとって最大のチャンス。中央に届くような番組を作るよう頑張っていただきたい」。

 続くシンポジウムでも辛らつな地方局批判が飛び出すが、少しだけ異を唱えさせていただきたい。「地方局も国の電波行政の方針転換によるデジタル化で苦しみながらも頑張っているんですよ」。

- つづく -


2007/06/17

世に横たわる「理不尽川」 - 平田さんガマダシましょで!! -

 この前『バッチギ』をテレビで放映していた。時代設定が拙者の高校時代と同じか、少し前くらいかだったので、ついつい引き込まれてしまった。

 ヒロインの在日朝鮮人高校生役の沢尻エリカがとっても可愛かったが、何より笑ったのは、長崎から修学旅行で京都にやって来た田舎のツッパリ高校生が吐いた捨てゼリフ。

 (京の土産物を値踏みするように)「こげんモンはつまらん。長崎のカステラん足元にも及ばんばい」。そこまでは良かったが、何かのトラブルで、朝鮮高校生の集団からコテンパンに叩きのめされてしまう。

 その映画の中で唄われていたのが「イムジン河」。昭和40年代に「フォーク・クルセダーズ」が流行らせた反戦歌だ。拙者のクラスメートもよくその歌を唄っていたので、懐かしさの余り落涙してしまった。

 《イムジン河 水清く 滔々と流る。水鳥自由に 群がり 飛び交うよ。我が祖国 南の地。想いは遥か。イムジン河 水清く滔々と流る》

 ところで、南北朝鮮を隔てているのが「イムジン河」ということだが、そうした政治的な話は抜きにして、世間には何とも形容し難い不可思議な川が横たわっている。名付けて「理不尽川」。

 そこで被害に遭った一人がガレージ食堂(今川町)のご主人、平田正剛さん。「平成4年6月23日の出来事」というから、もう15年も前の話だ。

 その日、平田さんは島原警察署から出前の注文を受けた。焼肉定食とチャン定食と…。お昼の時間帯が迫って気が急いていたこともあったが、当時は火山灰が路面を覆っていて車輪も滑りやすかった。

 「あと何分」「あと何軒」-。巧みなハンドル捌きでスイスイと出前をこなしている平田さんの目の前に突然、大型の10トントラックが立ちふさがった。

 気付いた時はガレージの中ではなく、温泉病院のベッド上。交通課注文の出前を運んでいたのに、事故を起こしたことで、松葉杖で事情聴取を受け、さらには〃免停〃の処分。

 まさにこれぞ「理不尽川」。平田さんは当時の出前を頼んだ人の名前を今でも覚えている。ただし、決して恨んだりはしていないので、警察関係の方々にはくれぐれも〃誤解〃のないように!!

 それでも平田さん、モノは考えようですよ。「理不尽川」で良かったではないですか。「三途の川」だったら、愛妻も可愛い子どもたちも泣いて悲しんだはずですよ。

 実は平田さんと拙者は昭和30年生まれの同い年である。頭は向こうのほうが白いが、体型のほうは拙者の方が年配者のそれに近い。お互い幼い子を抱えてまだまだ老け込むわけにはいきませんよね。

 《花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道》これって京都の歌だったけ?


2007/06/16

『悪名』先輩のいま - 何とゴルフ場の社長だと!! -

 恥ずかしながら、ゴルフ歴はもう30年近くになる。それなのに百を切ったことは一度もない。

 ベストスコアは先々月かに出した「101」。何の悪戯か優勝してしまったせいで、ハンディは36から30に減らされた。当分、優勝は望めそうもない。

 社会人1年生の時(徳島県)に「これからはゴルフくらい出来へんやったら営業は務まらんで」と、先輩社員M氏から無理矢理ゴルフショップに引っ張られて、ミズノのハーフセットを買わせられた。

 当時は消費税がなかったので、ちょうど3万円ポッキリだった。その足で、M氏の先輩に当たるスナックのママさんが「第百生命」の外交員をしているとのことで、生命保険にも強制加入させていただいた。

 「先輩、もうお金が続きません」と直訴すると、「おー、そうか」と言って、今度は取引先の信用金庫本店に連れて行かれ、「こいつに50万円ほど貸してやって下さい。ついでにVISAカードの申込も」-。

 事ほど左様に、拙者は従順な人間であった。ただし、そのお陰で随分と可愛がってもいただいた。昼飯、晩飯はもちろんのこと、当時まだ盛んであった高級クラブへの出入りも自由だった。

 M氏は薬品卸会社からの転職組で、社内的には少し浮いた存在であったが、仕事は抜群にできた。恐らく、海外団体旅行取扱高は〃日本一〃だった。

 「ワシのライバルは天王寺の誰々と、虎ノ門の誰々や。田舎に居るからいうて、都会の連中に負けたらあかん。これだけは〃アイツが一番〃と言われる何かを持っとけよ!!」。

 明け方3時、4時頃によく電話がかかって来た。「何しよるんな。早よ出てこんか」。内心「寝てるに決まっているやろーが。このドアホ」と思いながらも、渋々会社へ。

 当時はまだワープロがなく、和文タイプでガシャン、ガシャン…。「エアはなんぼで、ランドフィーは幾らや。為替レートからして、こんだけの儲けや。後は現地のオプショナル・ツアーで仕上げといこう」。

 2人して毎月のように添乗で海外に出かけた。大阪空港ばかりでなく、アラスカのトランジットスタッフともすっかり顔なじみになるくらいだった。

 彼の地を離れて20ウン年。思うに、あの頃の我々は旅行業界の映画『悪名』(原作・金東光)コンビだったかも知れない。もっとも田宮二郎と拙者とでは似ても似つかないが。

 八尾の朝吉親分ではない、そのM氏から先日、久しぶりに電話をもらった。「何しよんな。早よ出て来んか」。

 昔と全然、変わってないなと思いながら、「今、何をしてるんですか」と尋ねたら、「おーワシか。今は県と地元の地銀二行が出資している阿南市内のゴルフ場の社長や!!」。

 「早よ言うてや。すぐ行くわ!!」。


2007/06/15

最近〃感動〃した話 - 苦労?もう忘れてしまった -

 前国見高校々長で同高サッカー部総監督だった小嶺忠敏さんの母、ミツキさんが去る7日、他界された。享年97歳。

 通夜・葬儀は深江町の寶玉殿で営まれ、通夜のみ参列させていただいた。ご主人が沖縄戦線で散華され、その時、監督はまだお腹の中。そのお話を聞いて、何かしら熱いものがこみ上げてきた。

 監督とお母様の話はこれまでも幾度か講演等で聴いたこともあるし、昨年から定期購読している月刊誌『致知』でも取り上げられていたので、いくらかの予備知識はあった。

 しかしながら、読経後のお説教の中で耳にした、菩提寺「称名寺」のご住職との会話は、これまでとは一味違った響きとして伝わってきた - 。

 【住職】国見高校も優勝して良かったですね。【母】息子(監督)にはいつも言っております。決してお前の力ではない。全ては周囲の皆さんと、奥さんのご協力のお陰だよ。

 【住職】ご主人が戦争で亡くなってから、女手一つで7人の子どもを育てるのは並大抵ではなかったはず。随分と苦労もされたでしょうに。【母】苦労?もう忘れましたね…。

 さりげない会話のやり取りであるが、何と含蓄に富んだ、味わい深い話ではないか。全くシチュエーションは異なるが、一瞬、映画「カサブランカ」の、あの有名なシーンが頭に浮かんできた。

 イングリッド・バーグマン扮する元恋人イルザの質問に対して、リック役のハンフリー・ボガートが答える。「そんな昔のことは忘れた」。「そんな先のことは分からない」。

 これぞ「ハード・ボイルド」の世界を代表する苦みばしった男の〃決め台詞〃だが、ミツキさんもリックも〃本心〃は奈辺(なへん)にあったのだろうか?

 ご主人がいなくて心細いことも多かっただろうし、また子どもたちにとっても、父親が控えている家庭が羨ましく見えたことも多々あっただろう。

 しかしながら、一家は気丈な母を中核として、一枚岩の結束で、不屈の闘志を養い、末っ子の監督は〃日本一〃の座をナント17回も勝ち取った。前人未到の大記録である。

 ミツキさんが子どもたちに諭した幾つかの教えを思い起こした。「踏まれた麦は上を向いてスクスク育っていくが、踏まれていない麦は、冬に霜や雨が降ると萎れて、作物にならない。人間も同じだ」。

 「竹には所々に節がある。だから(雨風にも)強い。人間も遊ぶときは遊んでもいいが、きちっとケジメをつけねばだめだ」。

 監督は来月執行される参議院選挙の立候補予定者。教育界から政界への転進については、様々な論評があるようだが、いずれにしても「人生の大きな節目」であることに変わりはない。

 間もなくキックオフだ。


2007/06/14

雲仙市長日記が面白い - 〃激務〃なのに何故肥るか!? -

 「雲仙市長の日記」がすこぶる面白い。つい最近まで、その存在すら知らなかったが、就任以来、折にふれ(最近ではほぼ毎日)執筆をされていることは、まさに〃快挙〃であり、改めてその生真面目な〃政治姿勢〃に敬意を表する次第である。

 「注意万全、楽しい水泳」。ご本人はもう、とっくに忘れられているかも知れないが、小学校5年か6年の時に、当時のS少年が創作した、夏休み前の「標語」である。

 正直、その言語感覚の素晴らしさに、すっかり舌を巻いたことを、今でも昨日のことのように憶えている。早熟でもあったのだろうが、とてもド田舎のハナ垂れ小僧が作った作品とは思えなかった。

 長じて、その才能はあの初代防衛大臣も学んだ口加高校の「文芸部」でもいかんなく発揮されるわけだが、さりとて勉学の方は比例せず、特に理数科系の成績は小生と並ぶ〃超低空飛行〃であった。

 ただ、幼い頃からハッキリと「将来は政治家になりたい」と周囲に明言し、その通りに〃初志〃を貫徹された生き方には、大いに頭が下がる。友人の一人としても嬉しい限りだ。

 「日記」の存在を教えてくれたのは、政治的な信条も主義主張もまったく異なる上田泉さん(共産・前島原市議)だった。

 ある会議の中での発言だったが、「首長がタイムリーな形で市民に考えを伝えるのは、とても大切なこと」とのご指摘には、拙者もまったく同感。

 しかしながら、それぞれの首長には、それぞれの首長なりの考え方も、スタイルも、施政方針もあろうから、「結論」を下すのは早計だろう。ただ「住民との対話」姿勢は決して忘れてはならない必須アイテムである事は確か。

 日記形式というだけでなく、もともと達意の文章書きだから、非常に読みやすいし、ユーモアもたっぷりだ。最近は随所に写真を配置するなど、自己PRにも余念がない。

 ほとほと感心するのは「他者の悪口」をまったくと言っていいほど書いていないこと。この点は、どこぞの市議のブログとは、見事に〃対極〃をなしているようだ。

 特徴的なのは「食」への飽くなき執念!?回数の多さもさることながら、「あれも食べたい」「これも食いたい」との悪魔の囁きに、必死に抵抗しようとしている様(心理描写)は、まさに〃孤高の戦士〃。

 だが、ある熱心な支持者からいただいたお葉書によれば、「市長職という分刻みの〃激務〃に晒されながら、どうしてあんなに肥っていられるのか、実に不思議でならない」と。

 まあ、百聞は一見に如かず、である。とにかく、とくと雲仙市のホームページをご覧あれ。アドレスは【http://www.city.unzen.nagasaki.jp/


2007/06/13

ハナカミおじさん登場 - 〃謙譲の美徳〃を忘れるな!! -

 流行を追っているわけではないが、ここ数年、鼻腔がむず痒く、時々耳鼻科に行っては、洗浄をしてもらっている。

 花粉のシーズンもとっくに過ぎただろうに、最近は特に症状がひどい。ひょっとして「光化学スモッグ」の影響か。吸入式治療剤の効果も、段々怪しくなってきたようだ。

 それでも時々手持ち無沙汰な折には、左右の鼻の穴に尖頭を突っ込んではシュッ、シュッ。「お前もやってみるか?」と経理のお嬢に差し出すと「専務、それってセクハラですよ!!」。

 「嗚呼、なんて世知辛い世の中になってしまったんだ!!」と嘆いてみせたが、ハナであしらわれてしまった。

 以前も少し書いたが、「ハンカチ王子」と「ハニカミ王子」の人気が凄いらしい。ならば、拙者は「ハナカミおじさん」でデビューするか!?

 ところで、「ハンカチ王子」こと斉藤佑樹君の発言に少々ガッカリした。本来、控えめである所に〃好感〃が持てたのに、インタビューでは「この先もずっと勝ち続けます!!」と。

 フザケルナ!!(島原弁で言うと、ノボスンナ!!)。たかだか18歳(6月8日から19歳)のガキが、甲子園に続いて大学野球で活躍したからと言って、本気で「勝ち続けられる」とでも思っているのかい?

 じゃー訊くが、古今東西の名投手で「0敗」の人間がいるか。あのカネヤンだって400勝298敗だ。東京六大学の大先輩、法政の大エースだった江川卓も47勝して12敗しているではないか。

 おう、やれるもんならやってみろ。ハナカミおじさんは、お前さんが可愛いから言ってるんだぞ!!そのうち負けが込みだしたら、マスコミは必ず牙を剥いて襲い掛かってくる。

 「謙譲の美徳」を忘れるな!!ああ、それから男子ゴルフ界待望のスターと言われている、ハニカミ君。君のニヤけた発言もいただけないなあ。

 「今日は顔の調子がイマイチなので…」(試合後)。あーそうかい。そんならエステでも、どこでも行けばいいじゃないか!!

 だいたい昔のスポーツ選手に君達みたいな〃色男〃はいなかった。怪童、中西太を見てみい。神様、仏様、稲尾様はどうだ。ノムさんだってONに匹敵する立派な成績を残しながら「俺は野に咲く月見草…」といった名台詞を吐いたではないか。

 君達は、学校の授業で「平家物語」を教わらなかったのかい。「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響あり。-(中略)-おごれる人も久しからず。唯春の世の夢のごとし-(後略)-」。

 とまあ、これだけ書けば、追っかけオバさんあたりから必ず〃クレーム〃が来るだろう。「お前、他人様の事が言えるか。その姿態、実績を考えろ!!」。

 ならば、島原弁で反論だ。いらん世話たい!!


2007/06/12

今日からまた出直し!! - 情報とは真心に報いること -

 「毎日は苦痛でしょう…」と、最近お会いする人ごとにお声をかけて下さるが、駄文にもかかわらず、読んでいただいていること自体が素直に嬉しい。

 実は、毎土曜日か週初めの頃合を見計らってまとめ書きすることにしている。その週(前週)の出来事や反省点を踏まえて、思いつくままにキーボードを叩いている次第だ。

 先週は木曜日午後(8日)に、霊丘公民館ホールで、島原市婦人会連絡協議会の平成19年度総会の場を借りて、1時間ほどお話をさせていただいた。

 タイトルは「地域情報化について」。率直に言って、自分の考えを巧く伝えることができなかった、と深く反省している。

 人様の前で喋ったり、こうして文章を掲載することは、実はとんでもなく恥ずかしいこと。何せ普段の勉強不足を露呈するばかりか、頭の構造そのものを曝け出すことに他ならないからだ。

 では何故、臆面もなく書いたり、話したりするのか?自問自答してみるが、コレといった答えは見つからない。ただ、言えることは「世の中の人々と何かの関わりを持ちたい」との人間の〃本能〃に近いものかも知れない。

 世間との接触を避けたい、自分がどうあがいたって何も変わりはしまい。そうした心境に陥ることが、今社会問題ともなっている「うつ状態」だと思う。

 婦人会の席では「情」と「報」という漢字本来の意味を、大作『字通』(白川静編)からチョイ借りをして、「真心に報いること」とこじつけた。

 「情」という文字には、「なさけ」「あわれみ」という意味だけでなく、「学ばずして能くするもの」(礼記、礼運)、すなわち「本能」のほか、「真心」という意味もあるのだそうだ。

 そこから敷衍して、拙者が訴えたかったのは、災害時に全国の皆様から受けた、あれ程までの心温まるご支援に対して、我々島原市民には「それに応える責任と義務がある」。そして、それは取りも直さず「我々の仕事だ」と。

 だが、結果はスベッた。偏に筋立ての構成を過った拙者の至らなさだが、最初から前列付近でコックリ、コックリと舟を漕がれてもなかなかモチベーションの維持は難しいもの。

 その点、中高年の星、綾小路きみまろ(漫談家)の聴衆の引き付け方は抜群だ。笑いに渇望されているご婦人方には、是非お勧めしたいCDがある。

 「そこの奥様、キレイですね、お洋服が」「お生まれは戦前?ナニ、応仁の乱」-。拙者は一体何を間違ったのだろうか…。今日からまた出直しだ。

 最後に人事関連の資料をいただいたので、ご紹介しておく(敬称略)。【会長】村田マサ子【副会長】森川美恵子、坪田恵美子【会計】草野未江子【書記】肘井裕子【監査】大島和代、松本ヨシミ


2007/06/11

期待をプラスに変換 - 芸人は〃毒〃がなければ!! -

 島田紳助が面白い。明石家さんまと並んで、今や吉本の〃二枚看板〃のような存在に成長した。

 何より〃毒〃があるのがいい。「芸能人は歯が命」という美白効果を訴える歯磨きのCMがあったが、「芸人は〃毒〃が命」と言ってもいいだろう。

 紳助が松本竜助(故人)と組んで漫才デビューを果たした時のネタを今でも憶えている。確か「ロケット」ネタだった。

 「何でロケットが飛ぶか、お前知っとるか」(紳助)。「いや、分からへん」(竜助)。「アホやなあ、そんな事も知らんで、よう漫才しとるなぁー」(紳助)。

 「いじわるせんで、教えてーな」(竜助)。「ロケットの打ち上げのシーンをよう見てみ。テレビカメラがずらっと並んで、関係者や一般人もじっと見とるわけや。そしたら、飛ばなしょうがないやんか」(紳助)。

 筆力のなさから〃面白み〃も半減してしまうが、最初にこの話を聞いた時は、それこそ腹を抱えて笑ってしまった。

 取りようによっては、周囲からの「期待」のプレッシャーを、「プラス」のエネルギーに変換できるか否かの「捉え方」の問題を、問い掛けているようにも感じた。

 『佐賀のガバイ婆ちゃん』で再び有名になると同時に、所属の吉本興業ともトラぶった島田洋七もパワフルな話芸で押し通すタイプだが、紳助とはちょっと色合いが違う。いまいち切れ味に欠ける。

 そうそう洋七で思い出した。相方の洋八と伊豆大島から帰って来る60人乗りくらいの小さな飛行機で隣り同士になった。

 何でも、洋八の奥さんは同島で歯科医をしているらしい。どうでもいいことだが、洋八は芸風の通り、細身で大人しいタイプに見えた。

 拙者が伊豆大島を訪れたのはちょうど2年前の今頃のシーズンだった。羽田から飛行機で約30分。20年くらい前に三原山が噴火して、1万人(住民全員)が避難したあの島だ。

 都はるみが唄った「アンコ椿」は見れなかったが、「アジサイの花」が実に美しかった。「波浮の港」には、森繁さん揮毫の歌碑が立っていて、近くの肉屋さんが作るコロッケの味は一級品だった。

 火山博物館を訪ねたが、金をかけた施設の割には、来館者はゼロに近く、「もったいない」と感じると同時に、普賢岳災害記念館の健闘ぶりを想った。

 一つだけ奇異に感じたことがある。周囲四方を海に囲まれているので〃海の幸〃には恵まれているのかと思っていたら、獲れた魚介類はほとんど東京市場へ出してしまう、という。

 「生活のため」と言えば、何とも論評のしようもないが、まずは自分たちが「美味いサカナ」を食べるべきで、観光客を呼んで「外貨」を稼ぐ方向に舵を切るべきだと思った。

 嗚呼、何とも〃毒〃のない結び方だなー。


2007/06/09

「減量」を哲学する - その先にきっと何かが!! -

 大層なタイトルを付けてしまったが、挑戦してみよう。オーバーな!?

 《ソッ、ソッ、ソクラテスか、プラトンか。ニー、ニー、ニーチェかサルトルか。みーんな悩んで大きくなった》

 作家の野坂昭如さんが軽快なステップを踏みながらウイスキーのCMに出ていた当時が懐かしいが、「哲学」と聞いただけで頭がこんがらがってくる。

 大学生になった当時、同じフランス語のクラスにSさんという〃留年生〃がいた。下宿が近くにあったので、有志で「出て来い」と呼びにいったら、「とにかく上がれ」と。

 中は何の変哲もない和室だった。同じ九州出身ということで、一人居残った拙者に対し、襖を背にそこに座れ、という。

 何やらゴソゴソしていると思っていたら、文机の中からナイフ数本を取り出した。それから一回、二回…と拙者の方向目がけて投じてきた。

 その時の心境は「殺される」という〃恐怖心〃より、「一体、何が始まるんだろう」との〃好奇心〃の方が勝っていた。

 幸い、ナイフは身体を掠めることもなく、その場は無事に収まったわけだが、この不可思議な出来事を境に、我々は急速に〃仲良し〃になった。

 Sさんは2歳年上。北九州の出身で、高校から鹿児島ラ・サールに進んだ。入学時の成績は2番、卒業時はビリだった、という。

 そのSさんが良く言っていた。「古代欧州では『哲学』が至高の学問だった。『法学』なんていうのは下衆のやることだ」と。

 田舎出の頭では何のことかサッパリ分からなかったが、ひとまずは「哲学」「哲学」とパチンコの景品はすべて河出書房の哲学本に換えた。

 「宗教哲学」(教養)では名物教授だった六三郎先生が「キリちゃんがねー」と切り出したら、最前列に座っていた女子学生が「あんまりだ」と言って、憤然と席を立って出て行った。恐らく熱心なクリスチャンだったのだろう。

 さて、本日のテーマである「減量」だが、これを「科学」することは簡単だ。カロリー計算をすれば済む話だ。

 ところが、「哲学」となると、一筋縄ではいかない。なぜ、食べたいのに、食べられないのか?高校に入ってレスリングを始めた次男坊のもがき苦しむ姿を見て拙者も考えた。

 普通に考えれば、理不尽でさえある。ところが本人はそれを望んで立ち向かっている。同じ仲間がいる。勝ち負け、強い弱いの問題ではない。

 恐らく、答えはすぐには見つからないだろう。ただ、耐えて、耐え忍ぶ。あるいは失敗する。その先にきっと何かがある!!ニワカ哲人はそう信じている。

 ところで、Sさんは今「Z会」にいると風の噂で聞いた。いまだに受験の世界から足を洗えないなんて、あなたの「哲学」もその程度だったのかい?


2007/06/08

普賢噴火よもやま話 - 母と見た「漆黒の闇」の世界 -

 「6・8」と言っても、今ではピーンと来る人も少なくなってしまったかも知れないが、きょう6月8日も大火砕流が発生した日だ(平成3年)。

 夕刻、小涌園のあたりにいたら、天を衝くような勢いで火砕流独特の褐色雲が迫ってきた。暫くすると雷光がきらめき、雨が降り出した。

 当時はまだ布津港と結ぶ船便もなく、深江は最も近くて最も遠い隣町だった。新聞は通常、島鉄に乗せてもらって配達するのだが、陸路は完全にシャットアウト状態。

 来る日も来る日も刷り上ったばっかりの新聞を積んで、雲仙越えで南目の販売店まで運んでいた。「6・8」当日は、焼山のソーメン流しを過ぎたあたりで、降灰のためワイパーが動かなくなった。

 途中、どう移動して行ったのか良く覚えていないが、広域農道の布津から深江に入った地点(坂道)から上木場方面を見た。至る所から紅蓮の炎が上がり、上空を何機ものヘリコプターが旋回していた。

 当時、携帯はまだ高嶺の花で、確か10万円くらいしたが、バッテリーは2時間程度しかもたなかったし、入りも悪かった。

 布津に戻って何度も関係先に電話をしたが、「ツー」「ツー」とつながる気配はまったくなし。公衆電話もまったく同じ状態だった。

 余談だが、その年の9月15日は、久々に休みを取って諫早まで足を伸ばし、「魚荘」で食事をしていたら、普段は苦虫を噛み潰したような顔をしてテレビに出ている被爆者団体の代表が座敷で「ヒョットコ踊り」をしていた。

 一瞬、「島原や深江では住民たちが塗炭の苦しみを味わっているのに…」と複雑な思いもしたが、「色んな事情もあるのだろう。自分たちもこうして食事をしていることだし…」と得心した。

 帰路、大三東にさしかかった所で、眉山越に黒雲が伸び上がっていた。大野木場小学校を焼き尽くした「9・15」の大火砕流災害だった。

 その年は台風17号、19号の襲撃も受け、まさに〃泣きっ面に蜂〃のような日々が続いた。停電で織り込み機械は使えず、ロウソクの灯りのもと、家族総出で新聞を折った。

 母とともに走った「漆黒の闇」の世界を忘れない。北有馬町の国道から天草方面を眺めてみたが、陸地には明かりらしきものが一つもなかった。不気味だった。

 しかし、あの頃は若かったせいもあろうが、異常に元気だった。新聞配達を終えて帰ってくるのは大体夜の11時前後。それから近くの「サンパン」に繰り出し、毎日明け方近くまで飲んでいた。

 飲み仲間はKTNの槌田禎子、フリーの江川紹子、毎日の神戸金史(現在はRKB毎日放送)ら。拙者以外、みんなそれぞれ立派になった。


2007/06/07

有明Iさんが〃珍記録〃 - スポーツは人生そのもの!! -

 打ちも打ったり23!!有明町に住む建築業のIさんは、拙者の飲み仲間、ゴルフ仲間である。

 そのIさんが先日、西海市のとあるゴルフ場で開かれたコンペで、ナント冒頭の数字を叩いたのである。しかも「パー3」のショートホールで。

 一緒に回った人の話によると、ティーショットが左バンカーに突入。そこから打ち直すこと10数打。挙句の果ては右側に池ポチャで、件の〃珍記録〃を打ち立てたのだ、という。

 仲間内だから庇うわけではないが、普段のIさんはハンディも10台半ばで距離も出る。良くて80台、悪くても90台でまとめてくる堅実派だ。

 この日は一体何があったのか?ここだけ〃大叩き〃してしまった。その証拠に、次のロングと、その次のミドルは連続してバーディを奪っている。

 ゴルフに限らず、ゲームは「人生そのもの」に良く例えられる。かつて、作家の五木寛之さんは「麻雀は追い詰められた人間にこそ相応しいゲームだ」とか言っていた。

 若い頃、拙者は3人でやる「ブー・マジャン」(ブーマ)に凝っていた。と言うより、それがその土地のルールだった。

 ブーマは勝負が早い。役満も比較的簡単なので、あっという間に「ハコテン」になってしまう。人生もそうだが、ギャンブルもノメリ込むのが一番怖い。

 仕事が終わると、後片付けもそそくさと一路雀荘へ。そんな日々が続いていたら、ある時、中央卓を囲んでいるメンバーから「一人足りないから」とお呼びが掛かった。

 止せばいいものを、なまじ元気が良かったものだから「ハイ、ハーイ」と二つ返事で仲間入り。対面に坊主頭でムショ帰りの「Sチャン」がいた。

 最初のうちは何とかしのいでいたが、そのうち負けが込み出した。途中で「ヤバイ」と感じ始めたが、時すでに遅し。最後は「ケツの毛」までむしり取られてしまった。

 いかん、いかん、また悪い癖で、昔話に戻ってしまった。今日は何を書こうとしていたっけ?そうだ、ゲームと人生との相関関係についてだった。

 まあ、ギャンブルはともかくとして、スポーツは人生そのものだ。才能だけあっても、努力(練習&稽古)しなければ目標は達成できないし、周囲とのチームワークも必要だ。

 そして本番では、厳格なルールのもとにフェアプレーが展開される。そこが観る者の心を揺さぶるのである。

 ところで、「バンカー」の話に戻るが、銀行マンを意味する「バンカー」と、ゴルフの「バンカー」とは綴りが異なることを最近になって知った。

 銀行は「A」、ゴルフは「U」。Iさんも「U」の字に倣って〃掬(すく)う〃ように打てば良かったのに。銀行さんも「A」のように尖がらずに〃救って〃ネ。


2007/06/06

上官殿、開けません!! - 自衛隊の皆さんに改めて感謝 -

 講演のため島原入りすることになった江川紹子さんを出迎えるため3日朝、長崎空港の到着ロビーをうろついていたら、懐かしい顔とバッタリ出くわした。

 災害当時、自衛隊広報班長をしていた飯田さんだ。よく見ると奥様連れ。一体、何の用事だろうと思っていたら-。

 前の晩に島原で当時の山口連隊長(陸自第16連隊・雲仙のシュワルツコフ)や、鐘ヶ江元市長、吉岡市長らと〃戦友会〃を開いて、この日は東京に帰る山口さんを見送りに来たのだ、という。

 なら、出発ロビーに居ても良さそうなものだが、よくよく聞いてみると、前夜から江川さんを探していたとのことで、「当日入りなら講演会の日程からして、この時間帯」とレーダーを張っているのだ、と。

 江川さんを乗せたJAL便は定刻より10分遅れで到着。山口元連隊長や飯田さんらとの〃感激のご対面〃と相成った次第。

 飯田さんには災害当時、大変にお世話になった。天草出身で、一時期は大村のCATV局にもいた。

 江川さんを待つ間に飯田さんから、面白い話を聞いて爆笑した。「著作権」の問題はなさそうなので、ここに〃暴露〃する。

 【その1】災害当時はまだ今ほどパソコンが普及しておらず、島原城内に居を構える災害派遣隊にも使い手は2、3人といった程度だった。

上官からの命令。「おい、パソコンを立ち上げろ」。使ったことがなく、どうしたら良いのか分からない隊員がとった行動は…。「ハイ!!」と二つ返事でパソコンを両手で抱えて立ち上がった、とか。

 【その2】マウス編。マウスは鼠の形をした、キーボードを補佐するパソコンのパーツのことだが、指導に当たる上官からの命令は「もっとマウスを上げてみろ!!」。

 すると、その世界に未知なる隊員の右手は、マウスを握ったまま〃宙〃に浮いた。まさか、鼠だから〃チュウ〃と洒落たつもりではなかっただろうが…。

 【その3】拙者はこれが一番面白かった。「CDを開けろ!!」編だ。正確に表現すれば、「CDをパソコンにセットして、中身をモニター画面上で開きなさい」ということだったが…。

 一枚のCDをタテ、ヨコ、ナナメから、穴があくほど見つめながら、さらには、張り合わせの部分にツメを立てて、「どこから開けたら良いものかさっぱり分かりません、上官殿!!」

 いやはやご苦労様でした。こうやって島原が災害から立ち直れたのも、自衛隊員の皆様のお陰です。ありがとうございます。

 【訂正】昨報の早大優勝は二年ぶりでなく「二季連続」、大町一郎左衛門さんに「副議長経験はなく」、ティファナは「サンディエゴ」、娘さんは「孫娘さん」の誤りでした。お詫びして訂正します。


2007/06/05

江川さんも大喜び!! - 佑ちゃんハンカチと大町さん -

 「6・3大火砕流災害」から丸16年目のその日、神宮球場(早慶戦)は3万6千人の観衆で溢れていた。

 お目当ての〃ハンカチ王子〃こと早大1年生投手の斉藤佑樹君は5回までほぼ完璧に近いピッチング。味方打線も序盤から大量点を叩き出し、完勝するかに見えたが、6回に入って突如乱れ始め、一挙に4点を返された。

 だが、後続ピッチャーの〃粘投〃でその後の慶応打線の反撃を1点に抑えて、9対5で早稲田が競り勝った。2年ぶり39回目の優勝。

 前置きが長くなったが、その前日、南安徳町在住の大町勝枝さんから、丁寧なお手紙を頂戴した。開けてみると、「W」ロゴ入りのブルーのハンカチーフが同封されていた。

 勝江さんのご主人は島原市議会副議長などを歴任された大町一郎左衛門さん。文面を丹念に読んでいくうちに、雲仙普賢岳の噴火災害前に、メキシコのティファナで、セスナ機が墜落して亡くなった息子さん(旭化成勤務)のことを思い出した。

 〃あの日〃は確か記者クラブにいたが、社長から呼び出され、緊急取材を命じられた。「全面使っても良いから、徹底してお話を聞いて来い!!」。

 駆け出し記者だった拙者は何がなんだか分からないまま、大町邸に急行。読売の新山さんが一足早く取材を始めていた。

 その時、どんなお話を聞いたのか、どんな記事を書いたのか、もう記憶に定かでない。ただ、ご両親とも気丈に振る舞われていたことと、庭の棕櫚の木(?)が印象に残っている。

 この大木は安徳地区のランドマーク的存在だった。幾たびも、幾たびも、周辺が土石流に埋もれようとも、ビクともせず勇姿を保ち続けていたが、かさ上げ事業等の推進とともにいつしか消え去った。

 文面には亡くなった息子さんのことは一行も触れてなかったが、尊い43名の犠牲者が出た「6・3」のちょうどその日に、このような便りをいただくこと自体、何かしら〃因縁〃のようなものを感じる。改めて亡くなった皆様方のご冥福を祈るばかりだ。

 「ハンカチ」は早稲田の大学院で学んでいるお孫さんからお祖母ちゃん宛に贈られてきたもの。その母親(大町さんの娘さん)は慶応病院の内科勤務だというから親子で〃早慶戦〃とは何とも羨ましい。

 さて、江川紹子さんが久方ぶりに来島。復興アリーナでは講演会が開かれたが、早稲田OGの江川さんも試合の行方が気になって仕方がない様子。

 結局、最終イニングだけを、拙者の車中のワンセグテレビで観戦。「佑ちゃんの彼女は○○にいるんだよね」などと、耳寄りな情報を教えてもらいながら、母校の勝利を祝った。

 最後になったが、島高レスリング部も6年ぶりの優勝。オメデトウ!!


2007/06/04

「6・3」から丸16年 - 島原はどう変わったのだろう -

「6・3」である。正確に言うと、西暦1991年(平成3年)6月3日の火砕流災害から、きょう3日で丸16年だ。

 島原はどう変わったのだろうか。私事で言うと、幼稚園児だった長男は大学生となり、ヨチヨチ歩きの次男は高校3年生。中3の三男坊はまだ生まれていなかった。

 カボチャテレビが放送免許を得てサービスを開始したのは同年5月1日。20日後に初めての土石流災害。6月2日は島原市議会議員選挙の投開票日で、夜半からドシャ降りだったことを憶えている。

 「6・3」災害では地元消防団員、警察官、マスコミ、火山学者など合わせて43名が犠牲になった。恐らくみんな〃働き盛り〃だったのだろう。その遺児たちは、我が家の長男や次男らと年齢が近い。

 災害当時、市民生活は混乱の極にあった。600人は下らないと言われた報道各社の貸切で、タクシーの呼び出しもままならなかった。「2世紀ぶりの歴史的な火山災害を映像記録に残そう」と、オートフォーカスの一眼レフカメラが売れに売れた。

 噴石の落下を恐れて、子どもたちはヘルメットをかぶって登校した。怪しげなボランティア団体、噴火活動を鎮めて見せるという宗教家もどきが相次ぎ現れた。義援金に加え、食料や衣服などの救援物資も山のように送られてきた。

 それでも噴火活動は一向に収まる気配は見せず、「10年間は続くだろう」との火山学者の〃予想〃に皆一様にタメ息をついた。

 それぞれに複雑な思いを抱きながらも、人々は先祖伝来のこの地に踏みとどまった。願掛けでヒゲを伸ばした当時の鐘ヶ江管一市長は「朝の来ない夜はない!!」と、市民に向け、涙ながらに奮起を促した。

 市民運動も活発化した。過激な行動に走った直接被災者を包み込むように、「呉服の丸三」社長の高橋三徳さん率いる「島原生き残りの会」が〃官民一体〃の必要性を呼びかけ、数次にわたる国会陳情・請願を挙行。併行して集めた5百数十万人分の署名簿が国を動かした。「1000億円」の災害対策基金創設。

 建設省(国土交通省)はいち早く現地直轄事務所(現雲仙復興事務所)を構え、最新工法で導流堤、砂防ダム等を次々と完成させていった。地域全体を覆っていた火山灰の臭いや皮膜もいつしか消え去った。

 土石流のたびに寸断されていた島原鉄道南目線の軌道は「高架橋」に生まれ変わり、復興の夢を乗せトロッコ列車が開通。が、経営難のため、来年には姿を消す、という。

 16年前、有明海上に浮かんだ「虹」の撮影のため命びろいをした西川清人さんは、無理がたたって7年前に他界。当時から、筆者と西川さん二人共通の友人だった江川紹子さんがきょう3日、復興アリーナで講演する。


2007/06/02

攀念智(ハンネンチ)をもたない!! - 綺麗な花に罪はないのだから -

 1日おきのペースから、毎日書き始めるようになって約1か月が過ぎた。ホンネを言えば「大変」だが、旧知の人から余り良く存じ上げていない方まで時々声を掛けて下さるものだから、サボれない。「トホホ…」の心境だ。

 先日、朝飯を食べていたら、花大好き人間の母がニコニコしながら庭から上がってきた。「去年1本だけ咲いた○○○○が今年は4本も花をつけている」と。実に嬉しそうである。

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」。拙者(今日から筆者の表現を改める。何だかハットリくんみたい)は正直言って、母が喜んでいる「ハ行で始まる4文字の花」が嫌いだ。正確に言うと「嫌いになった」。

 真夏を象徴するかのような派手な色合いで、遠くはソフィア・ローレン主演の映画で多くの感動を呼んだ。我が国でも、伊藤何某という歌手が「○○○○娘」というキャッチフレーズでヒットを飛ばしたりしたが、結局は「ハダカ」になって記憶の彼方へと消え去っていった。

 人は「厭な事」「嫌いな人間」に対して独特な反応を示す。まったく「無視」を決め込む人、露骨に「不快感」を表わす人、意図的に「接触」を避ける人…。「十人十色」と言ってもよい。

 拙者が尊敬する島原市内在住の先輩は、ある出来事を境に「カ行で始まる樹木」が嫌いになって、相当な樹齢を重ねた大木をバッサリと切り倒してしまった。男である!!

 一方、拙者も猫の額のような事務所脇の「花壇」と思しきスペースの一角に、しつこく蔓延っていた「○○○○」を一刀両断で切り捨て、根ごと取り除いた。4年前のことだ。

 ところが、最近になって「ある言葉」に出会ったことで、少し考えが変わってきた。その言葉とは「攀念智(はんねんち)をもたない」というイエローハット創始者、鍵山秀三郎さんの教えである。

 日めくりの解説によると、「攀念智」とは、人を恨む、憎むという想念の意。そうした想念は、自分のエネルギーをすべて奪う。それを抱いた人間が不幸になる、と。

 とは言っても、頭では分かっていながら、なかなか実践できないのが人間である。しかし、わざわざ「不幸の道」をたどることもあるまい。

 大切なのは、信じた「我が道」を堂々と歩いていくことである。その気持ちを忘れず、地道に努力を重ねていけば、必ずや未来は拓ける!!

 だいたい、花に罪はない。それを人間の感情で眺めていた拙者が愚かでした。ゴメンネ、「○○○○」ちゃん。でも、その名を冠した〃理不尽な対応〃とは徹底的に戦うよ!!

 「ほらほら、アジサイの花が咲き始めたよ」 - 。母は、拙者のこの鬱屈した思いを知ってか知らずか、毎日鼻歌を歌って水遣りに忙しい。


2007/06/01

情けないJALの凋落 - 禍福はあざなえる縄の如し -

 僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんが以前、ある経済雑誌の中で面白い〃例え話〃を書いていた - 。

 ある男が道を歩いていて一万円札が落ちているのを見つけて拾う。この時点で、その人の人生はラッキーかも知れない。

 だが、次の瞬間、そのお金を拾おうとして、石ころに蹴躓いて大怪我をして、病院に運ばれる。今度はツイてない。

 しかし、入院先に目も眩むような美人の看護婦さんがいて、その人と恋に落ちて結婚できるようになる。再びラッキーだ。

 ところが、その美人の奥さんは家庭の中では、とてつもない悪妻で、結婚を後悔することに。これまた不幸である - と。

 玄侑さんは現在のストレス社会を、次に来るはずもない〃不幸の影〃に怯えているようなもの、と喝破している。

 同趣旨のことを、新約聖書では「明日のことまで思い悩むな。明日は明日で新しい悩みが発生するのだから」との表現で諭している。

 筆者は何も悟りきったわけでもなく、人一倍悩み深い性質の人間であるが、それ故に、これらの言葉の意図するところが良く分かるような気がする。

 政治家では、第二次世界大戦当時の英国首相チャーチルが「悲観主義者はすべてのチャンスの中に敢えて困難さを探し出し、楽観主義者はあらゆる困難の中から希望の光を見い出すものだ」と述べている。

 平たく言えば、「コップ半分の水」をどう捉えるか、の問題だ。チャーチルならずとも、物事は楽観的に考えないと、長生きできない。

 植木等にならって「そのうち何とかなるだろう!!」の精神が大事だ、と思う。もっとも、準備の段階では「悲観的」に備えておくことも大切だ、との指摘もある。

 日本航空(JAL)の関連会社の社員が、機内の忘れ物をくすねていた、とのニュースが報じられた。

 何とも情けない話だが、玄侑さんの例えに従うと、これらの悪事に加担した連中は、デジカメなどを手に入れた時点で「やった」「儲けた」などとヌカ喜びしたことだろう。

 ところが、世の中は「天網恢恢 - 」である。誰も見ていないようでも必ずバレる。これが「世の道理」だ。

自慢じゃないが、筆者は人後に落ちない「忘れ物名人」である。電車やスナック等に忘れた傘は数知れず。

旅行会社に勤務していたときは、千歳空港に客一人を置き去りにしたこともある。ヨーロッパ、アメリカツアーでは約二週間の間にカメラ3台を失った記録を持つ。

それにしても、ナショナルフラッグ「JAL」の衰退が嘆かわしい。ひょっとして、かつての栄光を〃忘れて〃しまったか。