2010/07/30

犯人は〃毛虫〃だった…素晴らしい日本の古典!!

「FMしまばら」の開局を記念して植樹してもらった3本のヤマボウシのうち、1本の様子がどうにもおかしい。去年の失敗に懲り、今年はタップリと水やりしているのに…。

気付いたのは昨日の夕方。いつものようにホースを取り出していたところ、他の2本に比べて葉の量が異常に少ないのだ。

急に心配になって、我が家の〃樹医〃こと宮本秀利さんに電話を入れて症状を伝えた。「わかった。診に行く」との返事はもらったものの、やはり気懸かり…。

そこで改めて現場に赴き、目を凝らして観察してみて、やっと〃原因〃がつかめた。犯人は葉っぱと同系の保護色の皮膚をまとった〃毛虫〃だったのだ。その数は1匹や2匹ではない。小枝や葉の裏側にも、それこそウヨウヨ棲みついているではないか!

俺が丹精込めて毎日水をかけているヤマボウシに、何たる仕業か?一瞬、「この野郎!」と腹立たしい思いにも駆られたが、全身を器用に使って無心に葉を食(は)んでいる様子は反面、可愛くもある。

このままホームセンターに行けば撃退用の消毒液が売られているだろうが、しばらくは我慢して樹医の診立てを待つことにする。宮本さん、はよ来てよ!

ところで、むかし高校の頃に習った古典の中に、『虫めづる姫君』という作品があったはずだ。どんな内容だったか皆目おぼえていなかったので、ネットで調べてみると - 。

あった!あった!出典は作者不詳の『堤中納言物語』(13世紀・平安後期以降)という短編集だった。当然のことながら古典の素養など持ち合わせていないので、解説文くらいに留めておくつもりだったが、「現代語訳」のコーナーもあったので、軽い気持ちで読み通してみた。

何と、これが頗(すこぶ)る面白い!とにかくテンポが良くてビジュアル系なのだ。そのままドラマにしたっていける!一説によれば、宮崎駿(はやお)さんの『風の谷のナウシカ』にも影響が及んでいるとか!?

ここで何の脈絡もなく突然で恐縮だが、お茶の水女子大名誉教授の藤原正彦さん(数学者)が文藝春秋7月号に寄せられていた緊急レポート『日本人に告ぐ』の一節を思い出した。

「日本をどう思うか」という問いに対して「恥ずかしい国」「胸を張って誇れない歴史を持つ国」などと答える受験競争の勝利者。自信満々の彼女らに対して、同教授は甚だ複雑な思いを抱きつつ、こう反論し、諭している、という。

「西暦500年~1500年までの10世紀の間に生まれた文学作品の数は、日本一国が全ヨーロッパのそれを質・量ともに圧倒しているんだよ」。その後に具体的な解説に入ると、学生達はおしなべて沈黙してしまうのだ、と。

虫嫌いな平成の中年男も感心することしきり。スゴイよ、日本の古典文学!!


2010/07/29

宮崎さんの〃遺訓〃…仲良くすることが全ての基本

地元の観光振興に大きな功績を遺す一方で、ライオンズクラブの重鎮として活躍した宮崎旅館の元社長、宮崎幸康さんがみまかられて早一週間。「死」は避けられぬ定めとはいえ、もう現世でその謦咳(けいがい)に触れられぬと思うと、無念の極みである。

残念ながら、27日に執り行われた同社並びに雲仙観光協会、雲仙旅館ホテル組合の合同葬(石田直生葬儀委員長)には参列出来ず、通夜のみで失礼させていただいた。大正4年のお生まれだったそうなので、先般逝った我が家の祖母と同世代。改めて心よりの弔意を申し述べる次第だ。

〃雲の上の人〃だった故人とは余り面識はなかったが、記者稼業を始めて間もない頃に、取材をさせていただいた記憶がある。一言でいうと、温厚篤実を地でいくお人柄だったように思う。

そのお嬢様が島原市元市長、鐘ヶ江管一さんのご夫人、保子さん。蛇足ながら、そのご長男の秀國さんは筆者と同年同月生まれで、誕生日は1日違い。つまり、秀國さんも筆者もほぼ同時期に祖父、祖母を喪った、という訳だ。

通夜の席で、遺族を代表して挨拶に立たれたのは、ご長男で喪主の宮崎高幸さん。その中で特に印象に残った一節があるので、ご紹介させていただく。メモを取らなかったため、些か正確性を欠くかも知れないが…。

〈父の遺訓 - 。夫婦仲良くせよ。商売をしていく上でも、生きていく上でも、それが基本中の基本。商売において決して浮気はするな(信義の大切さ)。そして、従業員を可愛がりなさい〉

数少ない楽しみは、たまのゴルフとライオンズクラブの奉仕活動くらいだった、という。〈ライオンズには本当に嬉々として参加していました〉との述懐からも分かるように、「ウイ・サーブ・ウォー」の創立精神を真摯に貫いた天晴れな人生だったに違いない。

ところで、「雲仙」と言えば、日本屈指の歴史ある〃避暑地〃として知られる。通夜の日(26日)は晴天に恵まれ、それこそ平地はうだるような暑さであったが、「原生沼」を渡る風はまるで秋の到来を想わせるような爽やかさだった。

耳を澄ますと「カナ、カナ、カナ…」と、ヒグラシが乾いた鳴き声をあげていた。この点一つとってみても、クマゼミ天下の海岸域とは大違いだ。

私事に戻れば、今日で5回目の法要(三十五日)を迎え、ご住職にお経を上げていただいた。お骨は目の前にあるのだが、今頃おバアちゃんはあの世のどの辺りにいるのだろう…。

これも〃修行〃なのかどうか知らないが、最近は正座を余り苦にしなくなってきた。無心になって経文を聞いていると、なかなかに味わい深い。「時」という字を分析すれば、「日に日に寺に近づく」。なるほど、古人は上手いことを言う。合掌。


2010/07/26

玄関先で千円ゲット!…誰か心当たりのある方は?

「まったく、あがんこと(賞味期限切れの話)ば書いて!皆さん、勘違いさすとん!もうお客さんに水羊羹とか出せんじゃなかね!」 - 。

土曜の深夜帰宅して酔眼(すいがん)朦朧(もうろう)たる中で「母が怒っている!」と、家人の口から聞いた。「お前もか?」と訊くと、「あったり前じゃろもん!」ときた。

いやいや、お二方はまだ〃世の中〃というものを良くご存知でない。「他人の不幸(失敗)は蜜の味」と申すではないですか!つまり、それが人間の〃心理〃であって、世間一般の〃真理〃というものなんですよ!

なぁーんて、偉そうな書き出しで恐縮だが、前回のコラム記事が出た翌朝(日曜)は、まともに母の顔が見ることが出来なかった。怖くて…。

長年の〃マスオさん経験〃からいくと、こうした時には〃逃げる〃に限る。照れ隠しに、今度はこちらが怒ったようなフリをして「仕事がある!」と言って早々に家を出た。

特別に用事があるわけではなかったが、事務所に立ち寄った。どうやら今日も陽ざしが強そうだ…。折角だから、花に水でも遣るか、とホースをたぐっている途中で、「ん」?

よくよく目を凝らして見ると、前日に設置したばかりのプランターの影に無造作に折られた千円札が一枚。まさしく、気持ちは〃現金〃なもので、急に機嫌がなおった次第。

コソッと半ズボンのポケットに忍び込ませたが、「ひょっとして当社を訪ねて来られたお客様のモノではないか?」と思うと、気が落ち着かない。

「ツービー、オアーノット、ツービー」 - 。警察に届けるべきかどうか、ハムレットのような心境で、遥か昔の学生時代のことを思い出していた。

かつて筆者は〃準シロガネーゼ〃であった。住所そのものは「恵比寿」だったが、坂を下って大通りを1つ渡ると、そこはもう「白金台」という別世界。辺りには大使館があって、当時から外国人の数がケタはずれに多かった。

ある朝、散歩をしている途中で、白亜の豪邸の前に〃古本〃が積まれているのを見つけた。古本とは言っても、学生街で見かけるのとは明らかに〃雰囲気〃が異なっていた。

人目を憚りつつ、恐る恐る紐解いてみると、ボッチチェリーの画集に、レバノンの写真集…。カッコイイ!何のためらいもなく下宿に持ち帰った。

と、その中に〃ヘソクリ〃と思しき2万円が何とピン札で入っていたのだ。欣喜雀躍!ヤッタ!ヤッタ!の大歓声!

だが、大金を拾ったのはこの時くらいのもので、失くした総額に比べれば、まさしくもって〃焼け石に水〃なのである。

ところで、この千円、どなたか心当たりがありませんか?


2010/07/23

ダイジョブ死ニャセン…究極、もう笑うしかない!

喉元過ぎれば熱さを忘れる。人の噂も75日 - 。「赤福」や「船場吉兆」など老舗による〃不祥事〃も、はや過去の出来事となってしまいつつある。

ところがどっこい、我が家ではまだ、そうした「悪習」が根深く蔓延っていて、困っている。いや、もっと正確を期すならば、笑ってしまう。

読者の皆さんもそうだと思うが、この季節、まず帰宅して向かうのは冷蔵庫であろう。そこには恐らく、「特売日」を狙って大量に買い付けた食料品が所狭しと押し込まれているはずだ。

勿論、我が家とて例外でない。ところがそんな中にあって、御歳暮や御中元で戴いたに違いない「高級品」の姿をごく稀にだが目にすることがある。

品目は様々だ。ハムやスープ缶の時もあるし、冷やして食べる夏専用のお菓子類である場合も比較的に多い。

「赤福」などの不祥事が露見するまではさほど気にもならなかったが、ああした〃騒ぎ〃以来、知らず知らずのうちに「製造年月日」や「賞味期限」等を気にする自分が新たに生まれている。

3、4日ほど前のこと。上品なパッケージに包まれた、何とも美味そうな「クズきり」が中央部に山積みされていた。

触ってみると、ほど良く冷えており、今日のところはビールは止めにしておくかと、手にした途端に愕然。なっなんと、「賞味期限」を2年も過ぎているではないか!

もしや?と思って、脇の右扉上部に置かれた「きんつば」や「水ようかん」を調べてみたら、いずれも〃同類項〃。

「おいおい、一体どーなってるんだ?」と怒りを噛み殺して、母&娘に尋ねたところ、「ダイジョブ、死ニャセン!」と自信たっぷりの切り返し。まったくもって「恐れ入りやの鬼子母神」揃い、だ。

日付変わって、一昨日。本当に何十年ぶりかの「畳替え」で清掃に追われたお二方。「もう今日は疲れ果てた。夕食はホカ弁にしよう」ということになった。

筆者もその情報を得ていたので、折角立ち寄った飲み屋さんも早々に勘定を済ませ、「ホカ弁」目指して一路我が家へ。

時刻は8時を過ぎたあたりであったろうか。家人はPTAの寄りとかで外出。母は風呂に入っていた。

〈そうそう、今日はホカ弁だった〉。一通り食卓周辺を眺めているうちに、レジ袋に入ったハンバーグ弁当とは別に、酢豚弁当がレンジ脇に置かれていることに気付いた。

ハンバーグは息子の分であろうから、筆者は何のためらいもなく酢豚の方に手を伸ばした。が、何となく〃盛り〃が少ないようにも感じていた。

〃事実〃は一夜明けて判明した。酢豚は父と母の食べ残しの〃合作〃だったのだ。もう力なく笑うしかなかった。


島原城が夏の装い!…足らぬ足らぬは工夫が…

格段に信心深いわけではないが、出張先にある神社を早朝に参拝したり、仏像をじっと眺めたりすることが好きだ。

最近の〃日課〃は菩提寺参り。起き抜けに徒歩で出かけたり、時間に追われて車で乗り付けたりと、移動の手段は様々だが、ロウソクの炎の向こうの遥か先に鎮座まします仏様の慈顔を前にしては、決して嘘はつけない。

線香を上げて「りん」を打ち鳴らし、しばし黙想。ひと月ほど前までは、季節外れのウグイスの啼き声が聞こえていたが、今はすっかり蝉時雨の天下だ。間に時折ウシの声が挟まるのも我が菩提寺の特徴だ。

徒歩の時は、途中、事務所に立ち寄って植栽などに水遣り。まだ誰も来ていないはずなのだが、ネット担当の男性スタッフが徹夜作業明けの眠そうな顔で現れたかと思うと、早朝番組のパーソナリティ(女性)がすでに居たりなんかして、驚くことも度々。

専務(筆者)は飲兵衛でだらしないのに、彼(女)らは本当によく働く。いやいや、専務が頼りにならないからこそ、自分達がシッカリしなければ、と思っているに違いない!?

一汗かいた後、自宅に向かい始めるのだが、最近の「白土湖」はどうもいかん!畔(ほとり)を歩いているだけで、もうすっかり興ざめしてしまう。理由は書くまでもなかろう。

その点、「島原城」はどうか?八尾病院前までたどり着くと、目にも鮮やかな緑色のハスの葉の背景がいつもの年と大きく様変わりしているではないか!

白亜五層の天守閣を松林とともに支える、歴史的な石垣周りの除草が、見事なまでに行き届いているのだ。一瞬、「真夏の朝の夢?」と我が目を疑ったが、紛う方なき現実の光景なのである。

「島原城」(指定管理者)の関係者によれば、今年の夏は、特別に予算付けをしてもらって、綺麗にしたのだそうだ。

ちょっと待てよ!これは、「なぁーんだ、そんなことか…」などと聞き逃す話ではないゾ。例年、正月前は、陸上自衛隊や九電・九電工の協力で行われている石垣清掃が、今年に限って夏場も?

と言うことは、そうした〃試み〃が、仮に「白土湖」周辺でなされたとしても全然不思議な話ではない。いや、もっと前向きに実行されるべきである。

筆者が敢えて述べるまでもなく、「白土湖」は「島原城」や「武家屋敷」「鯉の泳ぐまち」となどと並び称される、島原観光の主要スポットの1つである。

この不況下、市の財政事情が厳しいのは分かりきった話だ。ならば、自分たち(市民)の手で何とかしないといけないと動き出すのが「城下人」(そんな言葉あったけ?)の見識ではなかろうか。

足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。平和な世の中ですけど、そうは思いませんか、皆さん?


和菓子のソニー?…「叶匠寿庵」発展の秘密

先般、ひょんなことから島原菓子工業組合(藤田昌之会長)の総会で挨拶をさせられる破目に。藤田会長とはもう長年の付き合い。加えて、息子の昭比古君とは「不肖の兄弟」(ヤクザじゃないよ!)でもあることから、宴会前に少しだけお時間を頂戴した次第。

が、本音を言えば、正直、面食らってしまった。業界の支持を得て立候補するような政治家という立場でもないし、かと言って、普段からお菓子の研究なんかしてないし…。

「どうしよう?」と困り果てる直前に思い出したのが、以前に読んだことのあるノンフィクション作家、佐野眞一さんが著した『新忘れられた日本人』(毎日新聞社)という本だ。

たまたまその日は東京出張から帰ったばかりだったので、急ぎ荷物を自宅に置いた後、事務所へ直行。乱雑な本棚から目指す一冊を取り出して、職人さんの「仕込み作業」よろしく〃通読〃に努めた。

と、あった!あった!最初に読んだ瞬間、心の底から〃感動〃した一章が。「今日はこれをベースにすれば、立ち往生することもあるまい」と安心して会場に臨んだ、というわけだ。

前置きが長くなってしまったが、主人公の名前は芝田清次さんという、元警察官の方だ。ついでで恐縮だが、お店の屋号は「叶匠寿庵」。本店は滋賀県大津市にある、という。

芝田さんはすでに鬼籍に入っており、現在の当主は二代目ということだが、創業は昭和33年というから〃老舗〃というほどの歴史もない。

ところがこの寿庵、創業から20年足らずで「和菓子のソニー」というほどの名声を博すまでに発展する。佐野さんの取材によれば、その〃礎〃となっているのは、何と言っても創業者の人柄。

戦傷のため片方は義眼というハンディを負いながらも、立派に警察業務をこなす一方で、「このまま定年を迎えても人生の意味がない」と、恩給がつく1年前に依願退職。時に39歳。

お客様を常に大切にするという「経営方針」を徹底して貫き、創業後わずか10年弱で、松下幸之助夫人や裏千家、正田家などの錚々たる顔ぶれが〃お得意さん〃となった。

従業員のほとんどは貧しい山村の出。知的なハンディを負った者や少年院帰りも少なくなかった、という。それでも彼らは芝田さんを中心に、「日本一の菓子づくり」を目指した。

紙幅の関係で、多くの感動的なエピソードは紹介できないが、自らの「傷病恩給」から少年院帰りの元悪童に小遣い銭を渡して可愛がっていたという実話には思わず涙腺が緩んでしまった。

こうした〃愚直〃とも思える家族主義経営で、全国直営店8、デパート等のテナント数は54、年商は約37億円だという(数字はいずれも取材当時)。少しは参考になっただろうか…。


2010/07/21

早くも蝉時雨の大合唱…今から芸術の秋に備える?

やっと「梅雨明け」かと思いきや、休む間もなく突然の「夏日和」。一歩でも外を歩こうものなら、体中から大粒の汗が噴き出る。デブには何とも過ごしづらいシーズンの到来だ。

それでも、早朝や黄昏時に吹く風は、これまでの「ジットリ感」とは明らかに異なる。四季の国!ニッポンの叙情を満喫する瞬間でもある。

クーラーの良く効いた部屋の窓を開ければ、早くも「蝉時雨」の大合唱が聞こえる。儚い命の行方を惜しむかのようなその響きは物悲しくもある。

2つの主催イベントに追われた「連休」もようやく終わった。巷はこれから「夏休みだ」というのに、我が身は一体…?いやいや、仕事があること自体、もっと素直に感謝せねば!

復興サブアリーナと一番街ビジーホールの2会場で開催した「無声映画大上映会」は、客の入りはともかくとしても、なかなかに〃好評〃を博したようだ。

何より、麻生八咫&子八咫さん父娘の熱演ぶりに頭が下がったし、初めて、或いは久方ぶりに触れる「無声映画」&「活動写真弁士」の息の合った迫力に、観客の皆さんも大いに感動して下さったようだ。

先週の本欄でも取り上げたように、「興行的には成功した」とは言えない。しかし、日本独特の〃話芸文化〃にエールを送ったという意味では、ある種〃達成感〃を覚えているところでもある。

チケットを買って下さった全ての団体、個人のお客様に心よりの御礼を申し上げたい。また、ステージ上の挨拶の中でもお伝えしたように、「浄財」として、口蹄疫対策に日々頑張っておられる宮崎県の東国原知事に近く届けるつもりだ。

一方、親和銀行島原支店とともに長年にわたって取り組んできた「囲碁大会」も無事、幕を下ろすことができた。噴火災害時に一時的に中断した年があったにせよ、ことしで43回目を迎える〃伝統の大会〃である。

東京の「囲碁将棋チャンネル」から馳せ参じてきた福岡市出身のS氏も今大会の〃隆盛ぶり〃を心から喜んでくれたし、何より参加して下さった皆さん方の〃笑顔〃が次大会へ向けての大きな弾みとなる。

いささか〃自己満足〃のような話ばかりが続いて恐縮だが、池田武邦先生(元日本設計社長)が仰っているように「文化とは、無名に徹して、前の世代と次の世代をつなぐもの」である。

かと言って、自身が「文化的な人間である」などとは微塵も思っていないが、ほんの少しでもそうした息吹に触れることによって日々の暮らしを味わい深いものにしていきたい、という〃欲望〃はある。

さぁーて、平成22年の7、8月がどういった「サマー・バケーション」となるのか?夏の日射しを存分に浴びて、来るべき「芸術(文化)の秋」に備えるとするか!?


2010/07/18

創業15周年祝賀会?…周辺に当時の〃面影〃なし

ふだんから大変に世話になっている取引先からの〃ご案内〃で、急きょ上京してきた。当然、早割等のチケットは使えないから手痛い出費となったが、それなりの〃成果〃は間違いなく得てきたつもりだ。

メールで送られてきた〃書状〃によれば、「今年めでたく創業15周年を迎え、当初は身内でひっそりと記念式典&パーティを営むつもりでいたが、折角やるからには社外の親しい方々も是非お招きしたい」とあった。

〈10周年、20周年…といった区切りはあっても、15周年とはいかにも中途半端なのでは?〉と訝しい思いもあったが、社長の開式挨拶を聞いて合点がいった。「10周年の時は業績がどん底の状態で、とても祝賀会を開くような余裕はなかった」というのだ。

それにしても、だ。30代前半でそれまで歩んできた糸偏の仕事とは全く〃畑違い〃のIT業界に参入して、僅か15年の間にジャスダック上場を果たすとは、何たる荒技師!

で、なんで当社と仲が良いのかと言うと、3年ほど前、双方が巡り会うべき相手を求めていた矢先に、偶然にも出逢ってしまったという至極単純な理由からだ。勿論、人間同士の〃相性〃も見落とせない要因の1つでもある。

祝賀会場は東京でも有名な目黒駅近くの「雅叙園」。よくよく考えてみれば、学生時代の一時期をその周辺で過ごしていたことがある。ただ、その当時は「雅叙園」に赴くような暮らし向きではなく、駅を挟んで反対側の洋菓子屋でアルバイトをしていた。

今では余り見かけないスタイルのお店だった。何でもご主人は〃斯界の権威〃とかで、全国に多くの弟子がいる、と豪語されていた。奥様は大変に派手好きな方で、宝塚歌劇に出てくるようなブロンドを巻き上げたような髪形をなさっていた。

時給がいくらだったか忘れてしまったが、1日10時間以上は働いていた、と思う。と言うのは、昼間の喫茶コーナーが夜になるとパブに様変わりしていたからだ。つまり、この筆者が白シャツを着て〃ボーイ〃をしていたというわけだ。

当時はまだカラオケなどはなく、NHKのど自慢で日本一になったという本田さんというチョビ髯の兄ちゃんが客のリクエストに合わせてギター伴奏を行うなどして、店はそこそこ繁盛していた。

ボーイ職の先輩は銀座のクラブ勤めの経験を持つ島村さんと根来さんという2人組。「いいか学生さんよ、ホステスはこうやって口説くんだぞ!」と熱心にご教授いただいたが、よほど才能がないのか、この年齢になるまでモノにした例がない。

祝賀会の帰路、お店のあった周辺を歩いてみた。が、もう何の〃跡形〃も残っていない。ご主人や奥様、アルバイトの先輩方は今頃どうしているのだろう…。


2010/07/14

サヨナラ、つかさん!…偉大なる才能の喪失を惜しむ

葬儀の後処理に初盆(精霊船)の準備…。何やかやと〃雑事〃に追われているうちに、劇作家「つかこうへい」さん関連の訃報が各紙一斉に報じられている。享年62歳。

恥ずかしながら、14日付の『天声人語』(朝日)を読んで初めて、その名の由来が分かった。在日韓国人2世の立場から「いつか公平な世の中に」という、切なる願いが込められたものなのだ、という。

個人的には何の面識もないが、東京での学生時代に、つかさんが原作を手がけた『熱海殺人事件』の舞台興行をおこなったことがある。

演じた役柄はこともあろうに、主役級の「大山金太郎」(マヌケな犯人)。いま振り返ってみれば、何とも大それたチャレンジだったわけだが、良き青春の思い出でもある。

当時、まだ脳細胞が老化していなかったせいか、「セリフ覚え」だけは抜群だった。そのため、稽古場でシドロモドロしている共演者を見ると、無性に腹が立ったものだ。

演出はやたらと威張りたがるMという男。何でも福井を代表する進学校の出身とかで、不思議なほど「東大落ち」を自慢していた。しかしまぁー、そのお蔭と言っては何だが、東大や慶應の芝居好きの面々と楽しくやれたのも事実だ。

一番印象に残っているのは、東大教養部のある「駒場寮」での合宿。筆舌に尽くし難いほど、汚いジメジメとした劣悪な住環境だったが、キャンパスを歩いているうちに「自分も東大生!?」のような気分も味わうことができた。

本番は池袋駅からほど近い椎名町の雑居ビルの一角で迎えた。客の入りは上々。万事〃お調子者〃である性格が幸いして、巧くやり通すことができた。

後日、別のプロ劇団から誘いの声がかかったのも事実だが、共演の女優さんが余り魅力的でなかった(ブス!)という印象が強く、丁寧にお断りした。

もし、あのまま演劇の道を歩いていたとすれば、今頃は相当な「役者」になれていたはずだが、人生に「イフ」はないし、熾烈な芸能の世界がそんなに甘いはずもない!

他のつか作品で言うと、映画『蒲田行進曲』が忘れられない。田舎モンにしか分からない「虚栄心」その裏に潜む「弱さ」「悲しさ」等々が随所に散りばめられていて、涙を流しながら笑いころげた。

確か、つかさんの奥さんとなったのは女優の熊谷真実さんで、農協のヨーロッパ旅行の一団を引率していた時に、飛行機の中でお見かけしたことがある。

その時、勇気をふりしぼって声を掛けようとした記憶があるが、お客さんの対応に追われてついその機会を逸してしまった。

往時茫々 - 。歳月は川のように流れ、先の行方も知れない。同時代のほんの〃一瞬〃を共有した偉大なる才能の喪失を惜しみつつ、ご冥福を祈る。


2010/07/08

池田武邦さんの講演④…なぜ「敗戦」と言わない?

「文明」と「文化」の共生―。私がそうした考えを持つようになったのは1975年頃から。

当時、私は「筑波研究学園都市」の建設を国から任され、防風林の役割を果たしていた周囲の松林の処遇の問題(保存VS伐採)で揉めたことがある。もちろん、私は「生態系を大切にする」という考えだったので「残す方」を主張。そして、採用された。

この発想については、「オランダ村」建設の際にも、強くその「必要性」を提唱し、神近社長も納得してくれた。採算面からすれば、浄化槽に多大な経費を要する私の主張はとんでもないものだったかも知れないが、やはり神近さんはタダモノではなかった。

その延長線上に「ハウステンボス」(佐世保市)があるわけだが、あの土地(県工業団地)はとても植物が育つような環境ではなかった。

私は同社の「環境文化研究所」の所長として、足掛け10年間にわたって従業員の教育に当たり、一緒に知恵を絞って、汗を流してきた。また、ゴミそのものを減らす工夫も重ねてきた。

おかげで、生態系は見事に回復することが出来たし、排水で大村湾の環境を汚すこともない。こうした「環境を大事にすれば、経営は大丈夫」という考え方に今も変わりはない。

ハウステンボスは江戸時代に見るような「循環型社会」の実現を標榜する、紛れもない21世紀型のプロジェクトなのである。

【取材後記】講演後、宅島常務が池田先生ご夫妻と一緒に食事をする場を設定してくれた。先生は「86歳」という実年齢をまったく感じさせない、驚くほどの健啖家で、目の前の料理を美味しそうに平らげながら、こう質問された。

「君、どうしてマスコミは『終戦』という表現しかしないのかね。私に言わせれば、あれは『敗戦』だよ」-。

筆者は一瞬「答え」に窮してしまった。確かに、ほとんど全てと言ってよいほど、マスコミの記述は「敗戦」ではなく、「終戦」である。あたかもそう記すことが、「平和主義者であること」を証明するかのように。

恥ずかしながら、勉強不足で戦時の事情にも疎いものだから、何と答えてよいものか咄嗟に判断しかねた次第だが、言われてみたら確かにそうである。

「勝とう!」と思って戦地に赴いた以上、降服をすれば、それは「敗北」に他ならない。それなのに「敗戦」と言わないのは、「客観性」を装った責任逃れの筆法なのかも…。

一方で、「当事者」ではないのだから、そんなことに拘らなくても、という考え方もあろうが、今の日本で起きているおぞましい事件の数々を考えれば、精神風土的な意味では、先生のおっしゃる「敗戦」という表現がより相応しいのかも知れない。

-おわり-


2010/07/07

池田武邦さんの講演③…人間も自然界の一部である

事実、新宿三井ビル50階の「日本設計」のオフィス環境は、空調も良く効いているし、申し分ないほど快適であった。

ところが、都心に雪が舞ったある日のこと。ビルから戸外に出ようとしたその瞬間、冷たい雪片が頬を直撃したことで、私の価値観は激変した。得も言えないほどの気持ちの良さ!

確かに、ビル内は快適この上なかった。しかし、何かが違う…。私はこの時、人間が自然界の一部であることを、身をもって実感したと言える。知らず知らずのうちに、精神的なストレスが溜まっていたのかも知れない…。

近代哲学の先駆者として知られるデカルトは「吾思う、ゆえに我あり」と唱えた。当時(1600年代)、ヨーロッパでは「魔女狩り」が横行していた。

要約して言うなら、デカルト的な発想は、常に人間を中心に据えている。「人権主義」と言い換えることもできる。

これに対して、日本的なモノの考え方は「人間も自然の一部である」というのが大原則。分かりやすく言えば、極悪人でも斬首の後は「仏様」だし、「一寸の虫にも五分の魂」とも言うでしょう。

そもそも「後進国」などという表現自体、文明的な価値基準でしかない。私は今、西彼町に庵(いおり)を構えて暮らしているが、有体に言えば、私の自宅は、茅葺きの「掘っ立て小屋」。確認申請を出しても、まず通らないだろう。

しかし、その伝でいけば、世界最古の木造建築の最高傑作と言われている奈良・法隆寺だって、今の建築基準法からすれば、間違いなく違法の部類だ。

残念ながら、現代の我々の価値観は、余りにも文明的な側面(価値判断)に捉われ過ぎている、としか言いようがない。

例えば、江戸時代の評価。一般的には「鎖国=暗黒」といった誤まった考え方が、いまだに一部にはびこっているようだが、そんなことはない。江戸時代こそ典型的な「サスティナブル」(持続可能な社会)だったのである。

大人用の一反の着物があれば、古びてきたら「子供用」→「オムツ・雑巾」と形を変え、最後は「ボロ」として草鞋(わらじ)の強化材として使われていた。つまり、徹底した「無駄なし社会」だったのだ。

本来、建築というのは人間が作るものだが、同時に、建築そのものが人間を創っているということも忘れないでいただきたい。

私は「文明」そのものを否定しているつもりはないし、それはそれでとても大事である。しかし、それのみに走っていけない、ということだ。

「文化」との関係で言えば、文化が「求心力」としての機能を果たしているとすれば、文明のそれは他ならぬ「遠心力」である。そのバランスこそが大切なのである。

-つづく-


2010/07/06

池田武邦さんの講演②…日本初の「超高層」に挑む

先進国と言うのは、「文明」の価値観で動いている。しかし、それを支えている「欲望」というものが遮二無二突き進んでいけば、待ち受けているのは「破滅」でしかない。

戦時中、私の同期生(海軍兵学校72期)は625人いた。そのうち生き残ったのは290人。つまり335人は亡くなってしまったわけだ。

私は戦艦「矢矧」(やはぎ)に乗っていたが、都合3回、撃沈された経験を持っている(※この辺りの事情は文藝春秋6月号の梯久美子さんのレポートに詳しい)。

戦後は、祖国日本の復興のために、建設業界に入った。最初に手がけた大きな仕事は、丸の内(東京駅前)の日本興業銀行の空調工事。地上8階、地下2階。日本初のエアコン付きビルを建設する計画だった。

その時、私は日本の建設現場の「後進性」(時代遅れぶり)を、イヤと言うほど味わった。米国では、戦争の最前線でもブルドーザーを駆使していたというのに、日本は相も変わらずの手掘り作業。雨が降れば休まないといけない。

「いかん、このままでは復興は遅れてしまう…。もっと近代化を図らねば!」との思いから、造船所や自動車工場の生産工程を参考に、「プレハブ工法」を思い立った。

最初のうちは、ゼネコン(大手建設会社)から睨まれた。しかし、頑としてその圧力をはねのけ、工事を進めていった。

当時、不動産業界では、三菱地所が圧倒的な優位性を誇っていた。その状況を打破しようと立ち上がったのが、三井不動産の江戸英雄さんだった。

私は江戸さんの依頼を受け、母校・東大の地震研究所の武藤教授から理論的な指導をいただきながら、日本で初めての超高層ビルの建設に挑むことにした。それが霞が関ビルだ。

「超高層」という発想は以前からあったものだったが、いかんせん前述したように、日本の建設現場は遅れに遅れていた。

不可能を可能にしたのは、それまでの「計算尺」に代わる「コンピュータ」の出現であった。私は江戸さんに「コンピュータを使えば出来ます」と宣言した。

1960年着工。約8年がかりで完成したのだが、最初に頭を痛めたのが「柔構造」という問題。

地上高200メートルにも達するビル最上階部分では、窓枠(カーテンウォール)から雨が漏れないようにするのが一苦労だった。空調に係わる煙突の問題でも随分と悩まされた。

そうした苦心惨憺の末に霞が関ビルは出来上がったわけだが、設計の責任者としては、その安全性&快適性を実証する意味でも、自らそこに居住することも大切だと考えた。

新宿の三井ビル50階に「日本設計」の本社を構えたのも、そのような理由からだった。

-つづく-


2010/07/05

池田武邦さんの講演①…「文明」と「文化」の違い

我が国初めての超高層ビル(霞が関ビル)の設計者にして、ハウステンボス計画の理論的指導者としても知られる池田武邦さん。86歳。社会全体がかつてない混迷の時代を迎え、今また俄かに、その存在がクローズアップされている。

ご本人の思いとは裏腹に、まるで「時の人」のような感じなのだ。既報の通り、6月号の文藝春秋誌上で取り上げられたのをはじめ、「憂国の士」然とした筆法で、作家の藤原正彦さん(お茶の水女子大名誉教授)が同誌7月号で、改めてその「生き様」や「思想」を解き明かしている。

池田先生の卓話は10年以上も昔に伺ったことがあるが、今回またその「機会」を作ってくれた宅島建設常務の宅島寿孝さんに感謝の意を表しつつ、先月23日に「みずなし本陣深江」で開催された講演の一部要旨を紙上で再現させていただくことにする。

まずは「文明」と「文化」について―。両者は時々混同されてしまいがちだが、一言でいえば、前者が科学技術の発展がもたらすものであるのに対して、後者は生活を営んでいく上での知恵のようなものだ。

より分かりやすく述べるなら、携帯電話やパソコンは「文明」の部類に属し、山菜の採り方(根こそぎはダメ!)などは「文化」と言ってよいだろう。方言もそれぞれの地域の立派な「文化」である。

両者の特性を逐一比較してみると、〈普遍性-独自性〉〈優劣-対等〉〈創造-伝承〉〈欲望-足るを知る〉といった図式が成り立つ。前者が「文明」で、後者が「文化」である。

国を挙げての龍馬ブームのようだが、江戸時代末期に、米国のペリー提督率いる「黒船」(蒸気船)が横須賀の浦賀沖に現れて、日本国中が上を下への大騒ぎだったことは、皆さんよくご存知の通りだ。

この「黒船」などは、まさしくもって「文明」を象徴するもので、「軍事力」というフィルターを通して見ると、実に「優劣」がハッキリしている。

一方で、四季のある日本と、サバンナ気候を比べて、「どちらが優れているか?」などを議論するのは、まったくもって意味のないことだ。これらは単に「生活環境」の違い。すなわち「文化」の違いに他ならない。大切なのは「郷に入らば、郷に従え」という考え方を持つことだ。

「足るを知る」という日本独特の考え方(知恵)を端的に表しているのが、京都・竜安寺の「つくばい」だ。皆さんもご覧になったことがあると思うが、まん中の「口」を軸に、「吾」「唯」「足」「知」の4文字が彫られており、「ワレ・タダ・タルヲ・シル」と読み下すことができる。

言うなれば、これこそが、日本文化の本質だ。これに対して、欧米諸国の文明は、進歩や発展がなくなれば、一挙に停滞してしまう。そこに最大の特徴がある。

-つづく-


2010/07/03

オスの涙は武器?…ヌカ喜びの「ナキオ君」

抹香くさい話が続いて恐縮だが、筆者は昔から涙もろい性質(たち)なのである。テレビを観ながらでも「感動的なシーン」に出くわすと、簡単に涙ぐんでしまう。

悲しいことがあっても、ぐっと奥歯を噛み締め、遠くを見やって涙をこらえる芸当など、まず出来ない。方言上の分類では「泣き(く)べし」(「泣き虫」の意)に属する。

したがって、葬式にハンカチは必需品だ。たとえ故人が「あかの他人」であっても、弔辞の際に遺族席などから嗚咽(おえつ)の声が聞こえてくれば、間違いなくもらい泣きする。

先日、祖母の葬儀の後、気丈でなる親族の一人から、早速「ナキオ君」なる渾名(あだな)を頂戴した。別段、光栄ではないが、言い得て妙である。

そう言えば、韓国や中国には「泣き男」や「泣き女」という職業があるやに聞く。残念ながら、まだ出会ったことはない。よもや「専業」ではあるまいと思うが、実のところは分からない。

もし仮に、それが「本職」だとすれば、海外旅行の際の出入国カードの「職業欄」にどう記すのだろう。まずもって、欧米の管理官には理解されまい。

その手の話でいけば、ウソかマコトか知らないが、演歌歌手の村田英雄さん(故人)に有名なエピソードがある。性別を表す「SEX欄」に「週3回」と書いたのだと!?

話は変わるが、1日付けの日経新聞の社会面で、面白い「囲み記事」を見つけた。東京大学・東原和成教授のマウスを使った研究によれば、オスの涙は「武器」になる、と。

何の武器かと言うと、オスの涙には、メスの性欲を刺激する「たんぱく質」(性フェロモン)が含まれているというのだ。だとすれば、「ナキオくん」の異名を持つ筆者なんかは、もっと「モテモテ」であってもいいはずだが…。

研究の成果は権威ある英科学誌の『ネイチャー』に1日付けで掲載されたというから、「悲しみの涙」が「歓喜の涙」に豹変できる日も近い?

そんな「淡い期待」を抱いて読み進めていたら、ラジオ出演のために弊社を訪ねていた北田貴子さん(北田物産)が途中から割り込んできた。

そして一言。「えーっ、でも『ヒトにはない』って書いてありますよ!」と。狼狽(ろうばい)した筆者が「どこ?どこ?」とひったくるように紙面を取り上げると、まん中の辺りに確かにその「見出し」が…。

冷静になって考えてみれば、そりゃそうだろう。目を真っ赤に泣きはらして鼻水をすすっている「泣きべし」より、高倉健さん風の「耐える男」の方がもてるに決まっているさ!

まだ喪も明けていないのに、こんなバカげたこと書いて、亡くなった祖母に怒られてしまうかな?安心して成仏してね、おバアちゃん!


2010/07/02

死は人間教育の原点…透けて見えてくる〃人間模様〃

先月26日に祖母が他界したため、本欄もしばらくお休みさせていただいていた。まだ「忌明け」ではないが、今日が「初七日」。そろそろ復帰せねば!

生まれて初めて「葬儀」なるものを取り仕切ってみて、驚くことが沢山あった。と言うより、知らないことばかりだった。

まずもって「死」というものの定義付けである。デカルト風に考えれば、「脳死」そのものが「死」に他ならないが、では「魂」の行方は何処に?

病室で末期を看取った後でも、しばらくの間は心臓は動きを止めず、心電図の波長がほぼ一直線になった時点で「臨終」を告げられた。

その後は、悲しみにくれる間もなく遺体を自宅に運んで「仮通夜」「通夜」の準備作業。連絡先に落ち度はないか、紙に落として確認を取った後でもなお残る不安…。

そのうちに葬儀社のスタッフが現れ、あれこれと資料を見せられながら、択一方式で「葬儀の流れ」が決まっていく。当方はまだ生身の体だから、腹も空いてくる。

頃合を見計らってコンビニでサンドイッチやオニギリの買出しを済ませ、それを頬張りながら「遺影」の写真を探す。普段からそれ用の写真を撮影している人ならいざ知らず、これがなかなかの厄介者である。

埃のかぶったアルバム類をひっくり返しながら適宜「候補作」を物色していくのだが、懐かしさにかまけて、ついつい見入ってしまうことも。

そうこうしているうちに棺桶が届き、遺体を安置。映画『おくりびと』の世界そのままに、綺麗に「死化粧」を施してもらったその寝顔は、驚くほど安らかだった。

どこでどう聞きつけてこられたのか、早くも弔問のお客様がお見えになる。親身になって故人とのつながりをしみじみと話して下さる。悲しみは倍加するが、遺族としては有難いお心遣いである。

通夜会場では、町内会の世話人の方々や会社の関係者が受付業務に追われていた。遠くの親戚より近くの他人とは、まさにこのことか!

定刻きっかりに、菩提寺住職の「読経」が始まる。いつになく耳を澄ませつつ、神妙な心持ちで「南無阿弥陀仏」を唱える。故人との思い出が浮かび、また消えていく。

通夜の「目覚まし」と並んで島原独特の風習である「葬儀前火葬」の現場で小さくなった遺骨を拾う。年端もいかない義妹の子供たちが不思議そうな表情を浮かべている。

個人的な思いだが、これぞ「人間教育の原点」であろう。すなわち「生あるものは死す」と。

昨日までにほぼ、頂いた「目覚まし」と「香典」のデータ整理を終えた。おやっ?と思う人。或いは、来るはずべき人の記帳の不在…。娑婆での人間模様の一幕が透けて見えてくる。