2009/01/31

真紀子節は炸裂したが…テレビと新聞の報道の違い

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

相も変わらず、風邪なのか鼻炎なのか判らないグスグス状態が続いている。インフルエンザの予防接種は済ませているので、よもやその兆候ではあるまい。

一昨日からの生暖かい低気圧のせいで天候がすぐれないことが、その要因なのかも。その点、この方は元気ハツラツであった。

昨日行われた衆院本会議で、民主党会派から代表質問に立った田中真紀子女史(無所属)のことだ。夕方、散髪しながら民放テレビのニュース番組を続けて見ていた。

白のスーツに父親譲りのダミ声。現職閣僚は言うに及ばず、引退した二人の総理までヤリ玉に挙げた。民主党関係者にはさぞかし痛快であったろう。小沢一郎代表のにやけた表情が、そのことを如実に物語っていた。

一方、「口撃」を受ける側代表の麻生太郎首相は努めて平静さを装ってはいたが、その顔色からして、相当怒り心頭に達しているようにも映った。

真紀子女史は「稀代」と言っていいほどの演説の名手である。何より、その喩え方が並でない。思わず哄笑を誘うレトリックの巧さは抜群である。

茶の間の庶民は、そんな快刀乱麻ぶりに拍手を送る。そして、「さすがに『今太閤』と呼ばれた角さんの娘だけのことはある』と賛辞の声を惜しまない。

しかし、翌日の新聞を開いてみると、テレビ局の大はしゃぎぶりとは一転して、地味な取り扱いに終始していた。裏を返せば、「真紀子節は極めてテレビ向き」ということだ。

こんな事は、筆者ごときが賢しげに解説する話でないことは重々承知しているが、政治におけるテレビ報道の在りようを、もう少し考え直す必要があるのでないか。

国会中継は手を加えないので、格段問題にする必要はあるまい。あるとすれば、視聴率稼ぎの余りの「大衆迎合主義」だ。

となると、真紀子女史は「国会議員」という肩書きの付いた単なる「タレント」に堕してしまう恐れさえ出てくる。もっとも、最近はそうした手合いが増えているようだが、いかんせん「役者」が違う!!

目白の田中邸は豪壮な造りで知られる。大通りに面した、これまた堅固な門扉はとても「庶民派」とは言い難い。麻生総理の母校である学習院大学からもほど近く、椿山荘までも歩いてすぐだ。

質問で、真紀子女史は総理のダンディズムを痛切に皮肉って、「即時解散」を迫ったが、本当の庶民の立場から言わせると、お二方とも典型的なセレブ一家ではないか。

真紀子女史は自宅近くでフランス料理店を営んでおられると、ある雑誌に紹介されていた。一方の総理は九州を代表する企業グループの総帥の出だ。

言われるだけ言われて、爺さんがやった「バカヤロー解散」に踏み切れない総理の心中やいかに?


2009/01/28

伊達と杉山の共通点…朝青龍は「悪役」でいて!!

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

クルム伊達公子と、杉山愛。さて、二人の共通点は何か?と考えたら、世界の女子プロテニス界で活躍する日本人という以外にもう一点あった。

エクボである。漢字で書くと「靨」。諺では「痘痕(あばた)も靨」や「靨は七難隠すなど」などがあるが、エクボが嫌いな人はそうおるまい。

第一、可愛らしいではないか。多分これは「当て字」だろうが、パソコンのキーボードを叩いていたら、「笑窪」という表記も見つかった。

「笑う門には福来る」とも言う。やはり「笑顔」は大切だ。苦虫を噛み潰したようなシカメ面の人間には、「耳寄りの話」などは舞い込んで来ないだろう。

悲しい顔には、エクボは似合わない。にっこり微笑んだ際にふと目にする、その小さな〃存在〃に、人は安堵するものだ。

どうでもいい話だが、伊達公子は名前の頭に「クルム」が付く以前から〃ファン〃であった。強いばかりでなく、両のエクボに代表される愛くるしい表情が魅力的だったからだ。

外国人レーサー(ドイツ人?)と結婚した時は少々ショックだったが、昨年からのカンバック劇は「お見事!!」の一言。

筆者とは、一回りほども違う世代(いわゆるアラフォー世代)だが、「年はとっても、やればできるんだ」という〃真実〃を実践してくれた姿には、心底敬服している。

その意味でいけば、横綱・朝青龍の「復活劇」も素晴らしかった。場所前の横綱審議会などの「不評」を、持ち前の「負けん気」で吹き飛ばした感があるが、手放しで喜べないのも、この人のこの人たる所以(ゆえん)である。

体の張りや艶は玄人(くろうと)ではないので分からないが、2年前の島原場所で一緒に記念写真におさまった際に見た肌艶は実に美しかった。ただ、その立ち居振る舞いに、ある種の「傲慢さ」を如実に感じ取ったのも事実だ。

大相撲が国技である以上、最高位の横綱に「品位」や「品格」が求められるのは、当然と言えば当然のこと。ただ強ければいい、というものではない。

今回の優勝インタビューでは、今までよりは少し殊勝な言葉も吐いたようだが、今更その〃売り〃を変える必要もあるまい。

「悪役」のままでいい。何の世界にも「ヒーロー」(英雄)と「ヒール」(憎まれ役)がいて、そのぶつかり合いに、観衆は熱狂し、大きな拍手を送る。

では、もう一人の横綱・白鵬が「ヒーロー」かということになるが、どう贔屓(ひいき)目に見ても、それは無理だ。何故なら、日本人でないからだ。

大相撲ファンなら誰しもそう思っているはず。「早くモンゴル勢をなぎ倒すような日本人横綱が誕生しないかなあ…」と。できたら、エクボが素敵な!?


2009/01/25

イエス・ウイ・キャン…で「その目的」は一体?

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

地獄の一週間であった。来る日も来る日も「新年会」が続いたのである。そして、きょう土曜日がいよいよ打ち止めだ。ただし、長崎市内まで出向かなくてはならない。

「体調」はさして悪くはないが、すこぶる「快調」と言うほどでもない。思うに、その日の「気分」は天候次第だ。曇天や雨の日は憂うつになりやすいが、今日のように快晴となれば、俄然元気も湧いてくる。

「天気晴朗なれど波高し」とは、昔懐かしい「テレビ番組」(名前は失念)冒頭のナレーションだが、ネットで調べていたら、俳優、中村雅俊さんのブログタイトルでもある、という。

就任演説に200万人もの聴衆を集めた、米国第44代大統領、オバマ政権の華やかな船出にも、この言葉は不思議なほどピッタリと当てはまる。

長身でハンサムな若き大統領(47)がひとたび「イエス・ウイ・キャン」とうそぶけば、「時代の要請」というスポットライトの向こうにうごめく「幻影」の存在を信じて、世界中の人々は「我が意を得たり!!」と絶叫する。

確かに「絵になる光景」である。「そう信じたい気持ち」もひしひしと分かる。「是非そうあってほしい!!」とも願う。ただし、だ。「キャン」という助動詞につながる動詞というか、「目的語(節)」の存在がいかにも危うい。経済の建て直しなのか、戦争の終結なのか、はたまた強いアメリカの再現なのか…。

注意すべきは、この眩いばかりの「雰囲気」の余波だ。「高揚感」の後に「虚無感」が控えてはいまいか。「結果」を急げば急ぐほど「焦り」が生じ、「失策」にもつながりかねない。

「大統領」は、政界の最高責任者であると同時に、「軍の司令官」でもある。「統」という漢字を訓読みすれば「すべる」。くれぐれも「上滑り」してもらっては困る。

幸い、オバマ氏は「冷静な性格の持ち主」と伝えられているので、「よもやの事」はあるまいが、「目的」はハッキリとすべきである。ひょっとしたら、その数が余りに多すぎて、表しようがなかったのかもしれない。

言い方を換えるなら、「統べる」立場である以上は、「迂闊(うかつ)なことは口に出せない」というジレンマ、トリレンマ…のせいであろうか。

ならば、それぞれの自治体、企業、国民等々が「明確な目的意識」を持って動くことが重要になってくる。大統領や総理の職責はそれらを統括することだ。それぞれの立場で「何ができる」のか?まさに「ケネディ精神」の真髄がそこにある。

昨日歌った『春が来た』という文部省唱歌に感動した - 《♪山に来た、里に来た、野にも来た♪》見事なまでの「目的語」の表記ではないか。早く日本にも世界にも「春」が来ますように!


2009/01/23

議会は言論の府!!…新大統領に見る「言葉の力」

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

新聞もテレビも、オバマ、オバマ、オバマ…の大合唱である。各種報道によれば、首都ワシントンに集まった人出は、何と200万人とか。

支持率は8割を超え、世界中の人々が歴史的なニューヒーローの誕生を祝った。バラク・フセイン・オバマ。47歳。「バラク」という言葉には「祝福」の意味が含まれている、という。

なぜ人々はこれほどまでに熱狂するのか。ある新聞論調は「時代の要請」という表現を使って、その因果を説明している。裏返せば、それほどまでに現代社会は混迷の度を深めている、ということだ。

往々にして欧米の政治家の吐く言葉は哲学的だ。生来の宗教的な裏付けがあるせいだろうか、何かしら考えさせるものがある。

「翻訳」という過程を経ているせいかも知れないが、同時に「我が国政界は…」との忸怩たる思いが免れないのも事実だ。

先般の参議院予算委員会で民主党の石井一副代表が行った質問のあり方(品位)が、改めて問われている。テレビ中継をご覧になった方ならすぐに想い出されるであろう「あのシーン」のことだ。

いわゆる「漢字テスト」問題。同議員は文藝春秋誌に掲載された麻生総理の論文から抜粋した漢字熟語12文字を、持参したフリップを掲げて「ご自分で書かれたのなら読めるでしょう」と、皮肉たっぷりに迫った。

かりそめにも一国の総理に対して、である。筆者も即座に「これはやばいなあ…」と感じたが、案の定、同じ思いを抱かれた方も大勢おられたようで、「党内外から批判が相次いだ」と産経新聞が報じている。

同議員には雲仙・普賢岳の噴火災害時に、請願団として色々と相談に乗ってもらった経緯もあるので、複雑な思いでそのやりとりを眺めていた。

ところで、国会審議にこうしたフリップ類が登場するようになったのは、いつ頃からだろうか。分かりやすいと言えば分かりやすいが、テレビ中継に毒され過ぎている側面も否めないのでないか。

今さら言うまでもなく、中央・地方を問わず議会は「言論の府」である。したがって「言葉そのもの」を唯一無二の武器にして戦うべきであって、「小道具」を前面に押し出すような手法はいただけない。

もっと言うなら、最近の日本の政治家には「言語による表現能力」が欠けているのでないか。その点が〃新大統領〃との大きな隔たりである。

日本文化独特の「腹芸」も大いに結構。でも、政治活動の基本が「言葉」であることに、誰も異論はあるまい。ましてや、事は経済だけに留まらない。今や政治も国際社会を見据えた動きをしなければ大きな過ちを犯すことになる。

「イエス・ウイ・キャン」。漢字もいいけど、皆さん、もっと英語の勉強もなされては!?


2009/01/22

世の中は尾頭付きで!!…「つ」の語源を知りませんか?

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

一個でも「ツー」とはこれいかに?一度で出しても「サンド」(ゴルフ用語)と言うがごとし。相変わらずバカな書き出しだが、鼻先のデキモノがやっと治り始めて「つ」ができた。

「つ」とは島原弁で言う「かさぶた」のこと。最近はあまり耳にすることがない。仲間だった「赤チン」もいつの間にか姿を消して久しい。

ガキの頃、野山を駆け巡ってはよくケガをした。治療方法は「オキシフル」に「赤チン」と相場が決まっており、治りかけの「つ」をはがすのが秘かな楽しみでもあった。

筆者のヒザ小僧には砂利道で激しく滑り転んだ時につくった「傷跡」が今でも残っている。右手人差し指根っこの半円系の傷跡は、空手の真似事をしていた際にこしらえたものだ。

何針か縫わねばならない大怪我(?)で、元南高医師会長だった菅幸哉先生(故人)が治療をして下さった。

先生は豪快な人柄で、島原中学時代は弊社社長と同級生だった。晩年、胃ガンを患われた際に、社長共々見舞いに伺ったら、「もう手術も済んだんば」と言って缶ビールを美味そうにグビグビ。「お前も飲め」と勧められたが、運転を理由に断った。

いかん、いかん!!「つ」の話からすっかり脱線してしまったが、「つ」は漢字で一体どう書くのだろうか?誰かご存知の方がおられたら、是非お教えいただきたい!!

ところで「思い込み」とは恐ろしいもので、「尾頭付き」という表現をつい昨日まで「御頭付き」と勘違いしていたのだ。つまり、鯛などの高級魚の頭の部分を「丁寧に」表現したものだ、と。

実際、この話を周囲の何人かに聞いてみたら、みんな同じように思っていた、との答え。筆者の場合は、たまたま眠れぬままにページをめくっていた重松清の小説『とんび』の中でその表現に出合えたことで間違いが判った。

島原には「鯛のカブト蒸し」という名物料理がある。南風楼のかつての名調理人だった高木さんが考案した和食メニューで、膝の上に「ヨイショ!」と置いて食べるのがみそ。

見た目も素晴らしいし、ほのかな甘酸っぱい味付けは酒の肴にも最高だ。もっとも最近は、とんとご無沙汰だが…。

勝手な解釈だが、恐らくこの「カブト蒸し」のイメージが余りに強すぎたため、ついつい畏敬の念を込めて「御」という字を充てていたのだろうか…。

もっとも「御頭」(おかしら)という表現がないわけではない。こちらは、時代劇などでよく使われているようだが、どうにも「悪党の親分」といったイメージが付きまとう。

やっぱり世の中は「尾頭」でなくっちゃ!!トップも庶民も一体となって動いてこそ上手くいく!!「尾」が先に付いているところも良い!!


2009/01/21

夜中にネットの工事…就任演説はテレビでどうぞ!!

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

鼻炎の具合が悪くて、昨夜はなかなか寝付けなかった。余りに頻繁に鼻をかむので、先端にニキビの親方のようなものができて、どうにも気になる。鏡で覗いたら大したことはないのだが、指先でいじると痛い。

まあ、そんなこんなでここ数日、とっても憂鬱である。朝から机回りの整理をしながら、国会中継(参議院予算委員会)をずっと見ているが、退屈極まりない。本質的には同じ質疑の繰り返しである。

さて、海の向こうのアメリカでは、いよいよ本日(21日)未明、第44代大統領が誕生する。ケネディ以来と言われる〃演説の名手〃はどういった就任スピーチをするのだろうか?

私事だが〃時勢〃に遅れてならじ、と早速『オバマ演説集』(朝日出版社)を買ってきた。「基調演説」から「勝利演説」までをカバーした完全対訳版で、CDが付いて1,510円。

ルンルン気分で、通勤の車内で聴いてみたが、まったくもってチンプンカンプン。語尾の「オブ・メリカ」だけがやけに耳に残っている。

まだ邦訳部分に目を通していないので、無理からぬところなのだが、素人耳(?)にも実に格調高い響きである。新大統領には「言葉の力」を存分に発揮してもらって、一日も速く経済危機を克服していただきたいものだ。

ところで、小浜温泉では「便乗イベント」が始まったようだが、大いに結構ではないか。とにかく、この停滞した現状を打破するには、まずもって元気を出すことが肝要だ。

マスコミがこぞって取り上げることで「宣伝効果」も生まれるし、何より大衆は絶えず「楽しい所」を求めて動く。

ただし、「本物」であることも忘れてはならない。単に「目立つから」といった理由でおざなりの企画に終始したら「逆効果」さえ招きかねない。

言い換えるなら、関係者が真に「本気」を出して、歴史的な激戦を制した新大統領に心のこもったメッセージを送り届けられるか。問題はこの一点に集約される。叩けよ、さらば開かれん、だ。

それと、アメリカ人は、ジョーク大好き国民。彼の地で成功しようと思ったら、「ユーモアのセンス」は不可欠だという。

また、「粘り」も必要。就任時の「お祭り騒ぎ」だけで満足せずに、思わず周囲がニンマリとするような「傑作アイデア」を連発してほしい。頑張れオバマ大統領!!燃えよ小浜!!

最後に、事務的な連絡を一つ。弊社ではインターネット環境の改善のため、21日午前1時から同5時頃まで、通信サービスを停止します。

センターモデム機器の入れ替え作業に伴うもので、利用者の方にはすでにメールで連絡済みだが、悪しからずご了承のほどを。

なお、テレビサービスへの影響はありません。


2009/01/18

香蓮ちゃんと出会う!?…「ハドソン川の奇跡」に感動

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

一昨日、思わぬところで宮崎香蓮ちゃんと出会った。と言っても、本人ではなく、東京・恵比寿のJR山手線乗り換え階段で見かけた大判ポスターがその相手である。

「東京の水」と題する横2枚組みのポスターに香蓮ちゃんは出ていた。陸続と押し寄せる人波に押されてじっくりと眺めることは出来なかったが、恐らくそのクライアントは東京都の水道局あたりではなかったか…。

まさか、香蓮ちゃんは「島原の水」に愛想をつかしてしまったのだろうか?否そんなはずはない…などと、あらぬ〃妄想〃を抱きながら同駅近くの取引先を訪ねた。

道すがら眺めた堀割のような渋谷の川は三面張りながら、我々の(社員2人を同行)予想を遥かに超えて美しかった。水の透明度は音無川に匹敵するものだった。

《春の小川はさらさら行くよ♪》と、文部省唱歌のモデルともなった河川は、今でも渋谷駅構内の地下深くを流れているそうだが、この事例一つを取っても、東京都の環境重視政策が伺える。良い仕事してますね、香蓮ちゃん!!

さて、この上京中の2日間にも、世間では色んな事が起きているようだ。米国ニューヨークでは、機長の咄嗟(とっさ)の判断(=機転)で、155名もの尊い命が救われた。

まさに同州知事が言うように「ハドソン川の奇跡」であり、間もなく就任式を迎えるオバマ大統領にとっても、この上ない〃祝福〃であると同時に〃追い風〃ともなろう。

ひょっとしたら、この「奇跡」をきっかけに、米国民は一枚岩となって未未曾有の「金融危機」を早期に切り抜け抜けることが出来るかも知れない。否、是非そうあってほしい。

今年はアポロ11号が人類で初めて月面に降り立ってから40年目でもある(7月16日)。その記念すべき年に、「ケネディの再来」と呼ばれるオバマ政権が誕生する。何かしら〃因縁〃めいたものを感じるのは筆者だけだろうか。

出版界ではいま、そのオバマ新大統領の演説集がベストセラーになっている、という。なぜオバマの演説はそれほどまでに人々の心を打つのか。

3人のスピーチライター(影の草稿者)がいることは良く知られた事実だが、恐らくそれだけが要因ではないだろう。黒人初の大統領として選ばれたからには、やはり〃何かしら〃を兼ね備えた人物であるに違いない。

新大統領の船出まであと数日。皆さん、大いに期待しながら見守っていきましょう。

ところで、きょう17日は阪神大震災から14年目。運命の午前5時46分にテレビのニュースを見ながら「歳月の重み」を改めて噛みしめた。

果たして政治は人々を救えるのか - 。洋の東西を問わず、人類が抱える永遠のテーマでもある。


2009/01/15

大切なのは「気づき」…最も辞めてもらいたい議員は?

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

『上司は思いつきでものを言う』(橋本治、集英社新書)というが、どうやら最近は、市長も思いつきでものを言うらしい。14日付けの朝日新聞がその〃実態〃を報じている。

詳しくは同紙社会面を読んでいただきたいが、鹿児島県阿久根市長の「ブログ」(インターネット上の日記)が関係各方面に大きな波紋を広げている、と。

何せ、そのタイトルがすごい!!「最も辞めてもらいたい議員は?」と題してネット投票を呼び掛けているのだ。同市長のコメントがふるっている。曰く「思いつきだ」と。

人事案をはじめとした各種上程案件がことごとく否決されていることを受けての〃反転攻勢〃の一端だろうが、「思いつきはないだろう」と思う。それと、こういう形でのネット利用は、麻生総理ではないが、いかがなものか?

新人同士の激しい選挙戦を制して市議職から当選されたのだから、力量の程は伺い知れるが、誤解を恐れずに言うなら、この方に決定的に欠けているのは「気づき」の能力であろう。

「思いつき」と「気づき」。字面だけ見ると、何となく似かよった感じがしないでもないが、前者はどこか危なっかしい。その点、後者は一歩控えめな響きで好ましい。まあ、個人的な思いだが…。

筆者も度々何かを「思いついて」は、家族や社員に意見を求める。そして大概は「否定」される。それでもめげずに「思いつき」を重ね、段々と精度を高めていく。

喩えて言うなら、これは企業活動における「プロモーション」のようなものだろう。自分では「最良&最善」と思っていても第三者からすると、とんでもない「思い違い」ということはままある。

そこで大切なのは「気づき」である。この感覚は発案者、傍聴者双方に求められるものだ。何事もボーとしていては「気づくこと」はない。

従って、常に問題意識をもって「周囲の事象」を観察することは、とても重要なのである。ここをすっ飛ばしてばかりいたら、「ビジネスチャンス」なんて生まれるはずがない。

と、ここまで書いて件の阿久根市長のブログを開いてみたら、あった、あった「問題のブログ」(1月12日付け)が!!中身を覗いてみると、15人の議員を3ブロックに分けて「アンケート投票」を呼び掛けているのだ。

同市長はこの調査を始めたきっかけを「思いつき」という。確かに、全国的に「地方議会の改革」が叫ばれている中では、斬新な試みかもしれない。が、余りにも奇を衒った印象をぬぐえないのも事実だ。

果たして、このまま「我」を貫き通すのか、それとも何かに「気づく」のか?首長、議会、並びに有権者の見識が問われるところ。


2009/01/14

『菜根譚』は人生の書…滑稽だよ!!「郷原」のあなた

‐株式会社ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

明けて初めての本欄執筆に、いささかの「戸惑い」を感じている。暮れから新年にかけての宴席などで、多くの励ましと同時に、ごく一部だが批判的なご意見も拝聴したからだ。

「要らぬお世話」と言ってしまえばそれまでだが、拙文にも拘らず目を通して下さっていることを考えれば、そう木で鼻をくくったような態度をとる訳にもいかない。

ところが世の中には、こうした心遣いは「無用の長物」とばかりに、立場に任せて「言いたい放題!!」のような態度で溜飲を下げている人物もいる。敢えて、誰とは言わない。

眉間にシワを寄せ、世の不幸を一身に背負ったような表情で、しつこく他を悪し様に言う。本人は「正義の味方」のつもりだろうが、その姿は滑稽である。

その際、自慢げに使われているのが、古今東西に伝わる格言や箴言。たまたま本紙上で、森本元成さん(元会議所会頭)が気に入って書き留めていた「珠玉の言葉」の特集が始まったが、その出典の一つに『菜根譚』があった。

「菜根」(さいこん)とは「粗末な食事」のこと。「譚」(たん)は「談」と同じ意味だという。中国文学者の守屋洋さんによれば、作者の洪応明(字・自誠)は17世紀初め、中国・明代末期の人。

その解説に従うと、この本は不思議な魅力をもった「人生の書」。一言でいえば「儒教」「道教」「仏教」の教えを糾合した「知恵の宝庫」である。

守屋さんは《人生はくよくよしないほうがいい》とのサブタイトルを付けて、精選・新釈版としてPHP研究所から出版している。1100円。

同書は人生のあらゆる局面を想定した章立で、読むほどに味わい深い。守屋さん自身も二度、三度と読み直しているそうだ。

小生も昨祝日(成人の日)は、お墓参りの後は特段することがなかったので、はまって読んでみた。とは言っても、原文の漢文や読み下し文は難しいので、解説欄を中心に…。

すると確かに、思わず膝を叩きたくなるようなことが書いてあるのだ。ただし、実践するとなれば、そうそう簡単には事は運ばないもの。でも、繰り返し脳裏に刻み込むことによって、少しは利口になれるかも知れない。

別な言い方をすれば、これこそが「言葉の力」ということになろうが、気になる一節に出くわした。それは「決断」の重要性について触れている第4章の冒頭の部分。

「郷原」(きょうげん)。論語では、一見誠実そうに見えるが中身は俗物。世俗に迎合するそんな偽善者のことを、そう呼ぶのだそうだ。つまりは、似て非なる者(エピゴーネン)のこと。

ここで大事なのは、自分自身がそういう状態に陥らないこと。脳味噌の緩みきった「論語読み」ほど始末の悪い者はないのだから!!


2009/01/01

益々進む「脳」の研究…真理は全て「古典」の世界に

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

年が明けた!!と言っても、本稿を書いているのはまだまだ師走の最中だが、元旦号に間に合わせるには、その〃つもり〃に成りきらないといけない。

口で言うのは簡単だが、これがなかなかに難しい。年賀状の類いも然り。年が改まってもいないのに、恭しく「明けましておめでとう」とか、「謹賀新年」とか書いても、どうもピンとこない。

一方、配達する側の郵便局(最近では郵政公社か)。「元日に配達して欲しければ、何日前までに投函せよ」などとエラソーに!?民営化されたとはいえ、お役所的発想は全然変わっていないではないか…。

このあたりが若者を中心に「メール」に取って代わられる所以(ゆえん)ではないか。携帯はともかくとして、パソコン上では、きちんと年が明けてから「その時点での気分」が伝えられる。

とは言っても、毛筆や万年筆で書かれた手書きの「賀状」の魅力は捨て難い。「あいつ、相変わらずだなあ」「そうか、そんな事があったのか」…。メールでは決して味わえない〃温もり〃はやはり捨て難い。

要するに、現代は「二極分化」の時代である。極論すれば、便利さによる「スピード」を重要視するか、手作り感覚が醸し出す「余裕」や「余韻」を楽しむか、のいずれかだ。

これはおしなべて、全ての事象に当てはまる。人生だってそうだ。早く一人前になって、金を貯め、成功し、豪勢な暮らしを楽しむか。はたまた、「俺(私)の生き方、各駅停車」とばかりにゆっくりと構え、地位や名誉に拘らない簡素な生活を営むか。

ビジネスに限って言えば、楽天グループの総帥、三木谷浩史氏がその著書『成功のコンセプト』(幻冬舎)の中でも述べているように、何はさておいても「スピード!」こそが最大の生命線だ。

ところが、「成功」の先にあるものは一体何か。多くの凡人は、事そこに至って初めて、もがき苦しむ。「こんなはずではなかった」「もっと大切なものがあったはず」…などと。

他方で「そんなのは成功していない(できない)人間のたわ言に過ぎない」という考え方もあろう。これまた、ごもっとな見解であるから、否定するものではない。あくまでも、個々人の心の持ち様は自由なのだから。

ただ、やや斜(はす)かいな視線で世の中の流れを眺めていると、どうしてもある〃一点〃に辿り着く。一言で言えば、「無常観」のようなものだ。

その考え方はいにしえの昔より、文学上の数々の名作の中で語り尽くされており、今さら言を要するまでもない。『平家物語』然り、『方丈記』然り、『徒然草』然り…なのである。

つまり、科学技術の進展に伴って、人間社会は多くの恩恵を受け、身の回りの生活は見違えるほど便利になった。衛生面でも新薬等の研究が進み、今では「癌」さえも治せない病気ではなくなってきた。

島原新聞が発刊されて2年後の1901年(明治34年)の報知新聞元旦号に、「百年後の夢」という特集があり、その7割方は実現できているそうだ、との記事を2週間ほど前に書かせていただいたが、それはあくまで「科学の世界」の出来事に過ぎない。

人間そのものは、そうそう変われるものではない。せいぜい江戸や明治の人間に比べて、背が少し高くなったくらいだ。ただ、それは外見上の変容にしか過ぎない。精神世界というか、本質面においては、何ら変化はないはずだ。

話は少し〃脱線〃するが(しっ放しだが)、よく目にする、鼻ヒゲを蓄えて頬杖をついた、憂うつそうな夏目漱石の肖像写真。そこから連想するものは、かなり大柄な人物像である。

ところが、ものの本によると、漱石先生は150センチそこそこの小男であった、とか。その現実を知りながら、あのポーズを意識して撮ったとすれば、先生、なかなかの役者である。

閑話休題。昨年あたりから売れ出したものと言えば、「脳」関係の本である。大家の養老孟先生を筆頭に、茂木健一郎、林成之…と次々と若手の研究者が台頭している。

筆者ごときが次の百年後を占うごときは、天に唾するようなものだが、今後はITの技術革新に合わせて「脳の研究」も加速度的に進み、人間の「心」と「身体」の相関関係が炙(あぶ)り出される日も近いかも知れない。

さて、そうなった場合、現実の社会構造はどうなるのだろうか。いにしえの知恵はもう時代遅れとなるのか。否、きっと、古典世界の合理的な素晴らしさを、帰納的に証明することになるだろう。

最後になりましたが、読者の皆様、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお付き合い下さい。