2006/11/30

過大評価は禁物だ!! - 1日から地デジ始まるが… -

 毎年のことだが、この時期はやたらと行事が多い。ことしは例年の九州学生駅伝(2日)に加えて、漁人市場「とっとっと」がオープン(1日)。大相撲島原場所も開かれる(4日、復興アリーナ)。

 カボチャテレビでは大相撲協会の許可を得て、生中継する方向で準備を進めている。会場に足を運べない方は、どうぞテレビでご覧になって下さい。

 ところで、1日からは「地上デジタル放送」(地デジ)がスタートする。NHK、民放各局ともニュース枠等を使ってPRに躍起だが、果たしてその魅力のほどは?

 率直に言って、携帯電話でテレビが見られる「ワンセグ」や「カーナビテレビ」以外に大騒ぎするような話ではない。何より、番組の中身そのものが変わるわけではない。

 すでに東名阪の都市部では2年ほど前からスタートしているが、騒ぎ立てたのはほんの一時で、しかも関係者だけ。現実にアナログとデジタルの双方を流す「サイマル放送」の期間が2011年7月24日まであるのだから、何も慌てる必要はないのである。

 この計画は総務省主導で進められているのだが、年間の総売上高に匹敵するような何十億円という「設備投資」を迫られる地方民放局にとっては「死活問題である」として、当初から敬遠する向きもあった。

 しかし、そこが「お上」の強いところで、「面従するしかないなあー」といったところが偽らざる〃本音〃のようだ。

 「地デジでは、クイズ番組に参加できます。アンケートにも応募できるし、データ放送も楽しめます」。言い古されたセールストークだ。

 しかしながら、そうしたサービスを享受するにはインターネット、或いは電話回線とつなぐことが必須条件であることは、余り語りたがられない。

 「5.1サウンドで臨場感溢れる鮮明画像を楽しもう」。それにしたって、環境整備には一体いくらのコストがかかるのか、の説明も心もとない。

 この計画は、近い将来の「放送と通信の融合の時代」をにらんで、電波の帯域を再整備するのが本来の目的で、当社でも実施した「アナ変対策」はその一環だ。

 NHKや民放各社の番組を受信するためには「再送信契約」を結ぶ必要がある。県内外のデジタル波を当該局の同意なくケーブル局で流すことは、法律的に禁じられている。

 幸いにして、当社は県内民放四社にも資本参加いただいているので、系列への紹介もスムーズに進むものと想われる。今後、条件が整い次第、デジタル化に移行する予定だ。

 諺に言う。「急いては事を仕損じる」。よもや、法律で禁止されているデジタル番組を流すような局はないだろうけど…。


2006/11/28

明日も宇宙の風が吹く - 生きてりゃ何とかなるもの -

 「勤労感謝の日」は終日、家でゴロゴロしていた。朝からボッーとテレビを見ていたら、NHK総合で、31年ぶりに開催された「つま恋コンサート」の模様を流していた。

 「吉田拓郎」を筆頭に「かぐや姫」らが出演して、かつてのヒット曲を熱唱。筆者も高校時代を思い出して、とても懐かしかった。

 彼らが活躍していた時代は昭和50年代前後。少し前のグループサウンズと違って「メッセージ性」のある歌詞はまったく「古臭さ」を感じさせない。

 しかしながら、往年のスーパー・スターもはや「還暦」、あるいはそれ以上。拓郎は数年前に、肺がんの手術を行っており、文字通り「復活」のコンサートでもあった。

 南こうせつ率いる「かぐや姫」は確か、参天製薬提供の「10人抜きのど自慢」に出ていた。同番組は「五木ひろし」や「天童よしみ」らの演歌スターも数多く生み出している。

 少し時代をさかのぼると、昭和30年代から40年代にかけては、日曜昼間に「ロッテ歌のアルバム」という人気番組があった。

 司会は玉置宏。「一週間のご無沙汰でした」「お口の恋人ロッテ提供」などという前振りがあって、橋幸夫や舟木一夫、西郷輝彦らが毎週登場して茶の間を沸かせていた。

 グループサウンズ人気が爆発したのは、昭和40年代に入ってから。ブルー・コメッツがその走りで、続いてスパイーダース、タイガース、テンプターズ、オックス…。

 それぞれ冠詞の「ザ」が付くのだが、オックスだけが母音で始まるので、「ジ・オックス」と読むのだ、と中学の英語の先生から教わった。

 話を23日のテレビに戻す。晩飯を喰って、21時からは、家族と一緒に木曜日恒例の「渡る世間は鬼ばかり」を見た。

 ふだん家に居る時は、22時からは「報道ステーション」にチャンネルを合わせるのだが、当社経理の佳奈ちゃんの薦めで木曜日は「ドクター・コトー」と浮気することにしている。

 桜井幸子演じる自らの死期を悟った末期がんの主婦が、同じ病室で眠っている、生まれたばかりの他人の赤ん坊を抱きかかえるシーンがあった。

 不覚にも「落涙」してしまったが、同時に、似たような状況設定がヘミングウエーの短編にあることを思い出した。

 拓郎が朝の番組で歌っていた。「今日までそして明日から」。そして、この日の「ドクター・コトー」。

 最近は「いじめ」を苦に自殺する人が多いが、それだけは絶対に止めるべし。生きてさえいれば何とかなるのが世の中。

 いつか書きたいと願っている自著のタイトルは「明日も宇宙の風が吹く」と決めている。


2006/11/27

ボタンの掛け違い!? - 奥様の〃唐獅子牡丹〃の動向 -

 11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」だと、NBCラジオでヒロさんが言っていた。私事だが、今日23日は筆者の結婚記念日。20年になる。

 何婚式になるのか知らないが、1年を365日で数えると7,300日。時間に直すと175,200時間。このうち何時間「ベターハーフ」(今日は「クサンチッペ」ではない!!)と一緒に居たろうか。

 ヒロさんによれば、22日は「ボタンの日」だとも。何でも、帝国日本海軍の制服に、初めて「ボタン」が採用されたのを記念してのことらしい。

 ヒロさんは物知りで、「ボタン」の語源がポルトガル語であるとも喋っていた。それから、アシスタントのケイちゃんが「22日は二十四節気でいうところの『小雪』(しょうせつ)で、冬の訪れも近い」と話していた。

 何でんかんでんヒロさんのパクリで申し訳ないが、ことし「文化功労賞」を受けた俳優の高倉健さん(75)が、自らの生涯の歩みを綴った写真集を出版したのだそうだ。こちらは同じボタンでも「唐獅子牡丹」の方だ。

 もう5年ほど前のことになるが、高倉健さんの勇姿は、本渡市の学校の体育館で開かれた「天草映画祭」で見かけた。背筋がピーンと伸びて実にカッコ良かった。

 あの独特の雰囲気で「自分は不器用ですから」とはにかんで語られたら、たいがいの女性はイチコロだろう。

 どうあがいても高倉健にはなれないのだったら、ここは一つ開き直って、「自分は不細工ですから」を決めゼリフとするか。

 「ボタン」の話に戻る。良く相互の意思疎通の行き違いのことを「ボタンの掛け違い」と表現するが、これはなかなかに厄介なことだ。最後まで関係を修復できないことも多い。

 でも、よくよく考えてみたら、昨報でも言ったことだが、そうした事態は「何でも自分の思いを通したがる」という〃我欲〃の為せるワザである。

 高倉健さんの魅力を一言でいえば「忍」だろうか。徹底的に自らの「想い」「欲望」を押し込め、耐えに耐える。それでも不義理な仕打ちが目に余るに至って、「背(せな)の唐獅子牡丹」が吼えることになる。
 
 さて我が家。復興アリーナの阿南達也さんからは早々と(ちょうど一月前に)、「祝20周年」のケーキまで頂戴してしまった。阿南さんアリガトウ。

 ところで、ここ10日間ほど自宅で晩飯を食っていない。意図的に奥様との間で「ボタンの掛け違い」をしたつもりはないのだが、「相当来ていること」だけは間違いない。

 きょう23日も諫早稲門会から「スッポン鍋の会」に誘われたが、丁重にお断りした。でないと、奥様の心中に巣食う「唐獅子牡丹」が爆発しそうだ。


2006/11/25

ついてる、ついてる!! - 釈迦の教えは「感謝」だった -

 「シートベルトの未着用」でキップを切られた。道路交通法第71条の3に抵触、とのことだ。罰金はなし。違反点数は1点。

 一瞬、釈然としない思いもよぎったが、護国寺(岩永泰賢住職)のご祈祷にある「大難を小難にとどめる」ための〃戒め〃ということで納得した。

 世の中には、小人かつ凡人であるが故に、ついつい立腹してしまう事が、ごまんとある。筆者など、そのサンプル人間のようなものだ。

 調子に乗っているつもりはないが、思わずサービス精神の度が過ぎ、筆や行動が走りすぎてしまうことも多々。今朝も社長や家人から注意を受けた。

 旅行作家にして心理・社会学者の小林正観さんの著書「釈迦の教えは『感謝』だった」(風雲舎)を買った。帯のフレーズには、こう記されている。

 「釈迦は、この世の悩み・苦しみの根源は、『思いどおりにならないこと』と見抜いた。だから、『思いどおりにしようとしないで、受け容れよ』と言った。その最高の形は『ありがとう』と感謝することだったのです」。

 小林さんは言う。「『思いどおりにしたい』は、神や宇宙への宣戦布告」と。その考えを一言でまとめたタイトルが「宇宙を味方にする法則」(第8章)だ。

 「思いどおりにしよう、思いどおりにしたいと思えば思うだけ、逆に『感謝』というところからは遠いところにいる。これが宇宙の法則であり、宇宙の事実です」。

 「いま目が見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、ものが食べられること、自分の足で歩けること、周りに同じ言葉を有する同じ仲間がいてくれること、自分の言ったことが理解してもらえること…ありがたいことです」。

 「宇宙を味方にする最良の方法とは、ありとあらゆることに不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わないこと。否定的、批判的な考え方でものをとらえないこと。これに尽きるのです」。

 何かしら、自分のことを指摘されているようで背筋がゾクッとした。さらに詳しくは同書をお求めいただきたいが、初めて小林さんの考えに触れたのは、2年ほど前のこと。

 「トイレのフタは毎回ちゃんと閉めること。これをきちんと励行していけば、きっと良いことが訪れます」。

 人づてにその話を聞いた時は、「まさか、そんなことぐらいで…」と思っていたが、欠かさず実行することで不思議なくらい落ち着く。不思議だ。

 小林さんの思想・哲学は「銀座まるかん」の代表、斎藤一人さんの教えにも通じる。「ついてる」「ついてる」「ついてる」。

 我が事務所にも東京・下町の商店街の一角にある「ついてる神社」で買った色紙を飾っている。


2006/11/24

政治家は使い捨て!? - 他人の〃飯茶碗〃を叩き落す -

 諫早ケーブルの南孝行社長は、この業界の大先輩だ。飾らない人柄で、周囲の信望も厚く、今年は永年にわたる斯界での活躍が認められ、表彰も受けた。

 島原半島にも知人が多い。丸政水産会長の坂田政男さんをはじめ、小島建設会長の小島秀治さん、東洋興産社長の石橋一朝さんらとは、切っても切れない〃悪友仲間〃だ。

 その南社長がある時、しみじみと語りかけてきたことを、いま思い出した。「商売熱心は結構ばってん、欲に目がくらんで、他人(ひと)の〃飯茶碗〃ば叩き落すような真似だけはしちゃいけんばい。負くんなよ、清水ちゃん!!」。

 まあ、ここまで書けば、筆者が何を意図しているか分かるだろうし、もうこれ以上多くを語る必要もないだろうが、正直その時は「ジーン」ときた。

 しかし、今の世の中、〃人情派〃の南社長が忌み嫌う「我欲シーン」ばかりが目立つ。

 自民党の郵政民営化反対派議員の「復党」問題で揺れる政界。小泉前首相&武部幹事長から差し向けられた〃刺客〃の面々の狼狽ぶりが面白い。

 いわゆる「小泉チルドレン」。八十数人もいるのだから「派閥」を組めば結構な勢力だろうに、インタビュー番組を見れば「二階に上げられて、梯子を外された」風の〃泣き言〃ばかりが目立つ。

 移り気なマスコミ報道もどうかと思うが、自分の進退ばかりにしか目が向かないような人間を、我が国民はどうして〃選良〃としたのだろうか。

 この事態に対する、〃変人〃のコメントがふるっている。「政治家は常に、使い捨てにされることを覚悟しなければならない」だと(朝日11月8日付)。

 小泉さんが目指したのは米国流の「優勝劣敗主義」。文字通り、強い者が天下を取る社会の仕組みだが、我が国は太古の昔から「和を以って尊しと為す」国民性ではなかったか。

 狎れあいの「仲良しクラブ」もいただけないが、度を越した「覇権主義」はもっといけない。要は「程度」「塩梅」(按配)の問題である。

 「勢い」があるからと言って遮二無二突き進んでいけば、必ずや「墓穴」を掘る。古くは道長、帝国主義、共産主義…洋の東西を問わず、歴史がそれを証明している。

 「人はパンのみに生きるにあらず」。聖書はそう説くが、一方で「腹が減っては戦ができない」のも現実。もちろん「食べ過ぎ」も禁物だ。

 カボチャテレビは両の手でしっかりと「飯茶碗」を持っている。決して叩き落されない。

 精神面で温かく応援してくれる南社長、地域の皆さま方の期待を裏切らないよう、今後も頑張っていく所存。倍旧のご支援のほどを、改めて宜しくお願い申し上げます。


2006/11/18

カツ丼とチャンポン - シャー、ジンベラ、ジッテラシカ -

 食欲の秋。恐ろしいまでの「体重の増加」に震えおののいている。何だか一日に一キロの割合で肥っていっているようだ。

 とは言いつつも、目の前の誘惑にどうしても打ち勝つことができない。昨日も一次会でしこたま飲み食いした揚句、二次会ではカツ丼を肴にボージョレ・ヌーボーをいただいた。

 昼食もカツ丼とチャンポンだった。さすがに帰宅してからは食べなかったが、家人に晩飯のおかずを聞いたら、「チャンポン」と手短な答えが返ってきた。〃殺気〃を感じたので、すぐ寝た。

 出張帰りの船内で週刊現代を買ったら、学生時代のバイト仲間だったO氏が「腹筋運動で健康になる」との見出しで醜態を晒していた。相方のタレントの姿態が艶かしい。役得だな、この野郎。

 O氏は童顔のせいか実年齢(52歳)より若く見える。小倉生まれで、まだ方言が抜けきらないところが「好いちょっちゃね」。

 彼は医者ではないが、ある意味「メタボリック症候群」(メタボ)研究の権威でもあるので、前回会った時に聞いた。「腹ば引っ込めるには、どがんすれば良かとや?」。

 「そーやね、肉は羊がいーっちゃね」。ジンギスカン風の辛味鍋をつつきながら、汗だくになってそう力説していた。「なるほど」と思ったが、それ以来、マトンもラムも食していない。

 ところで、島原半島の方言で、おかずのことを「シャー」というが、まったくもって、その語源が分からない。誰か知っている人がいたら、是非教えていただきたい。

 そんな話をしていたら、南目出身の社員が「メシ、シュ、シャー」と流暢な〃三段活用〃で応じてくれたが、真相はいまだに藪の中だ。

 「ジンベン」「ジンべラ」にも歯が立たないでいる。用法としては「あいがジンベン(ジンベラ)」とか使われるのだが、「城下では使いませんよ」と、切って捨てられた。

 「そんならジッテラシカはどうだ」と問うと、一瞬、パソコンのキーボードを打つ手を休めて「そら何ですか」と、今度は憐憫の視線を送ってきた。

 筆者も特段良く知っているわけではないが、年配者の間で「生真面目な人柄」を表現する際に使われているようだ。

 個人的には「アタン」という島原弁が好きだ。イトー家具社長の伊藤喜八郎さん(故人)が良く使っていた。何かしらフランス語のような響きで「ヨカトン」と思っている。

 先日、京都で行われた結婚式の挨拶で伺った話。「ダンナとは、古代インド語で『与える』という言葉に由来している」という。

 英語の「ギブ」に相当するフランス語は確か「ドネ」だった。何かしら関連があるのかしらん。


2006/11/10

どんぶり勘定の語源は - つらいけど毎日を微笑んで!! -

 世間を騒がせている長崎県庁の「預け」問題を扱っている記事の中に「どんぶり勘定」という表現が出てくる。それって一体?社員に聞いてみたが、誰も知らない。

 広辞苑を引いてみた。「どんぶり」(丼)に関しては 1.深い厚手の陶製の鉢 2.更紗・緞子などで作った、金などを入れる大きな袋。若い遊び人が好んで用いた 3.職人などの着ける腹がけの前かくし。金などを入れた 4.丼飯の略?などなど。
 関連して「どんぶり勘定」の欄には、「 3 から転じて(一説には 2 )、予算を立てたり決算をしたりせず、手もとにある金にまかせて支払をすること。また、それに似た大まかな会計」とあった。

 なるほど、そういうことだったんだ。納得納得。筆者も含めて社内の知的レベルを暴露することになるが、後で考えるとかなりの「異説」「珍説」も飛び出した。

 【その1】どんぶり鉢の中に米粒を入れて、どれくらいの数が入っているか〃目分量〃で計ることからきている。【その2】どんぶり飯を沢山お代わりして食べるような人は、余り小さなことには拘らないことに由来している。

 漢語調で言えば、「まさに汗顔の至り」ということになろうが、知らないことが却って〃強み〃ともなるから人生は面白い。

  さて「牛丼」と言えば、昔はハヤイ・ヤスイ・ウマイの「吉野家」と相場が決まっていたが、最近は「松屋」やら「すき家」やらが出てきて、ややこしくなってきた。

  ところで「カツ丼」はどこで生まれたか?諸説あるようだが、「東京・早稲田馬場下にある『三朝庵そば店』がその始まり」との説を信じている。

  先年亡くなった「すし勝」のご主人、下田和夫さんが良くおっしゃっていた。「和食の料理人の腕前はダシの善し悪しで試される。丼物を食べれば、それがすぐ分かる」と。

  「すし勝」のカツ丼はボリュームがあって、確かに美味かった。その味はきっと息子2人(新町・ダイニング和)にも伝授されているはずだから、焼酎ばかり飲まないで今度行ったらカツ丼を頼んでみよう。

  まったく関係ないが、昔タイに「トンブリ王朝」というのがあった。18世紀末にそれを倒したラーマ一世がバンコクのチャオプラヤ河畔に建てたのが、かの有名な「ワット・アルン」(暁の寺)だ。

  もう久しく訪れていないので忘れてしまったが、整然としたシンガポールの「チャンギー」(国際空港)とは好対照をなす「ドンムアン」(同)の独特な雰囲気が懐かしい。

  タイ航空に乗ると「ランの花」をくれる。挨拶は「サワディー」。微笑みの国だ。色々つらい事ばかりの毎日だが、カツ丼でも喰って笑って過ごすか。


2006/11/09

『旅する巨人』への旅 - 改めて注目される宮本常一 -

 先週末、山口県を挙げて開催されている『第21回国民文化祭やまぐち2006』(今月12日まで)に出かけてきた。

 主たる狙いは、例年参加している、『全国・山頭火フォーラム』(今年は防府市が会場)へ顔を出すことだったが、ついでに周防大島まで足を伸ばした。

 実は、周防大島に渡ったのは二度目。15年ほど前、島原から柳井に転勤した、先輩記者一家を訪ねた際に案内を受けた地だ。

 JR山陽本線・大畠駅を下りると、大きな鉄橋が架かっている。ちょうどその日(五日)は民俗学者、宮本常一(みやもと・つねいち)の業績を伝える『アイランドフェスティバル』が、郷里の東和町で開かれていた。

 貸切同然のマイクロバスに乗ったら、案内の男性が「この橋は地元出身の佐藤栄作元首相の尽力で出来たんですが、最近、福島県知事で同じ呼び名の人が逮捕されて、迷惑していますよ」と苦笑していた。

 いま、『旅する巨人』こと、宮本常一が再び見直されている。歩いた距離は地球4周分にも相当する16万キロ。「記録したものしか記憶にとどめられない」と、遺したフィルムは10万コマ。

 師匠格の柳田國男(やなぎた・くにお)が「白足袋」の民俗学だったのに対して、宮本はリュックに傘を差し込んで、「ズック靴」で全国を巡った。

 資金面で面倒を見た渋沢栄一の孫、渋沢敬三(日銀総裁など歴任)が評した有名な言葉がある。「日本の地図を白地図にして、宮本君が歩いた足跡を赤インクでたらしていくと、日本列島は真っ赤になる」。

 自身が〃島育ち〃だったせいか、その足跡は佐渡や壱岐、対馬など離島を中心に辿られているが、「島原半島にも昭和39年に現れた記録がある」と、島原市役所災害対策課長の平尾明さんから教わった。

 宮本の業績を知るには未来社から刊行されている全集をはじめ、『忘れられた日本人』(岩波文庫)など枚挙にいとまがないほどだが、「単なる学問の領域にと どまらず、辺境の地の産業振興策にまで発展させている」点が他の追随を許さない。その原点は、父が遺した「十カ条」によるところが大きい、という。

 1.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ - 。2.新しく訪ねていった所は必ず高い所へ上って見よ - 。3.金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい - 。4.時間があったらできるだけ歩け - 。5金は儲けるより、使うのが難しい - 。(以下10まで続く)

 ノンフィクション作家の佐野眞一さんはその人となりを、「旅で得た豊富な知識を、郷里(地域)のために恩返しする『世間師』(しょけんし)だった」と称している。

 まだまだ語り尽くせないので、いずれ改めて。


2006/11/08

〃オオカミ中年〃の悲哀 - 誰一人信じてくれなかった -

 いやー久々に興奮したと言うか、感動した。他でもない、6日夜に確認された平成新山(普賢岳溶岩ドーム)の〃赤い炎〃に、だ。

 一報を受けたのは、会議を終えて帰宅した直後の午後9時前。「まさか!?」と思ったが、信頼できる筋からの情報だったので、すぐに確認を急いだ。

 その間に、二度目の情報提供が舞い込んだ。「間違いない!!」。アドレナリンが急速に醸成された感じで、気分は一挙に16年前(平成2年11月)までぶっ飛んでしまった。
 
社員、親しい写真仲間、報道関係者…などなど、手当たり次第に電話をかけまくった。ところが、誰一人として信用してくれない。皆、口をそろえたように言うのだ。「また、酔ってるの?冗談も程々にね」 - 。極めつけは、長崎市内在住の放送記者。

 「はいはい、貴方も良く知っている元国家公務員と代わりますから」。「えっ、清水さん。久しぶり。何、噴火!?冗談はヨシコさんですよ。○○弁護士と代わります」。「もしもし、笑わせないでよ。君もこっちに飲みに来たら」。

 嗚呼、どうして俺の言っていることを分かろうとしてくれないんだ?本当に噴火の再開だったら、どうするんだ?傍らでは、我が家のクサンチッペが「ほらほら、普段からウソばっかし、ついちょるけん。オオカミ中年(イソップ物語)が、ちょいちょーい」。

 少し悲しくなったが、何はさておき〃現場〃を確認しないことには!!若手の社員を九大の観測所に走らせ、自身はモノ好きの三男を伴って撮影ポイントの大野木場へ駆けつけた。

 パトカー数台がたむろしていた。緊迫感はない。十六夜の月明かりを頼りに目を凝らすと、暗闇の中に〃赤い炎〃がハッキリと見えた。撮影は後追いしてきた西川清人さんの遺児、完(まもる)君に任せた。

 雲行きで少し見えにくくなったので、山の寺に移動した。消防署幹部、谷口助役(島原市)らがすでに待機していた。電話等で得た情報等を総合すると、どうやら「高温の火山ガスが燃えている」らしい。

 噴火再開の可能性が高いなら「徹夜」も辞さない覚悟でいたが、雨も降り始めたので諦めて帰った。車に乗った途端、さっきまで元気ハツラツだった息子はカクンと眠りこけた。

 もちろん、実際に体験したような「長期大規模災害」の再来だけは絶対に御免だが、山の活動でこうも元気が出るのはなぜだろう。ひょっとして普賢さんは「お前たち、油断したら駄目だぞ!!」と教えてくれているのかもしれない。

 寺田寅彦先生曰く「天災は忘れたころにやってくる」。ふと先ごろ亡くなった米原万里さんの大宅賞作品を思い出した。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』。これは面白かった。


2006/11/07

「文化の日」の事件簿 - 福崎さん、あなたが福の神!! -

 何とも奇妙な「文化の日」だった。朝、いつものように母が庭木に水を撒いていると、何やら得体の知れないベージュ色の〃物体〃が植え込みの中に潜んでいる、という。

 母は戦争を体験しているだけに〃気丈〃な人で、筆者が恐れて近づけないヘビが出てきても、何やら訳の分からない〃呪文〃を唱えては追っ払ってしまう。その母が驚いている。

 何だろう?恐る恐る近づいてみると、年老いた大型の野良猫だった。顔を覗き込むと、涙を流しているようにも見えた。

 脚を痛めているのかなあ、可哀そうだなあ…とも思ったが、いつも〃フン害〃を被っている我が家にとっては、ここでお陀仏されても迷惑な話だ。が、どうしても動く気配がない。

 仕方ない、市役所に相談してみるか…。ということで当直の人に電話したら「保健係と連絡を取ってみます」との返事。しばらくして「すぐ行きます」との回答。

 さて、そこから〃捕獲大作戦〃が始まったわけだが、係の若い職員(とても感じが良かった)と二人で近づいたら、何やら元気を取り戻したみたいにフラフラと歩き出した。

 でも、足取りが覚束ない。ヨタヨタと数メートル進んでは、その場にへたり込む。「ここまま放置しておけば、きっと車に引かれる」との見方で一致した。

 最初は箒で追い詰め、素手でダンボール箱に誘い込む作戦を敢行。が、敵もさるもので、車の下や狭い路地に逃げ込んで、一向にラチがあかない状況がしばらく続いた。

 「やっぱ捕獲用のアミん要るばい」ということで作戦変更。最終的には成功したものの、完了までには一時間半もかかった。

 今度は、そうこうするうちに、何やら綺麗な小鳥がガツーンという音とともに新聞社の壁面にぶつかって、空から落ちてきた。くちばしが長く、羽には綺麗な瑠璃色のラインが走っていた。

 初めは「脳震盪かな。そのうち元気が出るだろう」と手のひらで温めていたが、とうとう元気を取り戻せないまま他界した。後で聞いてみたら、カワセミだという。庭の一角に手厚く葬った。

 その騒動の最中、福栄会長の福崎理智子さんが訪ねて来られた。「実は朝っぱらから色んなことがありまして…」などと話をしたら、「二度あることは三度ありますからねー。さて今度は何でしょう」と、悪戯っぽい表情を浮かべた福崎さん。

 確かに、このところ差出人不明の投書が寄せられるなど、余り気持ちの良い心境ではなかったので、一瞬ドキッとしたが、よくよく考えてみたら、「福崎さん、貴方がその三番目ですよ」。

 「幸福の『福』に、栄光の『栄』」。ホッとして墓参に出かけた次第。


2006/11/02

人民は弱し官吏は強し - 「一流の田舎」を目指さねば -

 「いかさまに 身はくだくとも むらぎもの 心はゆたに あるべかりけり」(大御心・二二)。

 先年、明治神宮を参拝した折、目にした昭憲皇太后(明治天皇ご令室)の御歌で、手帳にその短冊を貼り付け、短気な自分への〃戒め〃としている。

 ところが昨日、とうとうブチ切れてしまった。何に?島原市役所某セクションの対応に、だ。

 顧問税理士の勧めで、弊社でもある申請をすることになり、そのための必要手続きということで市役所を訪ねた。ところが、わずか2枚のカードを作るのに小一時間も要した。

 顔見知りの職員でもあるし、それなりに〃一生懸命ぶり〃も伝わってきたので、まあ〃了〃としよう。

 夕刻、上司とともに再度訪ねた。「何か写真付きの身分証明書はお持ちですか」と同職員。「持ち合せていないので保険証で構わないか」と応じたら、「それだと郵送の手続きを踏まねばなりません」との回答。

 15分ほどが経過したろうか?閉庁の時刻でもあったので、「何をしているのか」と尋ねたら、「カードを作成するのに時間がかかって…」と自信なげな答えが返ってきた。

 結局のところは、当日の手続きは、書類に必要事項を書き込んだ時点で完了だった、のである。持ち前の悪い癖で、カチーン!!と来た。何に対して?手際の悪すぎる当事者は当然のこととして、「我関せず」といった周囲の雰囲気に腹が立った、のである。

 普通に考えて、わずか数時間前に〃予行演習〃しているわけだから、トントン拍子で手続き出来て良さそうなものだ。何より課内の白けきった空気…。

 「一体何なのだ」と叫びたい気持ちでいたら、何と日経新聞の同日付け紙面では「島原市は九州で10番目に行政サービスが良い自治体」と報じてある。オイオイ日経の記者は一体何を取材しているんだ!?

 などと、怒り心頭に達していたら、今朝の新聞では、金子知事が〃涙の記者会見〃。記事によれば、同知事が「預け」の実態を知ったのは1999年。「見える県政」「感じる県政」というのが出馬に当たっての公約ではなかったか。

 先日、社団法人・農山漁村文化協会から出版されている『一流の田舎町』(二流の都会づくりをやめた町)いう本を読んだ。著者は森澤茂さん(63)。

 武蔵野美大卒。日本リーダスダイジェスト社勤務の後、海外向けの広報業務を手がけていたが、ある町の教育長全国公募で役場の生活部門の参事に採用された〃元都会人〃だ。

 まあ、知事はともかくとして、市役所の職員の皆様には是非ご一読いただきたい。イカン、イカン、こんな事を言っていると、手痛いしっぺ返しが来るぞ!!星新一さんの名作『人民は弱し管理は強し』を再読しなければ…。


2006/11/01

そうだ、京都へ行こう - 「島原」の由来がわかったぞ -

 「京都の秋の夕暮れは、コートなしでは寒いくらいで、丘の上の下宿屋はいつも震えていました…」(加川良「下宿屋」)。

 そうだ、京都へ行こう。JRの誘い文句にまんまとのせられて先週末、新幹線に乗って京都へ出かけた。紅葉にはまだ少し早かったが、どこも観光客で溢れかえっていた。

 主たる目的は、知人の結婚式へ出席すること。しかし、せっかく来たからには、と寸暇を惜しんで「島原」や「南禅寺」周辺を歩き回った。

 京の「島原」はJR山陰線の丹波口を下車してすぐの所にある。「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」を訪ねた。

 恥ずかしい話だが、「島原」という名称は前から聞いてはいたが、なぜ「島原」というのか、「肥前島原」との関係等については全く知らなかった。

 島原は〃花街〃と呼ばれる歌舞音曲のまち。歴史は古く、天正十七年(1589)に豊臣秀吉の許可を得て柳馬場二条に開かれたのが始まりとされている。

 その後、慶長七年(1602)に六条三筋町へ。さらに寛永十八年(1641)になって再び現在地への移転命令が急きょ下されたことで、住民に動揺が走った。その際の〃狼狽〃ぶりが「島原の乱」(1637)に似ていたことから「島原」と名付けられた、という。

 「角屋」は今で言う料亭。太夫や芸妓を置かないことから「揚屋」と呼ばれ、「置屋」とは一線を画している。円山応挙や与謝蕪村らの襖絵や書画が歴史の重みを感じさせる。

 幕末期には西郷隆盛や坂本龍馬らの勤皇の志士のほか、新撰組の近藤勇、芹沢鴨らも宴会を開いていたということで、柱には刀痕も残っている。「島原の角屋の塵はなつかしや元禄の塵享保の塵」(吉井勇)。

 湯豆腐や石川五右衛門の「絶景かな」の台詞で知られる「南禅寺」は臨済宗・南禅寺派の総本山。恐らくあと一週間もすれば、鮮やかな紅葉が楽しめたはずだが、閑寂な佇まいにしばし〃憂き世〃を忘れた。

 南禅寺から北へ約2キロ上ると銀閣寺。琵琶湖疏水沿いの通りにあるのが、著書『善の研究』で知られる西田幾多郎が散策したという「哲学の道」。ちなみに拙宅(上の町)裏の小路は「哲学の小径」。

 残念ながら、披露宴が迫っていたので〃哲学〃できなかったが、思い起こすのは普賢岳噴火当時に「島原の人を何とか採用したい!!」と、わざわざ当地まで足を運んでくれた銀閣寺参道の麺屋さん。

 確か屋号を「おめん」と言った。連日報道される被災者の不安を慮って「関空に支店を出すのでそこで働いてほしい」と女社長自ら出向いて来られたのだ。

 ネットで探してみたが、検索できなかった。次回上洛の折は是非訪問してみたい。