2014/04/29

全ては周囲のおかげ…挫けず続けてきて良かった

「いや~まったくもって周囲の皆さんのおかげ。それより僕なんかが頂いていいものかどうか…」。春の褒章で「黄綬褒章」に輝いた、県花き振興協議会会長の立光一孝さん(59)=雲仙市吾妻町=は病室で静かにその歓びをかみしめた。

今月上旬に持病の頸椎損傷の手術を受け、現在は入院生活を続けながら一日も早い〝現場復帰〟を目指して、懸命にリハビリに努めている。

高校を卒業後、将来の洋ラン栽培を夢みて名古屋で3年間の研修所暮らし。溢れるロマンを胸に帰郷したものの、周囲には〝夢〟を語れる仲間もなく、資材の調達にも事欠いた。

ただ、挫けなった。足かけ15年。その苦労がやっとのことで実り始めた矢先、普賢岳噴火災害に出遭う。忘れもしない平成3年6月3日の大火砕流だ。

「このままではすべてがダメになる!」。危機感が次なる大胆な行動へ突き動かした。イトコで菊栽培を手がけていた吉田良一さんとともに、新天地を求めて吾妻町へ移った。当時36歳。吉田さんはまだ21歳の若さだった。

「本当にもう、目の前が真っ暗になった。父の代の温州ミカン栽培から転進を図って、やっと経営が軌道に乗り始めたところだった…」と、振り返る。

当然のことながら、新天地でも予期せぬ事態が次々と待ち受けていた。過労にストレスが加わって、入院生活も送った。そんな時、大きな励ましとなったのが県や地元自治体の手厚い支援策。マスコミ各社の報道も有難かった。

「最初の志と離れて、ややもすると折れそうな気持ちになった時、自分たちの動きを好意的に取り上げてくれた多くの記事やビデオを幾度も見直しては『負けてなるものか!』と、弱気の虫を追い払った」。

平成3年7月10日の天皇皇后両陛下のご慰問は特に忘れられない。島原市体育館に避難していた妻と長男に、直にお声を掛けて下さったのだ。

平成7年には、手塩にかけた「デンファレ」で、栄えある農林水産大臣賞を受賞。また、高田勇知事の計らいで、それまで遠い存在としか思えなかった首相官邸などにも自分の作品を納めることが出来た。

皇居での「謁見」は5月16日。「それまでには何とか退院して、失礼のない姿勢を保てるよう、もっとリハビリに励まねば!」。

写真は平成7年、農水大臣賞受賞を吉岡市長に報告する立光さん=左。島原市提供。



2014/04/25

「九兵衛」VS「次郎」…残念、大統領の姿拝めず

なっ、なんだ!この騒ぎは?1960年代の安保闘争でもあるまいに…。警察官の指示にしたがい、地下道を通って地上に這い出てみると、老いも若きもごちゃ混ぜになったヒト・ヒト・ヒトの群れ。

「まだ喪中じゃけん出張とか行ったらダメよ!」との家人の制止を振り切って上京してみると、こともあろうに、米国大統領の来日日程と見事に重なっているではないか!?

オバマさんはさすがに「国賓」であられるから、物々しい警備がしかれていることは予想はしていたが、これほどまでに「ニアミス」しようとは、正直思ってもみなかった。

その一つは、筆者が訪れた「ホテルオークラ東京」の立地場所(虎ノ門)。ご存知の方も多いと思うが、「米国大使館」と道一つ隔てて隣接しているのだ。別に自分が好き好んで行ったわけではなく、日本で最大規模のCATV会社が創立20周年記念式典の祝賀会場をそこに決めていたのだから仕方がない。

その会社「ジュピターテレコム」は我が社にとっても番組配信&インターネット回線の双方で最大規模の取引先でもある。経営母体は住友商事とKDDIで、全国シェアのなんと半分強を占めている。

祝賀会場の「平安の間」に集まったのは全国各地から総勢約800人。式典は型どおりに運び、総務省の藤川政人政務官やNHKの籾井勝人会長に交じって石原プロモーション会長の石原まき子さんも来賓として招かれていた。

アトラクションには人気歌手の杏子&山崎まさよしさんらが登場。ソチ五輪メダリストの竹内智香さん(スノーボード女子パラレル大回転2位)、小野塚彩菜さん(フリースタイルスキーハーフパイプ3位)がさらに花を添えた。

ただ、筆者の関心はそんなことより「料理」一点。酒は乾杯用の赤ワインだけに止めて、大いに食いまくった。特に照準を定めたのは「鮨」。職人さんの白衣を見ると胸元に「九兵衛」とあったので、ひたすらコーナーに通いつめた。


さすがにお開きの頃にはゲップが出るほど満腹になったので、予約していた銀座のビジネスホテルまで歩いて帰ることに。そして、出発から約1時間後に遭遇したのが冒頭のシーンである。ただ、同じ超高級鮨屋でも、安倍さんとオバマさんが食したのは「すきやばし次郎」ということだった。

筆者は早速、翌朝の5時半過ぎから前夜の「現場」付近を探索してみたが、ついに「次郎」の場所は判らずじまい(※後で調べて判明した)。ならば!とばかりにニコンの大判カメラを片手に皇居のお濠端を散策していたら、桔梗門の辺りで同じような背広姿のくたびれた中年男性が近づいてきて「失礼だが、貴方もひょっとして大統領(ジョギング)を狙っているのか?」と訊いてきた。

「まさか!オイはもう『小浜温泉』で十分ですたい」と心の中で答えた。


2014/04/17

謹んで訂正致します…間違えました!川田さん

「過ちては改むるに憚ること勿れ」(論語/学而)。まさにその意図するところを実感した今朝の目覚めであった。言い訳がましいが、「ご挨拶にお見えになったよ」という伝言の意味を深く考えもせず、封筒入りの丁寧な文書の中身を読み違えってしまったのだ。

別項で「訂正」をさせていただいているが、社会福祉法人・寿福祉会の川田為右衛門さん(理事長)&特別養護老人ホーム・眉山荘の川田孝悌さん(施設長)父子には何とも無礼なことをしてしまった。深くお詫びを申し上げたい。

私事だが、先年亡くなった新聞社の叔父(父の弟)と川田理事長は旧制島原中学の同級生。また、有家に住んでいた伯父(母の兄)も同級生で、川田さんがかつて「陸上の名手」だったという話を双方からよく聞かされていた。

いつぞやは知人の息子さんの結婚式でお会いしたので、やおらその話を持ち出したら、「いやいや昔のことで…」と苦笑いされたが、カモシカのような引き締まった肢体がすべてを物語っていた。

話のついでで恐縮だが、先の南島原市長選で見事!無投票再選を果たした藤原米幸さんの当選祝賀会場で、これまた〝同級生〟の松代一昌さん(元加津佐町長)とバッタリ出会った。相変わらずのダンディぶりで、こちらの十八番は確か音楽(ハワイアンバンド)ではなかったか…。

先月末に母を亡くして以来、新聞を読んでいてまず目を通すのは訃報欄。たとえ見ず知らずの人でも若くして亡くなっている場合は、遺されたご家族の心情を慮って胸を痛めることも度々。誰しも一度は死ぬわけだが、人間にはそれぞれ「(相応しい)死に時」があるようにも思う。

だからと言って誤解してもらっては困るが、決して「長寿」そのものの価値観を否定するものではない。ただ、自分独りだけが生き残って周囲はみな年下ばかりという状況は、それはそれでまた寂しいものではないか…。

かつて、長寿日本一の爺様として知られた徳之島の泉重千代さんは、テレビのインタビュアーから「好みの女性は?」と聞かれて、「そうさなぁ~年上の女性かなぁ~」と答えた、とか。

これも取りようによっては「類い稀なるユーモアたっぷりの切り返し」とも言えるが、自分と同世代の人間が一人残らず先に逝ってしまったという「悲しいつぶやき」という側面も否めない。

先の東日本大震災で『方丈記』(鴨長明)が改めて読まれ始めたというデータもあるそうだが、いつの世にも「無常感」は付きものだ。しかしながら、そうした考えばかりに頭を支配されては、人生そのものが味気なくなってしまう。

大切なのは前向きで素直なこと。間違いは間違いと認めて、今日をしっかり生きていこう。スミマセンでした川田さん。


2014/04/16

柘植の次は何か?…白土湖畔の植栽が変わる

白土湖畔(市道沿い)の植栽が一斉に「衣替え」している。端的に言うと、これまで視界を遮っていた柘植の植込み(多分そうだったと思う…)が根こそぎ抜去された、というわけだ。

筆者は大賛成である。「ドライバーが脇見運転をしないように…」などというもっともらしい説も以前聞いたことはあるが、これまで幾度も「湖面の汚穢ぶり」をあげつらってきた身からすると、「やっと〝ボロ隠し〟がとれたか!」という気がする。

肝心要の市ご当局の整備方針はまだ伺っていないが、何と言っても白土湖は「水都しまばら」のシンボルの一つでもあるわけだから、もっともっとオープンにして、その歴史的な意味合いと島原ならではの自然の恵みをより多くの人々に味わっていただきたい。


とは言っても、柘植自体に何も罪はない。たまたま選ばれて、むしろ今日まで「よくぞ頑張ってくれた!」と労いの言葉を掛けてあげねばなるまい。そこで柘植にまつわる小話をちょっと―。

花のお江戸は上野・不忍池の傍らに「十三や」というお店があるそうだ。筆者自身まだ訪ねたことはないから〝伝聞調〟で書くしかない。

その存在を知ったのは今から数年前。さるご仁から「お店の名前からして、扱われている商品ははて何でしょう?」というクイズを出されたことがある。

筆者は即答した。「9+4=13」だから、くし(櫛)でしょう」と。もちろん〝正解〟だった。

何でもそのお店は、江戸期・元文元年(1736年)の創業と言うから、300年近い歴史を誇る老舗中の老舗だそうだ。

所変わって、次なる舞台は、九州は鹿児島県。もう随分と昔の話になるが、バスで南九州を旅行していた折に、ガイドさんが「この地では女の子が生まれると柘植の木を植えます」と言っていたことを、何とか思い出した。

改めて調べてみると、今やJR九州の大ヒット企画ともなった「たまて箱」(特急)で再び注目を集めている指宿界隈が柘植櫛の一大産地だったことが判った。その名は「薩摩つげ櫛」。知る人ぞ知る高級品なのだそうだ。

いやいや、柘植のことを「単なるボロ隠し」と称した己の不明を恥じ入るばかりだが、いくら「高級櫛」と言っても、髪の毛がしっかりと生えているからこそ、その価値が分かろうと言うもの。

その点、六尺豊かな美丈夫を誇る写真のご仁にとっては、全くもって無関係な話だろう。はて、この男性は誰でしょう?





2014/04/15

ポケベル方式の限界…島原は“多重構造”で対応

春の陽光を一身に浴びて木々の若葉がそよ吹く風に揺れている。もう20年以上が経過した普賢岳噴火災害の折は、我が古里は周囲すべてが「灰色の世界」で、陳情&請願に訪れた東京の街路樹の美しさにふと、忘れかけていた緑陰の安らぎを覚えたものだった。

前置きが長くなってしまったが、先週、NBC(長崎放送)が夕方のニュース枠の中で、県内各地で見直しが進められている「防災行政無線」の問題を取り上げていた。

なぜ島原を取材してくれないのか不思議でならないが、同番組では大村市で導入が検討されている280メガヘルツ帯の「ポケベル方式」(同報無線)を盛んに持ち上げていた。

率直な印象を言うと、「素人の発想だな」と感じた。幾つか気付いた点を列挙すると、災害発生時に「キーボード入力」(その後に音声化)にだけ頼っていては、臨機応変の対応など出来るはずがない。指先が震えてパニックに陥るのがオチだ。

また、ポケベル信号の特性としては、直進性にすぐれているので街中の建物などでは威力を発揮するが、一方で山間の集落には届きにくい、という。

さらに言うなら、最大の欠点は「降雨減衰」(豪雨の日に使えない)という重篤なアキレス腱を抱えており、東京の基地局とCS回線で繋ぐという二頭立て体制も看過できない。関東地方で地震災害等が起きたらどうするのか?

翻って、地元のコミュニティFM電波を使った我が「島原方式」は、「音声入力」も可能な上、スマートフォンなどのアプリとも相性が良く、発信局の移動も自由自在。つまり、二重&三重の構えで災害に備えることが出来るのである。

こんな事を書くと、「お前さんは当事者だから、そんなことを言うのだろう」との批判は免れまい。立場からすれば確かにそうだが、敢えて反論させていただくなら、こと「防災」に関しては、そんじょそこいらの方々とは「キャリア」が違う。もう20年以上も前から、常に「防災」を念頭に置いて放送と通信の仕事に励んできたのだ。


先の東日本大震災でCATV等々の有線システムの限界は如実に証明された。その実相を確かめるべく弊社のスタッフは幾度も被災地に足を運び、そして現地の声を直接聞いて編み出したのが「FM++」という新手のアプリ方式(特許出願中)だ。

すでに島原市においては外務省のODA(政府開発援助)にも採用される予定の「コムフィス」という防災ラジオの全戸配付(本年度内)が決まっている。コムフィスに関しては、先月、NHKのBSプレミアム放送(インドネシア編)の中で、その優位性が逐一紹介されていた。

「防災」に勝ち負けはない。ただ、少なくとも経験則がある分、「大村方式」よりは遥かに実効性に富み&信頼度も高い、と自負している。妄言多謝。


2014/04/13

貴燈院の台詞を妄想…こっちに来たらいかんぜよ!

 「母逝きて 空きし一席 朝の膳」―。 恥ずかしながら、 俳句のたしなみが無いので「季語」そっちのけの語呂合わせであるが、 先般まで確かにそこに居た人物が消えた状況に、 改めて寂寥感がこみ上げる。

葬儀から早くも2週間が過ぎた。 その節は多くの方々にご参列いただき、 過分なるご香料に加え沢山のご弔電&ご供花を賜わった。 一番びっくりしているのは当の本人だろう。

亡くなったこと自体の悲しみはさて措くとしても、 通夜から葬儀にかけては親族一同相集い、 一種の 「お祭り騒ぎ」 のような賑やかさだったが、 その後は一人去り、 二人去りして… 「新たな日常生活」 が静かに始まろうとしている。

今さら申すまでもなく、 亡き母には度々本欄にもご登場いただき、 大いに 「巧まざるユーモア」 をふりまいてもらったが、 今となっては、 それはもう 「叶わぬ夢」 か…。

座敷に特別にあつらえた仏壇には、 筆者の手になる「遺影」(名機ライカで撮ったモノクロ写真)と 「お骨」を並べ、朝な夕なに線香を供え、 数珠を手に口をもごもごさせながら 「ナマンダブ、 ナマンダブ」(浄土宗)と念仏を唱える日々だ。

そして二七日 (ふたなのか) が過ぎ、 改めて 「卒塔婆」 を眺めているうちに、 戒名前の文字配列 (?) に変化が生じていることに気付いた。なるほど、 これが来世における 「中陰の旅」の道標なるものなのか。

母の戒名は「貴燈院」 で始まる。 その意味については荼毘(だび)に付されたあと、 菩提寺の本堂で営まれた法要の席でご住職からうかがったものの、 もうすっかり忘れてしまった。

ただ、 その言葉の響きから何とはなしに、 かつて夏目雅子さんが出演して大いに話題になった 『鬼龍院花子の生涯』 (宮尾登美子原作) を想い起し、 ひとりで可笑しくなって不謹慎にもホトケの前で笑いこけてしまった。

映画の中での花子の決めゼリフはご存じ 「なめたらいかんぜよ!」 (高知弁) だった。 もちろん、 任侠の世界に生まれた花子と、 教職にあった祖父のもとで生まれ育った母とでは、 何も相容れるものはあるまいが、 今後もきっと、 あの世から筆者に向けて数々の 「ご法度シグナル」 を送ってくることは容易に想像できる。

もっともそれは、 筆者自身の生き方の問題であり、 誰に悟られなくても嘘をつけばそのまま、「心の科(とが)」となって情け容赦なく責め苛むものである。

 「酒に飲まれたらいかんぜよ!」 なのか、 それとも 「仕事そっちのけでゴルフに行ったらいかんぜよ!」 なのか…。

いやいや、 母は見かけに似合わず剛毅な性格だったから、 そんなチマチマしたことは言うまい。 言うとすれば、 「まだまだこっちに来たらいかんぜよ!」 あたりだろう。 生きねば、 一所懸命に!!


2014/04/02

お母さんアリガト…ひとまずはサヨナラね

昨報 (広告) でもお知らせしたとおり、 母が亡くなった。 数え年84歳。 3月30日 (日) 午後8時16分死亡確認。 家族全員とごく近い親戚に見守られながらの静かな旅立ちだった。

思えば、 母はあらゆる局面で筆者の〝恩人〟である。 肉体的には死亡したが、 筆者の心の中では永遠に生き続けるであろうから〝過去形〟は用いない。

本欄とて例外ではない。 ネタに困ると、 ユーモア精神に溢れた母の日常会話の一節を無断で拝借しては、 字数を稼いだものだ。

中には、 「よくまぁ~私生活のことを…」 などと眉をひそめられる向きもあったと聞いてはいたが、 誰より一番の〝被害者〟は母であったはずだ。

しかし母は、 文章の中身に関しては、 筆者に対して文句一つ言ったことがない。 「どがんね。 言いたか人には言わせときなさい。 アタシャなぁ~ともなかけん!」 と豪快に笑い飛ばしてくれた。 逆に励まされたことも度々だ。

今更ながらの話だが、 本欄は元々 「広告欄」 としてスタートしたもので、 取材して書く一般記事とは性格が異なる。 しかしながら、 真面目な読者の方はなかなそうは取っては下さらない。 筆者の悩みもまさに〝その点〟にあった。

ただ、 世の中とは皮肉なもので、 筆者が真面目くさって書いた堅い文章より、 軽い乗りで書き飛ばした「母&家人バージョン」がかえって人気を博するという珍現象も…。

まぁ、 そんなこんなで何とかヤリクリしてきたわけだが、 母が入院した昨年秋口からは、 書き手としてはハタと困り果てた。 いかに自由奔放でOK!とはいえ、 さすがに病気の母を持ち出す訳にはいかなかった。

ただ、 母の気骨は半端でなかった。 足かけ6か月以上も病室にいながら、 愚痴をこぼしたことなど一度もなかった。 また、 ドクターや看護スタッフに対しても 「アリガトウ」 「ショウトリマスネ~」 などと感謝の思いを素直に伝え、 最後の最後まで〝笑顔〟を絶やすことはなかった。

筆者はいま自宅にいて、 母の遺体のすぐ側で拙稿に向かっている。 母はまるで生きているように眠っている。 その寝顔はどこまでも安らかで、 つい話しかけたくなってしまうほどだ。

元気でいてくれれば、 一緒に花見にも行けただろうし、 もっともっと面白いエピソードを提供してくれたはず…と思うと残念でならない。

通夜の前だと言うのに弔問客が絶えない。 皆さん口々に「(入院を)まったく知らなかった」「とても明るくて楽しい〝お日様〟のような人だった」 と、 最大級の賛辞を下さる。ありがたいことだ。

仮通夜の昨日は偶然にも『笑っていいとも』 (フジ) の最終日と重なった。 タモリさんに倣って訊きたい。 「お母さん、 来世も婿養子にしてくれるかな?」。 もちろん 「いいとも!」 ですよね、 お母さん。