2006/07/30

ジダンは立派な人!! - 頭突き事件はあったけど -

 第36回全国自治体職員サッカー選手権大会が28日から6日間の日程で島原市で開催されているが、たまたま飲みに出かけた先で北海道・釧路市役所の職員と会った。

 「貴方の冷たいそのひとみ、なぜに私をいじめるのー」(釧路の夜、昭和43年)と、美川憲一は歌ったが、その人たちの視線はいじわるでなかった。

 二十年近く前、鐘ヶ江市政の頃、島原で「昭和市長会」が開かれた。その折も、某スナックで当時の鰐淵俊之釧路市長(後に衆議院議員、昨年5月没)と出くわし、大いに盛り上がったことを思い出した。改めてご冥福を祈る。

 さて、サッカーと言えば、やはり記憶に新しい先の「ワールド杯ドイツ大会」だが、何と言っても語るべきは、ジダン(36)の "頭突き" 事件だろう。

 事件の概要についてはすでに各紙(誌)で書き尽くされているので、ここでは端折る。別段、暴力を肯定するわけではないが、結論から言うと、筆者はジダンを支持する。

 クーリエ・ジャポン(8月3日号)が、「ジダン伝説」と題して特集を組んでいる。マルセイユ郊外の貧民街で育ったアルジェリア移民二世がいかにして世界の頂点に君臨したか!!

 同誌によれば、ジダンは内気な天才。気取らない謙虚な性格で、母国・フランス、ルーツ・アルジェリア(アフリカ)を愛し、家族を大切にしてきた。

 ジダンの父親が生まれたのはアルジェリアの山奥の20世帯ほどの小村。ジダンは毎年、村の子どもたちに服を送り、03年のアルジェリア地震の際はチャリティー試合を召集。一方で、小学校にコンピューターを贈る運動も展開している、という。

 イタリアとの決勝戦のピッチ上で、相手のマテラッツィとどんなやり取りがあったかの "真相" はやぶの中だが、ボンズ(フランス語で坊主の意)の頭と軽やかなボールさばきが鮮やかに記憶に残る。

 「涙じゃないのよ、浮気な雨に、ちょっぴりこの頬濡らしただけさ。ここは地の果てアルジェリア。どうせカスバの夜に咲く、酒場の女のうす情け」(大高ひさお作詞、久我山明作曲、昭和30年)。

 川淵三郎チェアマン(日本プロサッカーリーグ)と一緒に早稲田大学サッカー部で活躍した朝日新聞の轡田隆文(くつわだ・たかふみ)さんが以前、ワールド・カップ観戦の楽しみ方を書いていた。

 「出場するチームの位置をまず世界地図で確認する。そのあと、その国の言語、歴史、民族構成などを調べていけば、試合が尚一層面白くなる」 - 。

 皆さん、アルジェリアがどういう国か知っていましたか?


2006/07/28

とうとう酸素までも - 水も安全もタダではない!! -

 昔、旅行会社に勤務していた頃、ヨーロッパへ添乗で出かけた。もう30年近くも前の話である。飛行機の窓越しに眺めたロンドンの芝生の鮮やかさ。金融の中心・シティー、時計台。パリに渡ってセーヌ、シテ島、モンマルトル…。

 見るもの、聞くもの全てが驚きの連続だった。が、もう一つ驚いたものがあった。「有料の水」である。そんな訳で、日本で「エビアン」のボトルを見かけた時は少しくショックだった。

 現地の観光ガイドが良く言っていた。「皆さん、このあと帰国されて気づくことがあります。水と空気と安全がタダなのは日本だけですよ」と。

 その時は軽く聞き流していたが、今となっては日本もすっかり欧米並みになってしまった。つまりは「水」も「安全」も、ひいては「空気」までも有料で売られているのである。

 先日、コンビニをのぞいていたら、何と「酸素」のボトル缶が置いてあった。ストロングミントと、グレープフルーツの二種類で「ストレスと戦う現代人に - 吸うサプリメント」との印刷。

 一缶六百円。ちょうどタバコ二箱分の値段である。一瞬 "奥様の呆れ顔" が脳裏をかすめたが、気付いた時には二缶を抱えてレジーの前に並んでいた。

 実を言うと、タバコの代わりに「酸素」を吸うことを企てたのであるが、結果からすると "失敗" だった。ガムの時と同じで、試した後はさらにタバコへの思いが募るのである。

 いつだったか、雲仙きのこ本舗の楠田喜熊社長から訊かれた。「水1リットルと、ガソリン1リットル。さぁーて、どちらが高いでしょう」。「そりゃーガソリンでしょう」と、うっかり答えてしまったが、正解は「水の方が高い」だ。

 杉谷・熊野神社の湧水が三年ぶりに復活したというニュースがあったが、石油より高価な、本当に貴重な「資源」である。もっと大事にしなければ!!

 ところで、友人の堀強氏からメールをいただいた。有明弁でこう書かれていた。「もうジャゴロんやかましかごて鳴き出したけん、梅雨明けたない」と。

 全国各地に甚大な被害をもたらした今年の梅雨。島原でも全国ニュースで取り上げられるほどの時間雨量だったが、土石流災害は起きなかった。

 「長崎の宿舎で雨音を聞くたびに、島原で土石流が発生していないかどうか心配で眠れなかった」 - 。前の高田勇県知事の言葉が思い出される。

 地域の「安全」確保には、それこそ莫大なお金がかかっている。「それは昔のこと」などと "水に流して済" む話でない。国交省や県にも改めて感謝する必要性がある、と思う。


2006/07/27

母娘でスリップ17年 - パンツ普及は白木屋火災から -

 プラスナイロン島原工場が二年連続で「ワコール最優秀工場」に輝いた記事を取材するため、先日、同工場を訪れた。

 広々とした構内は整理整頓が行きとどき気持ちが良かった。従業員の真剣な、無駄のない動きを目のあたりにして、連続受賞もむべなるかな、と思った。その時、伺った話から - 。

 ワコール社のホームページによれば、創業者、故・塚本幸一氏(京都商工会議所元会頭)は滋賀県生まれの、いわゆる「近江商人」の典型のような人物だ。

 ある日、社長宛に高知県在住の女性から小さな小包便が届いた。開けてみると、確かに同社製のスリップが入っていた。

 同封の手紙にはこう添え書きがあった。《このスリップは、亡き母と娘の私で計17年間にわたって着続けてきたものです。しかしながら、全然型崩れもしておりません。ありがとうございます。云々》

 感動した塚本社長(当時)は早速、幹部を集めてこう訓示した。「素晴らしい。これは取りも直さず、我が社の製品価値が高く評価された証しだ」。

 と、その後でポツリ。「一つ製品を永く着て下さることはメーカー冥利に尽きるが、さすがに17年間もとなると、新製品が売れないよなぁ…」。そのスリップは今でもワコール本社に飾ってある、という。

 話は変わるが、筆者が以前買った「手相」の本によると、塚本会長(当時)と筆者の手相はうり二つだ。グラビアに掲載されていた写真と見比べたもので、掌の中心部から薬指に向けて伸びる「太陽線」の在りようがそっくりなのだ。

 その本によれば、「太陽線」は事業成功者特有のもので、何人か周囲の人々の手相を見せてもらったが、ほとんどと言って良いほど見かけない。

 何も「手相」だけで人生が渡っていけるほど簡単でないことぐらい重々承知してはいるが、何とはなしに嬉しいものである。したがって、プラスナイロンの今回の受賞ニュースは、筆者にとっても "我が事" のように嬉しいのである。

 話はまたまた飛ぶが、我が国で女性がパンツ(昔はズロースと言った)をはくようになったきっかけは
昭和7年の白木屋百貨店(後の東急日本橋店)の火災と言われている。

 四階、玩具売場から出火。当時の女店員は和装でパンツをはいてなかった。腰紐などでこしらえた "命綱" をつたって避難しようとしたが、眼下には火事見物の多くの野次馬。

 風が吹く。嗚呼、見られてしまう…。恥ずかしさの余り、裾の乱れを直そうとして転落する女性が続出した。パンツ普及の陰にはこんな "悲劇" もあったのである。


2006/07/22

情けない、情けない… - 過つは人の性、許すは神の心 -

 のっけから恐縮だが、前回(20日付)の記事の中で「勝負は非情」と書くべきところを「非常」と書いてしまった。情けない…。

 で、本日のテーマと相なった次第だが、人は往々にして間違う動物だ。筆者などはその典型で、しょっちゅう「神様」ならぬ「カミさん」から怒られている。

 その考えに立つと、九月の自民党総裁選で優勢が伝えられる安部晋三内閣官房長官が「再チャレンジ社会の必要性」を強調しておられるのは、何となく嬉しい気がする。

 ところで、久々に週刊文春(7月20日号)を買って読んでいたら、作家の猪瀬直樹氏が朝日新聞の記事をヤリ玉にあげている文章に出くわした。

 『ニュースの考古学』というレギュラーコーナーで、同氏は朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」を「冗談じゃねえよ」と切り捨てている。同宣言とは、本連載を始めるに当たって紹介した「言葉に救われた。」から始まる同社の一連のキャンペーンコピーだ。

 猪瀬氏は『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した気鋭のジャーナリスト。最近では道路公団民営化推進委員としても活躍。辛口のコメンテーターとしてテレビにも良く出ているので、ご存知の方も多いだろう。

 同氏はその博学と多識をベースに、古今の事例を引きながら、川端康成や大宅壮一が通った旧制茨木中学(大阪)の名物教師、多門力蔵先生の教育論を紹介している。

 《いま君たちはじっと我慢しながら根を深く伸ばすときである。早熟なるべからず》《生徒諸君、ただいまより "読め、書くな教" を開くぞ》-。

 大体にして出版社系の雑誌は新聞記事に対し批判的だ。文藝春秋社の月刊誌『諸君』(7月号)でも "アンチ朝日宣言" の特集が組まれていた。

 筆者も本稿を書き始める直前まで「まーた始まった」とくらいに考えていたが、根が単純で素直なものだから、たちまちにしてそのロジックに丸め込まれてしまった。情けない…。

 が、「読書百返」の気合で何回か読み直しているうちに、この記事そのものが批判の矛先である朝日(整理部)と同じ過ちの渦中に置かれているのではないか、と感じた。

 見出しや構成は記事を読ませるための "技術" に他ならない。朝日を批判する文春が、その矛盾に気づいていないはずはない、と思う。

 いずれにしても私は断然、朝日の「ジャーナリスト宣言」を支持する。時に、我が愚息は件の名物先生と同じ名前なのだが、一向に書物を読んでいる気配がない。嗚呼、情けない…。


2006/07/20

数字で計れないもの - 世の中 "数値" がすべてか -

 「海の日」の20日、三会ふれあい運動広場で、新市誕生を祝う「第1回カボチャテレビ杯争奪少年ソフトボール大会」を開催。島原、南島原両市から計11チームが参加して賑った。

 前日の天気予報では「100%雨」の予想だったが、時おり「通り雨」には見舞われたものの、無事に終了することができた。改めて、板山照國・島原南高ソフトボール協会理事長をはじめ関係者の皆様にお礼を申し上げる次第である。

 さて、試合の方は予選トーナメントで勝ち進んだ旧有明町の「三之沢少年ソフトボールクラブ」と、島原市の「安中リトルファイブソフトボール部」との間で決勝戦が行われ、前者が2対0で初代チャンピオンの座に就いた。

 実は、この大会にはある種 "思い入れ" があった。噴火災害前に、それまで何十年にわたって「島原甲子園」と称して長崎県知事旗争奪の大会を島原新聞社主催で開いていたからである。個人的には「復活!!島原甲子園」というタイトルを付けたかったくらいだ。

 まあ、それはそれとして、試合はいずれも面白かった。子どもは無邪気だ。鬼監督の話を必死に聞き取ろうとする表情は真剣そのもの。

 三之沢が他より優れていたのは技術的なものばかりではなかったような気がする。特に守備の合間の "掛け声" が印象に残った。

 勝負は非常だ。どんなに力が拮抗していても最後には必ず "結果" が出る。"実力" では上回っているかもしれないチームが負けてしまうことも間々ある。人生と同じだ。

 炎天下の中、パイプ椅子に腰掛けながら、自らのソフトボール体験を反すうした。「あん時エラーして怒られたなぁー」…。会社の若手社員に聞いてみると、「島原甲子園」で、皆それぞれに "思い出" を持っていた。

 現代は、以前にもまして「数字」の世の中だ。日銀のゼロ金利政策の見直し、視聴率、偏差値、役所や企業の予算・決算、ゴルフの飛距離&スコア、果ては結婚相手の背の高さ、年収まで「数字こそすべて!!」といった塩梅だ。

 だが、果たして本当にそうか。確かに数字(値)でしか判じられないものもあろうが、計れないものの中に "もっと大切な何か" が潜んでいるような気もする。

 「美味い」「好きだ」「落ち着く」「懐かしい」…。こうした人間の感情(性)を数字で表すことは到底不可能だ。

 1点を争う好ゲームを観戦しながら、そんな他愛もないことを考えていた。と、自宅から電話が鳴った。「今日は何時に帰って来っとね?夕飯の準備ん都合のあっとやけん」。嗚呼、ここにも数字に縛られている人がいた。


2006/07/19

山本富治翁のこと - 松尾英三さん運転免許返上 -

 ほぼ一日おきのペースで本欄の執筆を始めて早二週間。反応は概ね好評だが、ブログ(ネット)への書き込みがないのは、ちと寂しい気もする。

 そんな折、元島原鉄道社長の松尾英三さん(長崎市在住)からお手紙をいただいた。ご本人の了解も得ているので、内容の抜粋(同窓会誌への寄稿の一節)を紹介させていただく。

 さらば運転免許証=私事で恐縮ながら、二ヶ月前に四十三年間保持してきた運転免許証に「おさらば」した。哀惜の念しきりだった。

 軽いスピード違反は数々あれど人身事故はない。でも目が霞み反射神経も弱ってきたことをいさぎよく自覚して「返上」を決断した。

 まもなく七十五歳になる諸兄の技能が抜群なることは信じて疑わないが、まあ、いつの日か返上か失効の折の参考にしてください。〔※後は事務手続きの諸説明〕

 元交通安全協会長の言葉だけに「含蓄」深い。余計なお世話だが、愛車のグリーンのローバー(英国製)はどうされたのだろうか。叩き売って趣味の油絵の道具にでも化けたかな。

 ところで、老人ドライバーの話で思い出した。山本屋の先代、故山本富治翁のことだ。確か晩年に乗っておられたのは白色のトヨタ・マーク?だった、と記憶しているが、前後のバンパーは傷だらけだった。

 ある時、出張か何かで国道34号線を大村空港に向かって疾駆していた山本翁の車を、白バイ隊員が制止した。

 「ちょっとスピード出し過ぎですよ。免許証見せてください」。指示通り差し出して見せると、「えっ、山本富治さんですか!?」。

 山本翁が顔を覗き込むと、そこにあったのは以前島原署に在籍していた若い警官だった。「おう、○○君か。元気にしとるかね。先を急ぐから、行くぞ」。

 今のご時世ではとても考えられない話だが、「完璧に山本翁の "貫録勝ち" だった」と、とある消息通から聞いたことがある。

話は変わるが、会社の花壇にジャガランダの苗木二本を植えている。昨年、一番街の重松花屋で買った。一本七百円だった。初めのうちは「育つかな…」と心配していたが、最近は毎日の水やりですこぶる元気がいい。

 そのジャガランダの花を咲かせることは山本翁積年の夢だった。先日、息子さんの山本蔦五郎さんがNBCラジオの取材を受け話していた。「父がそれこそ何万本も失敗した後に、生き延びているわずかな苗木の子孫が、いま花を咲かせているんですよ」。

 「大事なことは全て手間がかかって難しいもの」。鍵山秀三郎さん(イエローハット創業者)の言葉「凡事徹底」を思い出した。


2006/07/13

原点に立ち返って - 変だ!?と思ったら正そう -

 しばらく "軟ネタ" が続いたので、今日は「正を履んで畏れず」の原点に立ち返ろう。

 先日、社団法人日本ケーブルテレビ連盟からメールが届いた。開けてみると、右肩に「総情域第84号」とあり、総務省政策統括官・清水英雄名で同連盟・唐澤俊二郎理事長宛に出された文書の写しだった。

 指摘事項は「東京の武蔵野三鷹ケーブルテレビ」で、今年四月に放送された番組において『政治的公平性』が損なわれていた。加盟各社とも法令遵守を徹底せよ」というもの。
 
 より具体的に言うと、武蔵野市長から代議士になった土屋正忠さんを取り上げた同社の自主制作番組『わがまちジャーナル』の特集コーナーの内容を「問題あり!!」としている。

 この問題は、ライバル関係にある菅直人陣営からの抗議がきっかけとなって表面化。読売新聞が五月十三日付けの紙面で報道し、総務省の対応が注目されていた。

 ちなみに、武蔵野三鷹ケーブルは大手オペレーターのジャパンケーブルネット(東京都中央区)のほか、武蔵野、三鷹両市が各一千万円出資している「第三セクター」局だ。

 前置きが長くなったが、実は同じような事例が島原市内(市長選)でも起きている。しかも最も公平性を期さねばならない "選挙戦の最中" に。

 一年半ほど前のことなのでご記憶の方も多いと思うが、雲仙市内に本社を置く某局は、片方の候補者には堂々と「政見放送」という形式を取り、もう一方については「出演を断られた」との理由でテロップ&音声のみの紹介。

 さらに驚くべくは選管から注意を受けながらでも、投票日当日まで "偏向報道" をしていた。なのに、お咎めなし。

 「男はだまってサッポロビール」。往年の名俳優・三船敏郎の物真似で入社試験(面接)を切り抜けた豪の者の話も懐かしいが、もともと日本では口数が少ないことが「了」とされてきた。洋の東西を問わず「沈黙は金」の諺もある。

 しかし、果たして全てにおいてそうだろうか。最近では英文学者としてより歴史学を含めた社会評論家としての活躍が目立つ渡辺昇一さん(上智大学名誉教授)が月刊『致知・8月号』に論文を寄せている。

 『歴史の教訓』と題されたその論文は「国際社会では多弁でなければならない。日本人よレトリック(修辞)を鍛えよう」との見出しで、弱腰外交の不合理性を追及している。

 島原半島が生んだ彫塑界の巨星、故北村西望翁をともに名誉市民と仰ぐ武蔵野&三鷹でおかしいと指摘された事がどうして島原では不問に付されるのか。同じ日本なのに。これって「政治」それとも「風土」。


2006/07/12

デトックスで爽快に -身体も精神も家庭生活も-

 先日、NPO法人「がまだすネット」の定時総会があった際、同会理事長の楠田喜熊さん(雲仙きのこ本舗社長)から「女房と二人で伊豆半島に五泊の日程で『断食旅行』に行ってきました」との話を伺った。

 すぐに、石原慎太郎・東京都知事らも通う石原結實さん(長崎大学医学部出身)の「断食道場」のことを想い浮かべたが、どうも場所が違うらしい。

 ところで、最近は「飽食の時代」とやらで、食べ物に対する思いが、年配者と若者とでは、百八十度違うようだ。「食べ物は粗末にしてはなりません」VS「全てを平らげようとするから肥るのよ」との相反構図である。

 どちらが正しいか、について語っている余裕はないが、日本の食糧自給率の問題や、「毎日四千万人分の食が食べ残されています」との西日本新聞ブックレットの記事を読むと、自ずと答えは明らかであろう。

 私事だが、今や悪名高いファーストフーズに関しては懐かしい思いが募る。その一つがマクドナルドに代表されるハンバーガーだろうが、実は学生のころ、銀座四丁目角の老舗うどん屋でバイトをしていた。

 その年、銀座三越本店一階に日本マクドナルド1号店がオープン。元来、モノ好きな性格だから、昼休みを利用して私も長蛇の列に並んだ。コーラと一緒に流し込むアメリカの味!!

 それからは、仕送りや奨学金、バイトの金が入るたびに「マック」「ケンタッキー」に通い詰めた。牛丼の「吉野屋」で、九州から上京してきた高校の同級生と学生証を "質札" 代わりにコップ酒をかっくらったこともある。

 イカン、イカン。ここは私の「自分史」を語るコーナーではなかった。今日のテーマは「デトックス」だった。横文字でいうと何となくそれらしい響きだが、要は「解毒」のことだ。

 私はかなりのヘビースモーカーなので恐らく肺の回りはすでに真っ黒だろう。以前、サウナで一緒になった「みそ半」の松永忠徳社長も「こがんして体内からニコチンやタールば出すと」と言っていた。私もそう信じ、実践している。

 先日の休み、普段の罪滅ぼしに、と嫁さんと一緒に雲仙ビードロ美術館の岩盤浴に行った。水を補給しながら一時間。めったに家庭を顧みようとしない私の日常に対する奥様の不満は、大粒の汗とともに少しはデトックスされたかな?

 最後に「非家庭的」と言えばモンテスキュー(フランス公法学者)につきる。柴田錬三郎によれば、この学者は同じ敷地内に離れの書斎を持ち『法の精神』などの名著を執筆していた。

 ある時、召使いが慌てふためいて「旦那様、家が燃えております」。答えて曰く「そんなことは奥さんに言え、奥さんの仕事だ」。


2006/07/11

男の目指すべき道は - 「チョイワル」より「不良」 -

 暑い。クソ暑い。以前「夏だから、暑かぁー」という麦茶か何かのCMがあったが、本当に蒸し蒸しする。

 てな訳で週末、散髪に行った。店主「どがんしましょうか?」。筆者「暑かけん、バッサリ短めに」。店主「ヒデ(中田英寿)みたいにしましょかい」。

 で、出来上がったのが今の髪型で、どう見てもヒデにはほど遠い。鏡を見つめながら「はなわ(『佐賀県』を唄ったお笑いタレント)か、出川(哲朗)じゃないか」と思い至った。

 失意のうちに家に帰ったところ、勉強は不得手だが、やたらと調子の良い中二の三男が「よっ、チョイワルオヤジ!!」と冷やかしてきた。

 「チョイワルオヤジ」と言っても、ご年配の向きには分かりづらいだろうから、少し解説させていただく。

 主婦と生活社が出している男性ファッション誌「LEON」で有名になった流行り言葉。イタリア人エッセイストのジローラモが表紙を飾っている、売れ筋雑誌だ。一冊七百八十円。

 ところで、本連載を始めるにあたって、私は自らを「不良中年」と称したが、それと「チョイワルオヤジ」とは一体どこがどう違うのか?

 「不良中年」。私が初めてこの言葉に出合ったのは、作家の嵐山光三郎さんの文庫本(講談社)だ。その本のタイトルは『「不良中年」は楽しい』。

 嵐山光三郎。本名、祐乗坊英昭(ゆうじょうぼう・ひであき)。平凡社『太陽』の元編集長で、インテリ然としていない気取らない文体、文脈が楽しい。

 一読後、私は感動(!?)の余り10冊ほどを取り寄せ、同じ「不良中年」の臭いを振り撒いている連中に献本した。みんな、読んだか?

 何が面白いかって、生き方が尋常じゃない。『太陽』の編集長まで務めた御仁が、目指して乞食になり、仲間と新たに出版社を立ち上げたかと思ったら、儲けた金は株でスッカラカン。それでも凝りずにバイクにスキューバダイビング…。

 こうした "実体験" を通じて培われた「古今の人を見る目」は、凡人をして「なるほど、そうか」と思わず膝を打たせてしまうのである。博識、慧眼。

 この人の筆にかかったら、俳聖・松尾芭蕉も、ノーベル賞作家・川端康成も、平塚雷鳥(女性運動家)も、一休さんも…みーんな「不良○○」なのである。詳しくは本書を買ってお読み下さい。

 これに対し「チョイワル」方は、ファッショナブルで表層的。深みがない。やはり人間は生き方(中身)で勝負。目指すべき道は「不良○○」だと改めて思い直したが、『人は見た目が9割』(新潮社)という本が売れているのも何となく気がかりだ。髪はまだ伸びない。


2006/07/08

仰天!!カラスの隣人愛 物事は「俯瞰的」に見よう

 長崎いすゞ自販の元常務、三宅一光さんは「オイは国家公務員」と言って憚らない色黒の大先輩である。それなのにゴルフ前には必ず日焼け止めクリームを塗る。不思議だ。

 えっ国家公務員!??何のことかと思って聞いてみたら、ギャングのような顔をほころばして「もう年金生活者じゃんば」と。

 三宅さんは現在、某社の顧問を務めるかたわら、ゴルフ集団「花みずき会」の会長としても活躍している。先般、佐世保でコンペがあったが、生憎の落雷騒ぎで中止になった。カラスの話はその時に伺った。

 場所は、この春再スタートを切った雲仙ゴルフ場4番のミドルホール。ナイスショット!!三宅さんのドライバーから放たれた低い弾道のボールがグリーン上のカラスを直撃した。

 良く観光バスのガイドさんが「雲仙のカラスはイタズラ好きでゴルフボールをくわえて逃げるんですよ」などと説明してくれるが、的代わりに「当たってしまった」のである。

 それから後が、カラスの話だが、尾も白かった!?(「面白かった」の意味・いわゆるオヤジギャグの一種、スイマセン)。

 直撃を受けたカラスはその場でバッタリと倒れヒクヒク。すると、仲間と思しき四?五羽のカラスが見事に役割分担をしながら嘴(くちばし)にくわえて運んで行った、という。

 搬送先が動物病院か県立島原病院かは知らないが、何と麗しき隣人(烏)愛!!困っている人を見ても、知らんぷりして通り過ぎる昨今の風潮を顧みて、「ひょっとして人間以上じゃないか!!」と感動した次第。

 この話を島原振興局の人に話したら、「カラスは一夫一婦性で、仲間意識が極めて強いんですよ」と教えてくれた。

 と、その話を傍らで聞いていた同局管理部長の池内潔治さんがポツリ。「そう言えば、対馬支庁時代、釣りに行った先で、せっかくの釣果をトンビにさらわれたことがあった」と。

 「あん時はもう苦労したばい。まーだ針も付いとって、トンビがギャーギャー騒ぐもんやから、虐待しているようで恥ずかしゅうーして」…。遠くを見やるような目つきが印象的だった

 烏、なぜ啼くの、烏は山に、可愛い七つの子があるからよ〔『七つの子』野口雨情作詞、本居長世作曲、大正11年〕

 「人間は万物の霊長」と言われるが、驕り高ぶっていては先が危ない。カラスの美談が我々に教えてくれるものは何か。

 「俯瞰的」とは、「鳥瞰的」とも言い換えられる。我々も「鳥の眼」をもってチマチマと目先の利益にばかり捉われないようにしなければ。さあ皆さん、カラスに倣って今日は早くお家に帰りましょう。


2006/07/07

情操教育に草むしりは 畑は色んな事を教えてくれる

 ♪わたしはまっかなリンゴです。お国は寒い北の国。リンゴ畑の晴れた日に箱に詰められ、汽車ポッポ。町の市場へつきました…♪。〔『リンゴのひとりごと』武内俊子作詞、河村光陽作曲、昭和15年〕

 三番摘みのカボチャのヘタにハサミを入れながら、昔うたった童謡を憶い出した。冒頭の歌詞はインターネットで調べた正しい内容だが、私の場合はヒガ覚えで「果物店のおじさん」(○)でなく、今まで「リンゴ畑のおじさん」(×)に顔を磨かれていた。

 うっとうしい梅雨が続いている。『こぼれ話』(六月十一日付)でも紹介したように「カボチャテレビではいま、本物の南瓜を作っている」。週末には四度目の収穫を予定。その数は合わせて三千個を超えそうだ。

 一方で「ジャンボカボチャ」の栽培にも取り組んでいるが、こちらは何とも難しい。やっと実がなり、バスケットボール大に生長したかと思ったら、一晩で空気が抜けたかのように腐ってしまう。

 初めての経験なので皆目原因が解らない。宮本秀利さん(宮本造園社長)に愚痴をこぼしたら、「そげん簡単にいくもんね。みんな悔しか思いばしながら、段々上手になっていくとやけん」と一笑にふされた。

 ジャンボは林田正剛さん(林田観光バス社長)の土地を借りて作っている。ウドン粉病も怖いが、何と言っても難敵は「雑草」である。スギナ、ツユクサ、ヨモギ…。いずれも手強い。

 今年の初めだったか都会のアスファルトの隙間から生え出してきた植物に「根性ナントカ」という尊称を冠してワイドショーが騒いでいたが、雑草に根性などあるはずもない。あれは植物そのものが持つ習性&本性である。

 ヨモギは薬草の一種であるが、石垣脇の根の張りようは尋常ではない。取っても、取っても…尽きることがない。その力強さからして "薬効" のほども推して知るべし、だ。

 旧瑞穂町役場からもらったジャンボの苗は30本。当初の意気込みに反して、現在の実の数は5個。果たして梅雨を越して、真夏の正念場を迎えられるか。

 ところで、草むしりをしていて時々思う。「これって、ひょっとして子供の情操教育に向いていないか」。土の感触もさることながら、取られても、取られても怯まずに次々と芽を出してくる強じんな生命力。まさに生きた教本だ。

 ダンゴムシ、ゲジゲジ…。どうしたわけかカニまで出てきた。湿った草わらの中に眠っていた体長10センチほどのムカデは黒い胴体に真っ赤な脚。さしずめ昆虫界のポルシェか。

 畑(自然の世界)は色んなことを教えてくれる。


2006/07/06

橋本龍太郎元総理逝く 禍福はあざなえる縄の如し

 橋本龍太郎元総理が一日、死去した。先輩の中曽根康弘氏(88歳)や宮澤喜一氏(86歳)のことを思えば、「68歳」という享年は早すぎる気がする。ともあれご冥福を祈る。

 ところで、橋本さんで思い出すのは鐘ヶ江管一さん(元島原市長)の話。災害当時、橋本さんは大蔵大臣だったと記憶しているが、必死で "特別立法" の必要性を訴える鐘ヶ江市長に対して「生活保護(法)があるじゃないですか」と、ニベもなかったとか!?

 苦みばしったマスクとクールな物言いが一時期世間を席巻した。小泉現総理の「純ちゃんブーム」に先行して、橋本さんは、その気位の高さを象徴するかのように「龍さま」と呼ばれ人気を博した。

 島原入りしたこともある。久間章生衆院議員(現自民党総務会長)の応援演説だったと思うが、大手広場で拍手を交わした松井大助前島原市議会議長の娘さんが「もうしばらく手は洗いません」。

 趣味は、プロはだしのカメラと剣道。息子さんも慶応大学の剣道部に所属し、島高から早稲田の政経に進んだ、セブンストーンのバアチャンの孫息子(全日空勤務)と関東学生剣道連盟の運営で親しくしていた、との話も思い出した。

 それにしても訃報を聞いて「人間の運、不運」を思った。片や "卒業旅行" でお気に入りのプレスリーナンバーを口ずさむ小泉総理。一方で不起訴になったとはいえ、献金疑惑の中で人生の幕をおろした橋本元総理。奇しくも二人とも慶応OBだ。

 訃報と言えば、島原城薪能復活の牽引車だった赤星政之助さんも去る六月十一日、九十六歳で天寿を全うした。何度か取材したことがあるが、視線の鋭さに似合わず、やさしい口調で話される方だった。

 普賢岳災害から十五年が経って、人々の記憶も段々と薄れてきている気がするが、先の橋本発言があった当時の島原は街全体が "殺気立って" いた。

 「湾岸戦争にはあれだけの巨費をつぎ込みながら島原の住民を見殺しにするのか」「特別な災害なのになぜ特別立法を制定しないのか」?。街には「不安」と「不満」が充満していた。

 そうした "住民の率直な思い" をいち早く察知して動き出したのが呉服の丸三社長の高橋三徳さんだった。島原新聞紙上でまず高橋さんが先陣を切り、次いで赤星さんが論陣を張った。こうした動きが後の「島原生き残りと復興対策協議会」の誕生へとつながったのである。

 高橋社長が逝ってもう三年。水無川流域は見事に復興し、噴火前より活気づいている人々さえいる。まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」。小泉総理もいつまで鼻歌まじりの人生が続くのだろうか。


2006/07/01

正を履んで畏れず!! 言葉のチカラを信じている

 戦前 "ダルマ宰相" として親しまれた高橋是清は爵位をなげうって衆議院選挙(大正13年)に出馬した際に「生を踏んで恐れず」との言葉を残した、と言われている。〔津本陽著『高橋是清の生涯』幻冬舎〕

 何とはなしに気にかかっていた語句だったが、つい先だって、宅島壽雄さん(宅島グループ会長)から「履正不畏」という色紙を見せてもらって調べているうちに、ようやくその出典と意味がわかった。

 平凡社刊『字通』(白川静著)によれば、「履正」(りせい)とは、正道を行うこと。続いて〔三国志、魏、崔林伝〕…云々とあったが、察するところ「正しいことを行おうとする時に恐(畏)れるな!!」という教えだろう。

 今日から本欄を借りて今流行の「ブログ」風のエッセイを週に二、三回のペースで掲載させていただくことになった。最初にお断りしておくが、本欄はあくまでも「意見広告」のスペースであって、島原新聞社の編集とは一線を画すものである。文責はあくまで私個人である。

 この先、どういった方向に進むかはまだ決めかねている。ただし、商売柄、色々な分野の人とお会いする機会も多いので、その時々で、感動したことや気に入ったフレーズ、箴言などがあれば、積極的に使わせていただくこととする。

 なぜこのような企画を思い立ったか、について少し語っておこう。多くの方々もそうだろうが「とにかく今の世の中は狂っている」としか言いようがない。

 連日のように報道される尊属殺人、カネの亡者たちの言動…。

 かく言う私にしても「聖人君子」にはほど遠い欠点だらけの「不良中年」だが、少なくともハートはある。本当に拙い文章だが、このうっ積した思いを何とか読者の皆さんにお伝えしたい。その一心である。

 先日、久しぶりに上京して山手線に乗った。そこで見かけたのが、朝日新聞の車内広告。そこには「ジャーナリスト宣言。」と題して、こう記されていた。

 <言葉に救われた。言葉に背中を押された。言葉に涙を流した。言葉は、人を動かす。私たちは信じている、言葉のチカラを。>

 人目もはばからずデジカメに収め、復唱した。「そうだ、言葉はチカラなのだ」。バカボンの父ちゃんに良く似ている、と言われるが、高村薫風に言うと、「私は確信をもって "ひとりごちた" 」のである。

 これは余談。是清は初代特許庁長官で総理、蔵相のほか日銀総裁も務めたが、その生涯は米国農場の奴隷、芸者遊び、ペルーでの銀山開発の大失敗などと波乱に富んでいる。福井俊彦さん(現総裁)は若いうちに遊んだのだろうか!?